こいに恋する

リョビ涼太郎

恋に至るまでの恋

 恋がしたい。そう考える様になったのはいつからなのか。今ではもう覚えていない。それは安いドラマに出てくるような、恋愛小説にでてくる悲愴に満ちたような、古今東西を駆け巡り愛の意義を確かめるような、そんな壮大な「恋」でなくていい。もっと身近な、言ってしまえば高校生でも手を伸ばせば届いてしまうくらいの簡単な恋でいい。

 いつだって憧れは芸術の中にあった。誰かが創造したものを受け取って、そこからさらに想像を膨らませて、それは憧れとなり私の中に積み重なっていった。恋もその中の一つだ。誰かの思い描いた恋は私の心を打ち、決して取り出せないものだと分かっていながら、日々そんな恋が自分の元へ来ないものかと妄想をする。誰もが通る幻想に憧れる道も、いざ踏み出してみれば果てしなく、高校二年になった今でも、私はその想いに振り回されていた。

 だから、恋がしたい。少しでも幻想に近づきたい。恋をして、自分を満たしたい。

 高校二年。それは恋に恋するお年頃。だから私にそんな春が来ても、おかしくはないだろう。


「あなたが好きです」

 放課後の教室。私は気づけばそう口にしていた。

「……」

 目の前には校庭と、そこに広がる桜の大樹。横を向けば、いまいち感情の読めない彼がこちらを見て固まっていた。

「聞こえなかった?」

 私はわずかに頬を染め、微笑みを浮かべた。

「あなたが、好きって言ったんだよ?」

 もう一度はっきりと言葉にすると、隣の彼は軽く目を見開いてから前に向き直った。

「……好き、か」

 風に舞う花びらを目で追いながら、彼がそう小さく息を吐く。

「そう。好き」

「何でだ」

 彼が窓の淵を手でなぞりながら聞いてくる。

「理由を言ったら返事をもらえるのかな?」

「それは分からないが、少なくとも理由も聞かずに返事をすることはないな」

 私から告白を受けたというのに、隣の男はたいして動じず、その態度は淡々としたものだった。

「そういうところ」

 私は月明かりに浮かぶ校庭に目を向ける。

「そういう揺るがない自分を持っているところに惚れた」

「あと、自分を飾らないところとか」と私は気恥ずかしさを隠すようにに頬を掻いた。

「そうか」

 彼はそれだけ言うと、それきり黙り込んでしまった。

「……返事は? 聞かせてもらえないかな?」

 私はそう促した。すると、そこで初めて彼は感情を乗せる様に小さく笑った。

「正直に言う。今、困ってる」

 その予想外の返事に私は呆けたように数度、瞬きを繰り返した。

「珍しいね。君が困るなんて」

「いきなり好意を伝えられて困らない奴なんざいないだろうよ」

「確かに普通の人ならそうだと思うけど……私はてっきり二つ返事で返ってくるものかと」

「さらっと俺を普通の人じゃない認定するのはやめてくれ」

 彼がこちらを向いて、その目と視線を合わせると、私たちはどちらともなく教室に響かない程度に笑いあった。

「……じゃあ、どうする? 返事、保留にさせてあげてもいいけど」

 私が少しからかうように言うと、彼は「まぁ、少し待て」と言った。

「……分かった。君が納得するまで待つよ」

 私はそして、窓の外に見える、校庭に厳然と根を張る桜を眺めた。

 風が吹いて枝葉が揺れれば、春の香りが夜の静けさに混じって運ばれてくる気がした。土の湿り気を帯びたような香りや桜の生命の息吹を感じられる香り、そして隣の彼から感じる田舎にある祖父母の家のような、あのどこか懐かしさを覚える香りに私は神経を集中させ、一世一代の告白をした後とは到底思えないこの穏やかな時間に体を預けていった。

「……恋、したいな」

 思わず呟いた言葉は彼の耳に届いているのだろうか。出来れば、夜の風に溶けていってほしいと、そう思った。




 恋とは何か。それを考える様になったのはいつからだったか。今ではもう覚えていない。それは安いドラマに出てくるような、恋愛小説にでてくる悲愴に満ちたような、古今東西を駆け巡り愛の意義を確かめるような、そんなものの事を指す言葉なのだろうか。分からない。生まれてこの方「恋」をしたことがない俺に分かるはずもなかった。

 作られた恋は偽物か。創作された恋は果たして本物と言えるのか。考えれば考えるほど答えは迷宮の奥底へと沈んでいくような気がして、いくら思弁的に考えを巡らせても経験のない俺にその違いが分かるはずもなく、そんな自分の思考に振り回されるような毎日。高校二年になった今でもそれは相変わらず俺の頭の中にこびりつき、常に疑問を投げかけてくる。

 思春期と呼ばれる年頃の子供の恋を指さして、「恋に恋する年頃だものね」と言われることが多々ある。ならばそれは偽物なのか。本当の意味で何の邪念もなく純粋に、ただ純粋に相手を思わなければ本物足りえないのか。仮にそれを偽物だと呼ぶのなら、創作された恋は本物なのだろう。完成されたあの世界での「恋」は正しく恋と呼べるものなのだろう。

 しかし、それは現実ではない。創作の前に現実が存在するのならば、そこにある恋こそが本物であるべきだろう。

 もしかすれば、恋に本物も偽物もないのかもしれない。みんな違ってみんな良いという実に幸せな考え方もある。

 そう。だから、俺は恋をしてみようと思ったんだ。自分がそれを経験することで、自分の中で腑に落ちる答えを得ようと思った。

 高校二年。恋に恋するなんて言われるくらいには、恋とは切っても離せぬお年頃。だからこそ、そんな俺に春が来ても、おかしくはないはないだろう。


「……たいな」

 隣の彼女が何か言った気がするが、文頭は風に搔き消されてよく聞こえなかった。

 俺は頭の中で今さっき彼女から言われたことを思い返す。

「……」

 横目で彼女を見れば、整った横顔と風に揺れる長い髪が目に入る。

 改めて、この女から告白をされた事実が重くのしかかってきた気がした。

「どうなんだろうな……」

「何か言った?」

 思わず漏れた心の声に彼女は反応すると、こちらに向けた顔をかわいらしく傾けた。

「いいや、何も」と俺は首を横に振る。

「そう。なら、いい」彼女はどこか楽しそうにそう言った。


 俺と彼女が出会ったのは去年の春。この学校に入学してまだ右も左も分からなかった状態からやっと右と左の区別ができるようになった時だった。放課後の教室で一人本を読んでいたら、彼女が声を掛けてきたのだ。

「何の本読んでるの?」

 そう聞かれた俺は無言で本の表紙を見せた。

「へぇ、知らない本だ」

 彼女はそう言うと俺のひとつ前の席の椅子を引き、そこへ腰を下ろした。

「何してる」

「何って、座っただけだけど?」

 悪びれずにそう言う彼女に俺は「気が散るんだが」と文句を飛ばしながら本を閉じた。

「あれ、読まないの?」

「今はな」

「じゃあ、たった今暇になったわけか」

「まぁ、そう言えなくもないが」と俺が言うと彼女は勢いよく立ち上がり、俺の腕を掴んだ。

「何だ?」

「暇なら付き合ってよ」彼女は腕を引いて強引に俺を立たせる。

「おいおい、引っ張るな」

 男は彼女の手を優しく引きはがすと、「いきなり何だ。事情を話せ」と女に聞いた。

「いやぁ、この後映画を見に行こうと思ってたんだけど、一人じゃ寂しいから誰か誘おうと思ってたんだ」

「先にそれを言え。いきなり腕を引っ張っぱる奴があるか」男が淡々と言えば、女は「ごめんごめん。それは謝るよ」とたいして反省もしてなさそうな顔で言った。

「それで、映画だったか」

「そうそう。一緒に行かない?」

「映画は一人で見に行くものじゃないのか?」

「それは人によるよ。好みの問題」

 今まで誰かと映画にいくという発想がなかった俺は目から鱗が落ちた気持ちになった。

「そういうものなのか……」

「それで、どうかな? 映画」

 彼女の目を見れば、その瞳は期待に満ちたように俺の目を捉えていた。

「いや俺は……」と言いかけたところで俺は一瞬考える様に目線を彷徨わせた。それから逡巡の後に「行くか」と女に言った。

「そうこなくっちゃ」

 そして、俺はたった数分前に出会ったこの見ず知らずの女と一緒に、

恋愛映画を見に行ったのだった。

 それからというもの、俺と彼女は可能な限り一緒の時間を共有していったと思う。春には二人で旅行に出掛けたこともあったし、夏休みや冬休みにも、祭りに行ったり遠出をしたりと、思いで作りに励んでいった。

 なし崩し的に生まれた関係は今でも長く尾を引いていて、今の今まで俺たちは「良き友」としてこの関係を維持してきた。

 そして、それが今まさに壊れようとしている。彼女の告白により、俺たちの関係が変わろうとしている。

 やっと、「恋」が知れるのかもしれない。俺の頭の中はそのことで一杯になった。

「……俺も、お前のことが好きらしい」

 だからだろうか。俺は気づけばそう口にしていた。

「へっ?」

 突然の俺からの返事に、彼女が勢いよくこちらに振り向いたのが見ずとも分かった。

「それが俺からの返事だ」

 わずかに口角を上げて彼女を見る。

 目を見開いていた彼女は思考するより先に口が動いたといった感じで「……はい」とだけ言うとそれきり黙り込んでしまい、静寂に包まれた俺たちの間を風に揺れる桜の葉音がゆっくりと通り抜けていった。


                 *


「その日初めて、私はをした」

 恋に恋したあの瞬間を思い起こしながら、私は公園のベンチに座って彼を待っていた。

「あの日初めて、俺はを知った」

 待ち合わせ場所に向かいながら、俺は恋を知るための一歩を踏み出したあの日を思い起こした。

「恋に恋した」

「故意に恋した」

「恋を差し出し」

「恋を受け入れた」

「でも、これが……?」

「だが、これが……」


「本当に、私たちが目指していた恋なのだろうか?」


 その疑問に答えを投げかけるものは誰もいない。

 女の恋は確かに成就した。男の恋は確かに男の背を押すものとなった。

 しかし、彼らの「恋」はそれでは終わらなかった。

「待たせたな」

 公園の入り口に現れた男が、女のもとに駆け足で近づく。

「五分も待った」

 女はわざとらしく頬を膨らませた。

「……埋め合わせはしよう」

「おっ? 言ったな?」

 男が呆れたようにそう言えば、女は嬉しそうにはにかんで見せる。その笑顔を見た男は表情を少し緩めると、「じゃあ、行くか」と女の手を取り、さっさと歩き始めた。

「ねぇ、りん

「何だ?」

 歩き始めると彼女は笑顔のまま言った。

「恋って難しいね」

 俺は彼女の言葉にどう反応するのが正解か分からなかった。だから、何も取り繕わずに思ったままに口を動かした。

「あぁ、全くだ」

 二人は互いに微笑み合う。お互いの言葉の内にどのような意味が含まれているのか、それはきっと、誰にも分からないのだろう。

 

 

  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

こいに恋する リョビ涼太郎 @hujigatari1201

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る