超絶美少女に若返ってしまった近所のおばあちゃんに恋をしたぼく
ホサカアユム
第1話 光が落ちてくる日
老人という呼び方が嫌いだ。
老人という言葉を他人に大して使う人間は、若さ故の驕りと言うか過ちと言うか、老いに対しての優越感を持っている気がする。
『老い』という言葉には経験豊かという意味もあるらしいけれども、それでも嫌だ。
老いは誰に対しても平等にやってくるというのに、やがて無くなる威を奮ってどうする。
まだそのままの意味の『高齢者』という言葉の方が適切だと思うので、いざというときは僕も妥協して使っているけど、これもなんだか人格性に乏しい。『お年寄り』も同様だ。
ついでに言うと、お爺ちゃんとかお婆ちゃんとか言う呼び方も苦手だ。
自分の祖母や祖父ならまだいいけれど、血の繋がりも何も無い他人の祖母や祖父をちゃんづけするのは、どうにも礼を失しているように感じる。
じゃあどう呼ぶんだよと訊かれれば、僕はこう答える。
名前で、良いだろう。
相手は人間なんだから。友人にだってなれる、どこにでもいる人間なんだから。
僕、藤原忠清(ふじわらただきよ)も自分の名前には誇りを持っている。
十七歳の高校生にしては古臭いとか武将っぽいとかよくバカにされるが、祖母がつけてくれた由緒ある名を、恥じる必要なんて無い。
胸を張って生きている。
それが、僕が生まれてすぐに病気で亡くなった祖母の形見なのだから。
名前は、年を取ったって変わらない。
鈴さんだって――ずっと鈴(すず)さんだった。
これからだって、ずっと鈴さんなのだ。
最初から、重要なのはそれだけのはずだ。
※
窓から竹林が見えた。
深緑のすらりとした竹が何本も、真っ直ぐ天に向かって生えている。その景観は水墨画のように木訥で趣があり、風に揺れてさらさらと擦れる笹の音は耳に優しい。
八畳ほどの和室には、程良い木漏れ日が差していた。
西陽の強い鈴さんの部屋は、この竹林のおかげで直射日光から守られている。七十歳を過ぎた鈴さんには、竹林は丁度よい庇護者とも言える。
僕は鈴さんの横で正座して筆を握り、机の上の半紙に向かっていた。
「そう……そこは筆に力を入れてはねるんじゃ無くて、ゆっくりと力を抜きながら、筆先を離すんだよ」
鈴さんが半紙を覗き込んできた。白髪になりきらずに銀色になった鈴さんの髪の毛が、僕の首に触れる。深く刻まれた首の皺と、老眼鏡の金色の縁が垣間見えた。
曲がり気味の腰では着物は辛いらしく、鈴さんは割烹着を愛用していた。
「こうかな……?」
僕は言われた通りに墨を含んだ毛筆を運び、そっと半紙から離す。緊張に指が震えそうだったが、何とか抑えられた。
僕の大切な友人、御船鈴(みふねすず)さんは六十歳まで書道教室を一人で切り盛りしていた。今はもう七十九歳。
体力的な問題から一線は退いているが、指南を望む生徒にはこうして週末の空いた時間に教えてくれる。
と言っても今どき書道を習おうとする学生なんて僕を含めて町に数人程度で、その内一人は僕の幼なじみの、楯岡朋香(たておかともか)ぐらいのものだ。
今日は土曜の午前中で、生徒は僕一人。手本は『蘭亭序(らんていじょ)』と言う、中国の詩を集めた物の序文だそうだ。宴の最中に書かれたという言い伝えがあり、最後の方になってくると誤字も結構ある。何だかお茶目な書だ。
「そうそう……うん、よく出来たねえ」
まったりと、間延びするような声色で鈴さんが微笑む。
鈴さんの声はつきたての真っ白なおもちのような、温かい柔らかさがある。いつもにこにこ笑って人当たりが良い鈴さんが、僕は昔から大好きだった。
「今日の書は格別にいい出来だねえ、忠清くん。長年教えてきた甲斐があったね」
老眼鏡を通して僕の書をまじまじと見る鈴さんは、本当に嬉しそうだ。
「鈴さんが丁寧だったからだよ」
「そうだといいねえ。こんなお婆ちゃんの指導で、忠清くんが書道の楽しさを分かってくれるなら、悔いは無いねえ」
うんうん頷きながら鈴さんは座布団に座り込み、仏壇に目をやった。
僕は意識して、そちらを見ないようにする。
「鈴さん、こっちはまだまだ書の道を教えてもらおうと思ってるんだから、元気でいてもらわないとさ」
「そうだね。忠清くんが会いに来てくれるんだもの、もっと元気でいないとね」
答えながらも鈴さんは、仏壇の方から目を離さない。仕方なく僕もそちらをちらりと見やる。
仏壇の中には、位牌の他に一枚の写真があった。
白黒でぼやけた、年代物の写真。軍服を来た、一人の若い精悍な男性が立っている。
その隣には、黒々と長い髪を後ろで纏めた、着物姿の可愛らしい女性が寄り添う。
男性は鈴さんのかつての夫で、女性は若き日の鈴さんだ。
菌類学者だった鈴さんの夫は、大きな病気で帰らぬ人となったそうだ。以来、鈴さんはこの年になるまで再婚もせず、子どもも作らず、独り身を貫いている。
「一人になっても、会いに来てくれる人がいるのは幸せなことだね……老人ホームにも、まだ入らずにすんでるしねえ」
ほんのり寂しげな鈴さんの口ぶりが、亡き夫への想いが潰えていないことを窺わせる。
それだけの想いを抱きながら、数十年を孤独に過ごすと言うのはどんな気持ちなんだろう。僕には推し量ることすら出来ない。
身を焦がすような想いがずっと続くというのなら、僕ならきっと耐えられない。
「僕だったら毎日だって会いに来れるよ、鈴さん」
精一杯明るく声をかけてみて、ようやく鈴さんが仏壇から目を逸らしてくれた。
僕は仏壇が嫌なわけでは無い。遠く別の世界を見ている鈴さんの目を見ていると、憐憫を感じられて辛いだけだ。
「母さんも止めないしさ」
「それは嬉しいね。有り難いねぇ。でもね忠清くん、若いんだからお婆ちゃんと遊ぶのだけじゃ無くて、もっと若い子同士で遊ぶようにしないといけないよ。朋香ちゃん、最近見てないけど、学校では会うんでしょ?」
「そりゃ、同じクラスだからねあいつは。朋香にもクラスメイトにもしょっちゅう会ってるんだから、たまの休みぐらいは鈴さんの所に来たくなるんだよ」
僕が笑うと、鈴さんは本当に心配そうに眉を顰めた。
「そんなだと、周りに置いて行かれるよ? 私は嬉しいけどね、忠清くんが老け込んじゃったら、私が朋香ちゃんに叱られちゃうよ」
「気にしすぎだよ。全然大丈夫だからさ」
とは言ったものの実は手遅れと言うか、クラスではジジくさい生徒として僕は有名だ。
特に朋香と、僕の親友の矢神桐春(やがみきりはる)がしつこい。植物系男子ならぬ老人系男子、などと言われたこともある。
鈴さんだけでなく鈴さんの友人とも付き合いが長い僕は、同世代の友人と比べるとかなり達観しているように見えるらしい。
僕自身は別に気にしていない。流行を追って若者ぶることにも慣れないし、追いたいとも思えない。この片田舎で流行を追いかけるのは、むしろ滑稽に思えるし。
そうこうしている内に、時間は昼の十二時に差し掛かろうとしていた。
「鈴さん、もう昼になっちゃうよ。宅老所行くでしょ? 送っていくよ」
「ああ、もうそんな時間だね。よろしくお願いしようかねえ……」
鈴さんが差し出した小さな手を取って、僕はそっと立ち上がった。
*
A市内陸は曇り空。日照量の少ないA市は、一年を通して曇りが多い。
気温も暑すぎず、道路の照り返しもきつくない。鈴さんを連れて歩くには丁度いい日和だった。
町の高齢者が集まる宅老所は、鈴さんの住む一軒家から十分ほど歩いた所にある。古くなった広い木造の民家を自治体が改装して、近隣の高齢者の憩いの場として提供したのだ。
週末の土曜日ともなれば、鈴さんの友人がたくさんこの宅老所に集まってきて一日を過ごす。
書道を習った後にここまで鈴さんを送ってくるのが、僕の習慣だ。鈴さんは同世代の友達に比べれば足腰がしっかりしていて、僕が送らなくても特に問題無く辿りつける。
じゃあなんでわざわざ送るんだよと訊かれれば、それはただの趣味だとしか言えない。
この短い時間を散歩がてら鈴さんと歩いて話すだけで、多くの興味深い話を聞かせてもらえる。町の歴史でもいいし、鈴さん自身の苦労話でもいい。記憶にはほとんど残っていない、僕の亡くなった祖母の話もいい。
僕の四倍以上生きている人だけあって、鈴さんが語る話題の多さは百貨店の品数並だ。たまに話が被るのはご愛嬌ってことで。
「忠清くんのお母さんは、それは落ち着きの無い子でねえ……」
今日の鈴さんは、僕の母親の思い出話を語ってくれた。
今まで何度か聞いた話だけど、その都度微妙に違うディティールが加わってエピソードが変化したりするので、飽きることは無い。朋香なんかは聞き流しているけれど。
「教える時間が長くなると、すぐに癇癪を起こして墨をひっくり返したものなんだよ。筆遣いは上手なのにねえ」
「へー。母さん、普段はそんなに感情的になったりしないんだけどな」
このディティールは初耳だった。母親が中学まで鈴さんに書道を習っていたのは知っていたけど、そこまで問題児だったことは知らなかった。
「忠清くんがいい子に育ったからだねえ……」
むしろ母が鈴さんに、いい子に育てて貰ったんだと思う。
母親の少女時代話に花を咲かせながら、心地よく疲れた僕達は宅老所に到着した。
築年数はかなりのものだけど、立派な一軒家だ。
インターホンを押して、僕はボランティアスタッフに鈴さんを送ってきたことを伝える。
スタッフも僕の声を覚えているので、すぐにドアロックが外れた。
靴を脱ぐ鈴さんの体を支えて玄関に上がり、廊下を進む。わいわいと楽しそうな話し声が、家の奥から聞こえてきた。他のみんなはすでに来ているらしい。
鈴さんの手を引いて、リビングの中に入る。
「こんにちは! 鈴さん連れてきましたー」
「こんにちはぁ、みんな」
僕に続いて、か細い声で鈴さんが挨拶する。
テーブルを囲んで椅子に座っていた鈴さんの友人達が、一斉にこちらを見た。
ちなみにこの宅老所の特徴は、集まる高齢者が女性ばかりという点だ。いくつになっても女性は女の園を作りたがるものらしい。
みんな、年齢を考えると元気で健康な方だと思う。定期的なイベントも自分達から率先して行っているし、メンバーで簡単な畑仕事をしたり、バザーを催したりもしている。
僕も数ヶ月前には、芋掘りに付き合ったりして楽しませてもらった。年を重ねていても、それなりに遊ぶ内容は尽きないのだ。
今どきの言葉で言うと、この人達は結構な〝リア充〟なんだろう。
「こんにちは、忠清くん、鈴ちゃん!」
そう言って元気そうに手を振ってくるのはこの宅老所のムードメーカー、矢神(やがみ)えつさん、八十歳。お月様のような丸顔で、明るい山吹色のベストを羽織っている。
旦那さんが合気道の道場主で、自身も達人ということもあってか、えつさんは年齢不相応なほどに健康で元気だ。今は現役を引退して道場に立つことは無いそうだが、まだまだ若者には負けない、と言い張っている。
「こんにちは、えっちゃん」
小さく手を振り返す鈴さんを、僕は近くの椅子に座らせる。椅子が足りないようなので、僕は傍らに立っておくことにした。
「変わりないですか、えつさん?」
「なーんも。爺さんもまだまだ元気に道場やってるし、元気そのものだよ!」
えつさんは瞳をころころとよく動して、からっとした大声で笑った。
ちなみにこのえつさん、僕のクラスメイトの桐春の祖母でもある。
「忠清くん、いつまでも立ってないで座りなさいな。若いからって立ちっぱなしじゃ辛いでしょうに」
そう優しく声をかけてくれたのは、川島米子(かわしまよねこ)さん、七十九歳。
ちょっと古めかしいデザインの丸眼鏡に、今も自分一人で着付けているという浅葱色の着物が上品だ。
「いや、僕は別に立ってても大丈夫ですから……」
「ちょっと、椅子もう一つ持ってきてちょうだいな」
僕の声を遮って米子さんが声を上げる。「はーい?」とキッチンの方から若い女性スタッフの返事が聞こえた。
「ああ、自分で取りに行きますから大丈夫です」
スタッフに伝わるように僕も声を上げながら、慌てて椅子を探す。
部屋の隅にパイプ椅子が重なっていたので、それを組み立てて座った。座り心地は硬いけど、これで充分だ。
「米ちゃんはよく気がつくから、スタッフさんも気を抜けないねえ」
鈴さんが愉快そうに微笑む。米子さんと鈴さんはメンバーの中でも一番の昔なじみで、学生時代からの親友なのだそうだ。
この町の名前が決まるより前から、二人は一緒にいる。
「年を取ったからって気を使えないようになるなんて、悔しいでしょうよ鈴ちゃん?」
「そうねえ……やれることは自分でしなきゃねえ」
真顔で言う米子さんと、申し訳なさそうな鈴さん。数学教師も勤めていた米子さんは昔から気丈な性格らしく、大人しい鈴さんはいつも世話を焼かれていたらしい。
「そんな肩肘張らずにさ~。任せられる部分は、ぱぱーっと周りに任せておけばいいのよ~米子さん」
軽妙な口調でそう言い放つのは、高桑純(たかくわじゅん)さん、八十歳。
白髪を自然に見える程度の茶色に染めていて、この中では一番若く見える。服装も蛍光色のワンピースで、流行りとはかけ離れているけど若作り。バラエティ番組などの若い文化も好きらしい。
「ねえ、忠清くうん?」
「え、あはは。まあ、そうですね」
なぜか顔を傾けて科を作る純さんに、僕は苦笑を返す。
昔は恋愛の達人だったのよ、と言うのが純さんの口癖だ。今は恋愛どころか自分の娘が離婚してしまい、親権を奪われてしまった孫と会えないことを、いつも嘆いているけれど。
「そんなんじゃボケが早く進行するわよ、純ちゃん」
未だ真顔の米子さんが、怒ったかのように反論すると。
「いやいや、最近の若い子は気合いが足らないからね。道場もすぐに辞めちまうし、うちの桐春もさっぱり出てこないし、どうなってるんだか」
えつさんの愚痴が、合いの手のように始まる。
「だけど若い子が周りにいるのは楽しいじゃないのー、忠清くんも優しいし」
「優しさに甘えすぎないで、自分の頭も使わないといけないのよ」
「そうだねえ……」
会話が盛り上がってきた。鈴さんはたまに困ったように相づちをうったり、意見を求められて無難に答えながら、にこにこと柔和に微笑んでいる。
――平和だなあ。
そう思いながら僕も眺めていると、テーブルの隅で一言も口をきかずにずっとお茶をすすっていた、黒深菜恵(くろみ なえ)さんが目に入った。
菜恵さんは八十二歳。喪服のような黒いレースの服に身を包んだ、宅老所のメンバーの中でも一風変わった人だ。
腰まで長い髪という怪しい風貌で、前髪が目にかかって表情も読みとりにくい。やたらと迷信じみた話をするけれど、悪い人では無い。
若いころから祈祷師という変わった職業を営んでいて、昔からこういう人であるらしい。
その菜恵さんが、急にこちらを振り向いた。髪の毛の間から、じっと僕を睨んでいる。
突き刺すような鋭い目つきだ。
一瞬だけど、僕は気を呑まれてたじろいでしまった。
「なんでわしを見てるんだい、忠清」
口調も剣呑できつい。
「あ、いえ……菜恵さんも変わりないかなー、と」
「ふん、変わらない人間などありゃせん。神さんはわしらがきちんと死んで、忠清がきちんと大人になってくれるのを望んでるんじゃよ」
菜恵さんは無愛想に呟いて、テーブルの上にあった饅頭を頬張り出す。
盛り上がっている米子さん達は、その言葉に気づいていない。
「菜恵ちゃんは相変わらず、不思議で面白い子だねえ……」
鈴さんだけが、変わらずにこにこしながら言うのだった。
*
月曜日の昼休み、一週間で最も憂鬱な雰囲気に包まれる、高校の教室。
午前中の授業時間いっぱいをかけて休みボケから目を覚ましたクラスメイト達が、食欲と会話欲を爆発させている。特に女子達が騒がしい。
僕は女の子特有の、距離感を掴めていない感じの甲高い声が苦手だ。昼食は落ち着いて、農家のみなさんに感謝しながらいただきたい。今日は菓子パンにしたけど。
窓際の席で校舎の裏にある山林を眺めながら、僕は数少ない友人達と談笑していた。
家も同じマンションの朋香と、小学校からの付き合いの桐春。僕が一人でいてもちょっかいを出してくる、暇な奴らだ。
「ってことでさ、桐春を慰めるためにもカラオケ行こうよ~忠清」
草の匂いがする外からの風に、肩まで伸びた朋香のつややかな茶髪が揺れる。健康的に程良く焼けた肌に、校則違反のネイルアート。ギリギリまで短く詰められたスカートは、クラス内でも目立つ。
北国であるA市でスカートを短くしても冷え性が悪化するだけだと思うが、女子高生としてのポリシーらしい。
「カラオケは苦手だから、パスするよ」
クリームパンを牛乳で流し込みながら、僕は断った。
「えー、じゃあどうすんのよ。この町でカラオケ以外にまともな娯楽があるとでも思ってるの?」
カットされた林檎を頬張りながら、朋香は文句をつけてくる。ダイエット中なのでそれしか食べないんだそうだ。
「……そんなこと言われてもなあ」
「いや、いいって朋香ちゃん、俺は全然平気だから……ふう」
わざとらしいため息をつきながら、ご飯大盛りの弁当を食べている桐春。
桐春は童顔で背も低くひ弱そうな外見なのに、頭の中身は全く逆で素行も粗野という複雑なキャラクターだ。
数日前に付き合っていた隣のクラスの女子にこっぴどく振られたらしく、今日も落ち込みが激しい。食欲は旺盛なようだけど。
「失恋ぐらいで慰めてもらうって発想が、僕にはよく分からないんだけど。相手の名前も知らないしさ」
「あー? ふざけんなよ忠清、しっかり紹介しただろうが。付き合いはじめのときによ」
「そうだっけ? 覚えてないや」
本当は顔も名前も覚えているけど、覚えていないことにする。人の恋愛を詮索する趣味は無い。
「失恋したときって、脳は骨を折るぐらいの痛みを感じるらしいよ忠清。甘く見ちゃ駄目なんだからね」
したり顔で朋香がのたまう。
「そ、そうなんだ……痛いのか」
そんな知識をどこで手に入れてくるのだろう。
「ババアとばっかりつるんでるお前には、失恋の痛みなんか分からねーだろーさ、ふん」
「ババアって言うな。せめてお婆ちゃんと言え」
本当なら名前で呼べと言いたい所だけど、自分の祖父母も含めて堂々と高齢者を厭う桐春には、言って聞かせても徒労に終わる。
「はいはい、ばーちゃんばーちゃん」
言い捨てながら、桐春は弁当に没頭する。その弁当の中の白米の上に乗った大きな梅干しも、桐春の祖母のえつさんが漬けたはずなのに。
「カラオケが駄目なら、どうしよっか? 本当に娯楽の無い町よね……ん?」
朋香が、窓の外の裏山を眺めて。怪訝そうに、目を細めた。
「ねえ――何、あれ?」
「……?」
僕は空を見上げた。
何気なく、朋香の視線を追う。周りの生徒達も騒ぎ始めていた。
その先に太陽とは違う、巨大な光源が――迫りくる、真っ赤な光の塊が。
見えた、と思ったその瞬間。
激しい雑音――ラジオのノイズのような、巨大な音が響いた。
激痛が、走った。
ヘッドホンから大音量の曲が流れてきたかのように、頭痛が襲ってきた。
全身に電流が走り、たまらず身をよじりながら、僕は何とか窓の外を見た。
あの光の塊が落下してきたのだろうか。
焦熱の炎に包まれたかのように、山が――視界が、赤く輝いている。
その輝きが強さを増して、ノイズ以外の音が一切聞こえなくなり――
滑落するかの如く。
僕の意識に、緞帳が下りた。
◇ ◇ ◇
夢の中の大海を、僕は泳いでいた。
沈んでも沈んでも底に着くこともなく、息が切れることも無い。
不思議な海だった。
蒼穹が透き通る水面を見上げながら、僕は自分を中心とした壮大なパノラマが、海中に浮かんでは消えていくのを目にした。
それは見たことの無いはずの、しかし日常と分かる風景を切り取ったものだった。
緊張の面持ちでスーツを着ている僕。周りは若人だらけの、広い講堂。
白い垂れ幕が下がっている。大学の入学式らしい。
ぼんやりと顔の見えない女の子と、見覚えの無い道を歩いている僕。
相手は僕の彼女なのだろうか。お互いに視線が泳いでいて、ぎこちない。
病院のベッドに横たわっている鈴さんの傍らに立つ僕。
鈴さんは安穏とした表情で目を閉じている。
僕は寂寥を背中に帯びて、その手を強く握りしめていた。
年齢を重ねて、皺が目立つようになった僕。
仕事帰りなのか、満員電車に揺られて立ったまま居眠りしている。
やがて白髪だけになった僕が、ベッドに横たわっている。
その手を、知らない誰かが握りしめている。僕の表情は安らぎに満ちている。
寄せては返す漣の如く、あるいは泡沫の幻のごとく、それらのパノラマは浮かんで遠くに去っていく。
知らないはずのその光景を垣間見て――これが本当の世界なのだろう、と僕はなぜか確信していた。
その光景は最早、夢の中にしか無い、ということも。
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