秘密の鍋は【検閲により削除】の香り

お題:鍋

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「やあ、災難だったね。調子はどうかな?」


 ぼんやりした視界の中、頭上の蛍光灯を遮って誰かの頭が揺れている。ポニーテールのシルエット。右手の指先だけ、ほんの少し温かい。

 出海いずみは二、三度瞬きをして、声がしたほうに視線を向けた。


 いかにも知的な雰囲気の、銀縁眼鏡をかけた優しそうな顔立ちの男性が、カセットコンロに載せた雪平鍋をかき混ぜている。ぐつぐつと何かが煮える音が耳に優しい。

 ノルディック柄のセーター姿も相まって、ココアか甘酒でも作っているような風情だが――あたりにはチョコや酒粕とは似つかない、なんとも言えない悪臭が漂っていた。


 出海の視点は低く、どうもベッドに寝かされているようだ。ひとまず身体を起こそうとするがぴくりとも動かない。

 あれ、と思って寝転んだまま己の身体を見た出海は、絶句した。両の足首と太腿、腰、手首、二の腕、胸、あと恐らく首までもが、革ベルトで寝台に固定されていたのだ。


 ――なんだこの状況……!?


 右手首だけは解放されている。そこに出海の肘から先を抱きしめるようにして手を握る、少女の姿があった。


 彼女、刹那せつなは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。


「セツ……俺、は……」


 一体何があったんだっけ、と言いかけて、思い出す。妙な女に襲われたことを。

 それだけならまだしも、女はその場の全員に聞こえるような声で言い放った――「あなた、もう死んでるじゃない」と。


 冗談や比喩ではない。事実、落合出海は死んでいる。

 不運な事故で命を落とし、くのいちである亥刀いわき刹那の忍術によって、彼女の生命力を奪って動く屍『トコシエ』として蘇ったのだ。


 喩えるなら人間同士のコードレス充電。その効果範囲を出ると途端に動けなくなってしまうため、彼女の隣室に越さねばならず、やむなく刹那が所属する忍組織「きざみ衆」に身を寄せることになった。

 忍者はトコシエの抹殺を使命としている。ゆえに正体がバレないよう必死で隠してきたが……正月早々敵に襲撃され、みんなの目の前で刺された挙句死ななかったので、とうとう露見してしまったのだ。


 ――つまり俺、殺されるのか。


 合点がいった。かなり厳重に拘束されているのも刹那が号泣しているのも、そういう理由なのだと。

 意外に冷静でいられるのはもうすでに一度死んでいるからだろうか。それとも、死体の脳にはもう激しい感情を表現できるだけのエネルギーが残っていないのか。


「あのさ、出海ズミ……私さ……あんま、謝んないように、してたんだ……」


 ぎゅっと手を握り締めて、震える声で刹那が言う。


「だって謝るのって、私の自己満足じゃん。許してほしいってことになる。……人ひとり殺しといて、人生まるごと奪ったのをさ、許してもらおうなんて虫が良すぎるっしょ……。

 だから。……ズミが怒って、謝れって言われたらいくらでもそうするけど、私からは許しを求めちゃダメだって……そう……思ってて……ッけど」


 鼻を啜り上げて、


「ズミは一回も、私を責めなかった……だからさ……謝る機会、ぜんぜん、なかっ……」


 握られた手にぽたぽたと雫が落ちた。それがとても温かかった。諸々の感覚が弱くなったこの身体は、彼女がもたらす命にだけは過敏に反応する。

 刹那は繰り返し謝罪の言葉を口にした。壊れてしまったように、もうそれしかなくなってしまったように。

 その姿があんまり哀しくて、今朝二人で引いたおみくじの内容を思い返す。……彼女のこんな姿を見る羽目になるなんて、まったく、これじゃあ大凶でも足りないくらいだ。


「ごめんなさい……ごめん……なさい……ッ」

刹那セツ、……いいよ……もう、わかったから……」

「でも……っ」


 最期に見るのが泣き顔だってほうが嫌だよ、と出海が言いかけた、そのとき。


「ねえお二人さん、僕がいること忘れてないかい??」


 場の空気にまったくそぐわない、明るく穏やかな声がした。刹那がはっと顔を上げる(出海は頭も固定されているので視線だけ準ずる)と、そういえば当初から同席していた眼鏡の男性がこちらを見ている。

 手元は相変わらず雪平鍋をぐるぐるやっていて、よほど焦げ付きやすいものを煮ているのだろうか。


 彼は鳥渡とわたり一寸かずき。名前の字面から通称イッスン。

 刻衆のひとりであり、その表向きの顔・日ノ寺コーポレーションなる企業が所有する、なんとかかんとか科学研究所の職員でもある。施設の正式名称は忘れた。

 ともかく科学・医療方面に秀でた技術担当の忍者だ。


 イッスンは刹那の頭を優しく撫でながら、そんなに泣かなくてもいいよ、と朗らかに言った。


「とりあえず結論から言うと、今のところ出海くんは殺さないから」

「……え?」

「なんか今お別れの時間みたいな空気になってるけど、そんな無駄なことするわけないじゃないか。殺すならとっくに処分してるよ。ははは」


 いや、笑うところ?――出海と刹那は揃ってポカンとした。

 話している内容と声音が合っていない。高校生たちのまとう重すぎる空気を緩和しようと、わざと明るく振る舞ってくれている……のだろうか?


「と、いうかね。もともとトコシエは刻忍術から生まれた歪みだ。だから我々の手で始末をつけなければならない……というのが前提。

 だから身内からトコシエが出ることくらい、前例がないわけじゃないんだよね」

「え……そんな話、今まで聞いたことなかったけど……記録にも……」

「まあぶっちゃけ恥の記憶だし、積極的には言えないよね。でも僕が管理するデータには、明らかにトコシエが協力しなければ得られない情報も含まれている。つまり出海くんのように自我を保ったトコシエがいて、恐らくは助命の対価に協力させられてた、ってところだろう」


 そう言ってイッスンはどこからともなく古いノートを取り出した。和綴じのうえに表紙も和紙という非常にクラシカルな品で、題名に至っては流麗な筆文字の行書なので出海にはまったく読めない。

 たぶん中も似たようなミミズ文なんだろう。たしか刻衆自体は江戸時代からある古い組織だとか聞いた気がするから、技術班ならそんな文章だって読みこなせなければならないわけだ。


 ともかく、出海は一命をとりとめた。それだけが今わかっている確かで幸運な事実。

 刹那と手を取り合って喜びたいのはやまやまだが――ならばこの、まるで暴れる獣に対するかのような、やたら厳重な拘束具の数々は一体なんなのか。


「あの女は〈最古の永〉の一人でね……彼女たちは元は僕らの同胞で、そして今もトコシエを増やしている。それも当人の意向を無視して、勝手に殺して蘇生する、という極めて邪悪な方法で。

 そこで『意図せずトコシエ化された一般人を救済する術』の研究をするために設置されたのが鳥渡の一門だ。僕としては出海くんも救うべき対象だと思っている」

「あ、ありがとうございます。……あの、ところでこれ外して……」

「まあまあ、話はまだ終わってないよ。

 残念ながらトコシエ化した時点ですでに死んでいるわけだから、もちろん真の意味で生き返らせるなんて奇跡の業は存在しえない。我々は神ではないからね。せいぜい自我と理性を保ち、本人が望む方法で安らかに果ててもらうってのが関の山だよ。

 根本的に解決するには、そもそもトコシエを生まない他ない。……とはいえ、犠牲者をそのままにしてはおけないからね。せめてもの慰めとして、人間らしい余生を送ってもらいたいと思ってるよ。

 僕らはそのためにトコシエを研究している。そして科学の進歩には、やはり人体実験が不可欠なんだ」


 ……あれ、なんか話がまた不穏な方向に行っている気がするのはなぜだろう。すごく訊きたくない単語が耳に入ってきたような気がするが、今の出海は両腕を動かせないので耳を塞ぐこともできない。


「つまり長くなっちゃったけど簡潔に言うと、今日から君は僕の実験動物モルモットだよ!」


 最悪なまとめられ方した。

 しかも良い笑顔で高らかにモルモットとか言わないでほしい。いくら身体は死んでるからって人権無視はいかがなものか。なんだこのマッドサイエンティスト。


「てかイッスンさん、ズミに何する気なん? まさか切り刻んだりとかしないよね……?」

「ああ、そういうのはもう過去に実例あるから」

「あるんだ……」

「それより新しく開発した薬剤の投与試験だよね、圧倒的にデータが足りないのは。なかなか自我の残ってる個体は見つからないし。

 というわけでさっそくだけどこの鍋の中身をひと匙飲んでもらおうか。ちょっと臭うしたぶん味もひどいと思うけど、死ぬよりマシだと思って我慢してくれ」


 ああ知りたくない事実の数々。何のために切り刻む必要があったのかわからないけど知りたくもない。きっと絶対に碌な理由ではなさそう。

 ともかく身動きのとれない出海に、イッスンが素敵な笑顔のまま鍋から掬った暗黒の香りを放つ謎の液体を近づけてきた。


 絶妙な悪臭だった。ひどい喩えで恐縮だが、体調が悪い時の排泄物を連想させる激臭である。

 とうとう刹那が出海から手を離して顔を背ける始末。眼が痛い、という呟きが聞こえる。幸か不幸か出海はもう死んでいるためそこまでは感じ取れなかったが、粘膜に痛みが生じるレベルの刺激臭って、それはもう毒物の領域なのでは。


 ――死ぬよりマシって、これは死ぬよりキツそうな気がするんですけどぉぉ……!


「さあ、覚悟を決めてぐぐっといこう。なるべく一度に飲み切ったほうがいいと思うよ~」

「ごめんねズミ……がんばれっ……」

「い、い、嫌だー! ……ッ!?」


 うっかり叫んでしまったので、ちょうど開いた口に劇薬を流し込まれた。

 口内に一気に広がるかぐわしい悪臭。もはや言語化するのが読者に申し訳ないと思えるほどの絶望的な味わい――以下イメージ映像でお伝えします。

 手入れの行き届いていない公衆トイレの汚水に、採れたて新鮮な吐瀉物を混ぜ合わせ、酢を少々。鳩の死骸を加えてトロ火でじっくり煮詰め……やめよう。

 食事中の人ごめんなさい。


 死体なのに意識が飛んだ。

 そしてとても、とても悲しかった。

 ほんの数時間前まで豪華なおせちを囲んで舌鼓を打っていたのに。その少し前は刹那の着物姿を拝んで幸せなひと時ですらあったのに。おのれ大凶のおみくじ。


 というか……イッスンは一体何をどう煮込んでこんな劇物を錬成してしまっ……いや、やっぱりそれも聞きたくない。

 こ……こんなものを飲まされるくらいなら、ひと思いに殺処分してもらったほうが良かったんじゃなかろうか……。

 ああ、走馬灯が見える。死んだときは見えなかったのに。お母さん生んでくれてありがとう、あんまり良い息子じゃなかったかもしれないけど、そこそこ幸せな人生だったよ。たぶん。


 などという思考がコンマ一秒で巡ったあと、今度は急に身体が温かくなった。

 それになんだか後味にメントール的な爽やかさをちょっとだけ感じる……ささやかすぎてそれ以前の激臭激味を一ミリも緩和できてはいないけれども。


「ふむふむ。ほうほう。あ、刹那は彼を励ましてあげて。意識がなくなると数値にブレが」

「こっちはイッスンさんのブレなさが怖いわ……。おーいズミ、だいじょぶか?」

「あ……うう……」

「……ごめん口は閉じといて。臭いヤバ……うぷ」

「おっと採血しないと。はーいチクッとしますよ~」


 というわけで。

 ……どういうわけだか。


 そのあと出海は解放された。自分では気づかなかったが、どうやらあの薬を飲まされたとき痙攣でもしていたようで、身体じゅうにベルトの痕が残っていた。そのための拘束具だったようだ。

 それより口に残留したものが不快すぎたので、吐きそうな勢いでうがいと歯磨きをせねばならなかった。


 もしかしてこういうのがこれからもあるのか、と思うと気が滅入る。あるんだろうな。モルモットとか言ってたし、出海デッドマンに人権はないのだ。

 まったく新年早々トホホなんてもんじゃない。とはいえ。


「お疲れー。そして喜べ、今夜はすき焼きだー。口直ししようぜズミ」

「セツはあの猛毒飲まされてないだろ……」

「いやあんなん臭いだけでも超ダメージだし。ともかく肉だよ、肉。ほら行こー」

「お、おぉ……」


 肘にちょっと柔らかいものを感じながら、抱くようにして腕を引っ張られる。刹那がいつもどおりのゆるい言葉遣いで、へらへらした笑顔を浮かべて、隣にいてくれる。

 それだけでちょっと機嫌を持ち直してしまうんだから――俺もたいがい単純だよなあと、出海は思ったのだった。



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