After Winter days

恋と呼ぶには苦い、愛と嘯くには甘い

暫丸ざんまる、どうした?」


 すでに陽は落ち、公園内の古びた外灯が弱々しく光る夕暮れ。薄明に取りこぼされて、端々に暗闇が転がる中を、その黒に紛れそうな暗色の柴犬が散歩していた。

 ブランコの前でふいに足を止めた彼を見て、飼い主であろう女性――同じく暗がりに馴染むような黒色系のパンクロックファッションをまとっている――は訝しげな声を上げる。


 暫丸と呼ばれた犬は虚空を見つめ、ぐるる……と唸り始める。

 女性もすぐに警戒態勢に入った。首輪からリードを外して犬を自由にしたあと、革ジャンの懐に手を入れ、自身も腰を落として周囲をじっと睨み回す。

 人間ゆえ特別製の鼻は持っていないが、彼女の五感も一般人のそれよりは性能が高い。


「……、五人。こんな時間にパーティーでもやってんのかよ」


 彼女はぽつりと呟いて、――直後に背面から飛びかかって来た人影を、振り向きもせずに切り裂いた。


 手にしているのは鍔も反りもない短刀。刃の表面には淡い桃色の煌めきが躍り、斬撃の軌跡にも同じものが名残っている。触れれば消えそうなほど儚い、炎と呼ぶには幽かすぎる熱の花が、苔生すようにして敵の身体をたちまち覆い隠していく。

 一瞬の攻防は、ただの始まりにすぎなかった。

 闇から同じように漆黒を纏った影が次々に現れては。女性と犬に襲い掛かる。しかしどれも大した脅威ではなく、短刀と牙の前に次々に敗れ去っていった。


 ばわわん! 暫丸はけたたましく吠え、容赦なく敵の喉笛を食いちぎる。

 そのつど牙が淡い閃光を放ち、倒れた人影たちは断末魔すら上げずに、その場でぐしゃりと音を立てていった。


「ったく、何が……」


 言葉はそこで一旦途切れる。


 五人。確かに最初そう判断した。辺りから漂ってくるの数だ、間違えるはずがない。

 ――いや、今回に限っては相手が悪かった。数え忘れるのも無理はない。


「ッ!」


 女性の肩から血が噴き出す。痛みに呻くより先に、素早く数メートルも後退った。――そうしなければ死んでいた。

 勘定外から現れた六番目の刺客は、闇夜と同じ色をした長い裾をひらりと風に遊ばせながら、一刻の猶予もなく追撃を重ねる。目深に被ったハンチング帽の下から、一瞬だけそいつの眼が見えた。腐った林檎のような赤黒い瞳が。


 短刀が受けるのは鋼の爪だ。金属製の長い鉤爪を備えた手甲、それが相手の武器である。


「……久遠くおん。おまえが直接に来るなんて珍しいな」

こう様の命だ」

「相変わらず思考停止の駄犬野郎だね……ッ、おまえより、うちの暫丸のほうがよっぽど自分てめえってモンを持ってるよ」

「ああ、尻尾を巻いて逃げたようだな。的確な判断だ」


 久遠と呼ばれた男――見た目は十代前半、それも眼を見張るような美少年――は冷淡に返した。彼の言うとおり黒柴の姿はすでに闇に消えている。


 二人は顔見知りである。むろん敵同士として。

 両者が初めてまみえたのは何年前だったか、もう憶えてもいない。


 現代社会にも忍者と呼ばれる集団が生き残っている。女性はその一員として生まれ育ち、物心ついたころから武器を握って、久遠のような怪物たちと戦う道を歩いてきた。

 すでに外見上の歳は越えてしまったが、目の前の「少年の形をしたもの」は彼女が生まれる前から同じ姿で生きている。いや、死んでいる。これはただの動く死体、言うなれば俗にいうゾンビを、より厄介にしたような化け物だ。

 他者の生命を奪略して活動し続けるトコシエ。彼らが無秩序に謳歌する、呪わしい不死身の命に終焉を刻むこと、それが現代忍者・きざみ衆の使命である。


 最初に襲ってきた五人のような、恐らくの弱いトコシエなら大したことはない。

 問題は久遠のような忍術を会得している個体だ。彼らの王にして原初のトコシエ「劫」の子飼いの部下たちは、刻衆であっても容易に倒せる相手ではない――長く活動しているぶん、いつだって相手のほうが経験値が高いのだ、忌々しくも。


 つまり女性は圧されていた。ダメージジーンズの破れが次第に増えている。

 外灯に照らされた地面には点々と血痕が散り、時間が経つほど息が上がっていく彼女に対して、初めから死んでいる久遠の呼吸は乱れようがない。


 手甲鉤が彼女の脇腹を裂いた。勢いで軽く数メートルは転がって、苦痛に小さく呻き声を上げる。


「っう……ちんたら嬲りやがって、悪趣味なんだよ……」

「楽になりたいのなら抵抗しなければいい。ところで、死後にこちらへ下る気はあるか?」

「あるわけねぇだろ。……もういっぺん死ね」

「……やはり無駄な問いだった。わかってはいたが、劫様が一応訊けと仰ったから……」


 久遠は小さく溜息を吐くと、這いつくばっていた女性を腰の上から踏み付けた。衝撃で脇腹から血が噴き出し、激痛に喘ぐ彼女を冷酷に見下ろしながら、両手の手甲鉤を十字に重ねる。

 ぼそぼそと何事かを呟くと、鉤爪の先に橙色の光が灯った。それで女性にとどめを刺そうとしているのは明白だった――が。

 悪魔の火が彼女に届くことは、なかった。


 犬の遠吠えが聞こえた。


玉響たまゆらァッ!!」


 風切り音をかき消す怒号とともに、白銀の光が久遠を薙ぎ払う。生ける屍はそれを躱すが、僅かに間に合わなかったか、片肘から朱線が散った。

 死体ゆえ大した苦痛は感じないものの、無作法な乱入者へ向けられる視線は険しい。

 だが、それも永くは保たなかった。今来たばかりの助っ人とは反対方向から、また別の攻撃が久遠を穿ったからだ。


 凶刃は濡羽色。闇を味方にした、紛うかたなき暗殺者の剣。


 久遠は血反吐を噴きつつも、身をよじってその主から短刀を力ずくに奪う。どうせ痛くはないし、引き抜かれるのを待つより、このほうが早い。

 しかし相手もそれくらいは読んでいた。一瞬後には刀身が

 屍の腹には穴が空き、爆風に吹き飛ばされた短刀は、持ち主の手中へ還る――黒髪を後頭部でひっつめた、中年の女だ。鋭い眼光を除けば、そこらの主婦にも見えるほど平凡な装いの。


 さすがに胴の中心を破壊されては、屍とて満足な動きは適わない。ふらつく久遠に再び熟練くのいちの斬撃が見舞われる。


「……火印を以て、金象を剋す……ッ」


 肩の上に一撃を受けながらも、久遠は腹の穴を無理やりに塞ぐと、跪いた姿勢をいいことに手甲鉤で地面を抉った。そのまま目潰しよろしく土砂を空中に撒き散らす。

 舞い上がった土埃はそのまま燃え上がって久遠を包んだ。元よりさほど大柄でもない少年の身体は、たちまちに炎幕に隠されて見えなくなる。


「水印を以て火禍を剋す。……逃げたか」


 中年の女は短刀――匕首あいくちを鞘に納め、懐へ戻した。

 ふり返れば犬と若い男女がいる。女は傷だらけで顔色も悪く、男は彼女を背負おうとしているところだった。

 暫丸はピスピス鼻を鳴らしながら心配そうに彼女を見上げている。この忍犬が正確に状況を判断し、素早く救援じぶんたちを呼んでくれたおかげで間に合った。


「玉響、暫丸に感謝しろよ。散歩中で命拾いしたな」

「ぅ、……」

「……。わかった。喋んな。

 頓子とみこさん、早く帰りましょう」


 頓子と呼ばれた女は頷き、匕首を仕舞ったのとは逆の内ポケットから、小さなポリ袋に入った粉を取り出した。それを辺りに転がっていた死体たちに振りかけると、まだ血の気の残っていた彼らから急に水分が失われて干からびる。

 ミイラ状になったトコシエたちは、久遠と同じく爆発し、微塵に砕けた。続けて頓子が小声で何事かを呟けば、突風が吹き荒れてすべてを散らしていく。

 初めから何もなかったように、跡形もなく。


 彼らはそこらの一般市民の中から、陽動役として数合わせで用意されただけの被害者だ。だが、いちいち身元を調べて家族の元に送り返してやるには、すでに業を背負わされすぎている。

 死んでも死ねない身体に陥れられた以上、肉体を活動不可能な段階まで破壊するしか対処の術はない。少なくとも今の刻衆が擁する技術では、これが限界。


 頓子はもう一度、玉響を見た。多くが孤児で構成される刻衆において、唯一戸籍上ではなく血縁関係にある、血を分けた己が娘を。

 彼女が殺されかけたのは、自分と同じ道を進ませたからだ。血と業に彩られた忍の人生を。


「……瞬間シュンマ、帰ったら玉響は鳥渡とわたりに預けて鍛錬なさい。次に誰が襲われても対処できるように。貴方も、下の子たちも、全員がもっと強くならなければ我々に未来はない」

「はい。……とくに刹那せつなだ。奴らの目的はあいつに決まってる」

「でしょうね。あの子が新人も急いで育てなければ。あれを刹那の弱点にしてはいけない」

「それが一番難しいんですがね……」

「できなければ私が二人を始末します。全員を守るにはそれしかない」


 厳しすぎる頓子の言葉に、シュンマは肩を竦めた。その頬越しに玉響が寂しそうな眼で母親を見つめている。

 足許には、ただせっせと歩くだけの柴犬がいた。



***



 玉響はしばらく眠っていた。次に目を醒ましたときはもう日暮れで、寝すぎてカラカラになった喉に水を流し込むのに労しない程度には、それなりに回復もしていた。

 寝台の上に起き上がって我が身を眺めるに、なんと傷の多いこと。久遠にやられた脇腹だけでなく、肘やら膝やら背中まで、なんの痕もない場所など残っていないくらいだ。戦闘はもちろん、厳しい訓練の中で負ったものある。

 これはもう若い女の身体ではない。我ながら、ろくでもない人生だと思う。


「お。……眼ェ醒めたか」


 ぼうっとしていたら扉が開いて、手に袋を提げたシュンマが立っていた。同じ歳で、彼が刻衆に引き取られてきた六歳よりの仲だから、幼馴染みとか腐れ縁と呼んでいいだろう。

 腹減ってんだろうと思ってな、と軽食をサイドテーブルに並べられる。強面のくせに気が利く。


「……飯もいいけど、その前に煙草。持ってんだろ」

「あ? 食ってからにしろよ」

「今欲しい」


 シュンマは不承不承という顔で、胸ポケットの箱からつまみ出した一本を投げて寄越した。それからライターを持った手が差し出される。

 煙草といっても中身は科学部隊・鳥渡謹製の兵糧丸の一種である。忍は身体を資本とするため、運動機能を低下させるおそれのある嗜好品は御法度として、代用品が作られた。

 気分が出るようにわざわざ香りや味を本物に似せている。


 少しだけ紫煙を吸い込んで、それを喉に行き渡らせたあと、玉響はシュンマの襟を掴んでぐいと引き寄せた。

 かじりつくようなキスを彼は拒まない。玉響の傷にひびかないように、わざわざ腰を落としてそれを受け入れた。シュンマの膝が寝台に乗り上げて、ぎしりと甘い軋みを上げる。


「……。満足か?」

「ん」

「つーかなんで毎回……煙草くらい自分でもらってこい」

「別に好きなわけじゃないし。ただアンタと……ヤニ臭い口とキスすんのは、こっちも吸わなきゃやってらんない」

「そうかよ」


 シュンマは呆れたように息を吐いて、どさりと隣に腰を下ろした。

 彼がこちら側に来てからもう二十年。揃って辛い修行に耐えた子どもは大人になり、今は互いが男と女であることを知っている。


 二人が暮らす忍の世界は無機質だ。たとえばシュンマの養父母のように、夫婦になるのは養子縁組を円滑にするためであって、そこに愛は要らない。

 形だけの両親に行き場のない孤児みなしごを組み込んで、法律上の親子を作るのだ。何世代もそうやって「次の部品」を補充している。


 つまりは二人とも、なりたくて忍者になったわけではなかった。だとしても今さらこの路の外など歩けない。

 だから一番近くに居る者と、そっと痛みを分かち合うが関の山。


 玉響にとってそれはシュンマだった。ただそれだけのことで、たぶん彼にとってもそうなのだろうと思っている。そうであってほしい。

 ままならぬろくでもない人生で、彼女がたったひとつだけ望むこと。


 それを確かめるように、時々、甘くて苦いキスを求める。




 ・・・* Kiss me bitterly *・・・



「……。アンタのヤニのせいで飯がクソまずい」

「だから食ってからにしろっつったろ!」

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