第6章 海浜都市レオーネ編 第6話(3)
聖塔を出たクラウディアはクランツを引き連れ、その足で海岸霊園へと向かった。向かう先は言うまでもなく、クラウディアの母が眠る最奥の大墓石碑である。
昼前に向かっていたその日の空は、薄雲の間から太陽の光が布を透かすように差し込んでおり、波風も穏やかだった。まるでクラウディアのための時間を神か町の人々が用意したかのように、その時間に墓を訪れている人は誰もいなかった。
来る道すがらの屋台で買った花束を墓石の前に手向け、クラウディアは亡き母の冥霊を想うように静かに目を閉じた。クランツもそれに倣って目を閉じ、会ったこともないが敬意を覚えるクラウディアの母親と、それを想うクラウディアの心に思いを馳せる。
光霞む空の下、遠くで波の弾ける音が響き、緩やかな風が沈黙する二人の間を吹き抜けた。やがて、すっと目を開けたクラウディアが、静かに口を開いた。
「結局、また君に世話になってしまったな」
それが自分に向けられたものだと気づいた時には、クランツは自然な言葉を返していた。
「気にしないでください。僕はあなたを助けたくて、やれることをやっただけですから」
「そう言ってもらえると助かるよ。君がいてくれなかったら、エメリアも町もどうなっていたことか……それを思うと、身が震える思いだ」
静かに流れて吹く風に、クラウディアはその細い両腕で自分の身を抱きしめた。
「私もまだまだ未熟だな。母様の域に至れるのは、いつのことになるやら」
風に溶かすように言い、自嘲するように笑ったクラウディアに、クランツは自然と彼女のための言葉を発していた。
「お母さんとあなた自身を比べなくても、いいんじゃないですか」
その言葉に、クラウディアが小さく息を呑むのを感じ取りながら、クランツは続けた。
「お母さんは確かに、勇敢に戦って、立派な功績を残した人なんだと思います。けど、あなたはそれと同じことをしなきゃいけないわけじゃないし、お母さんと同じようなものを背負わなきゃいけないわけじゃないと思うんです。むしろ、お母さんにできなかったことをあなたが成し遂げられた方が、きっとあなたらしい生き方になるんじゃないですか」
「クランツ……」
呟きながらも背を向けているクラウディアに、クランツは自分の言葉をかけ続ける。
「僕はあなたのお母さんに会ったことはないですけど……あなたのお母さんは、きっと、あなたを大切に思っていたはず。だから、あなたにはそれを大切にしてもらいたいと思うんです。誰かに大切に思われているってこと――愛されているってことを」
その言葉に、クラウディアは振り返り、穏やかな目でクランツを見た。
「君は、本当に不思議だな。私の母様のことなど何も知らないはずなのに……まるで、私の考えていた母様の思いをそのまま汲んだようなことを、自分の言葉で導き出してしまうんだからな。私は何も話していないはずなのに……本当に不思議だ、君は」
「たぶん、それが僕自身の実感だからだと思います。あなたの言う通り、僕はあなたのお母さんのことをほとんど知らない。だから僕は、別にお母さんの気持ちを考えたわけじゃありません。今の言葉は、僕自身のものです。もしもそれが、あなたの考えていたお母さんのことに近くて、あなたの役に立つものだったら嬉しいと思いますけど、それだけです」
迷いのない目で口にするクランツに、クラウディアは降参したようにふっと笑った。
「本当に……君には敵わないな。君を見ていると、自分らしく生きるということを見直させてもらえるような気がするよ。君は本当に、君らしいな」
彼女の心がほぐれたのを感じ取ったクランツは、訊いていた。
「クラウディア。その……気持ちの整理は、つきましたか」
やや遠慮がちなクランツの問いに、クラウディアは迷いを振り切った眼で笑んだ。
「ああ。覚悟とまでいえるかはわからないが、自分がどうしたいのかは見えるようになったよ。君のおかげでな。集会の時、君が私のために怒ってくれたこと……嬉しかった」
薄く光る空を見上げながら、クラウディアは胸の内に新たになった思いを語った。
「私は、もう誰も、大切な人を失いたくないし、失わせたくない。君も、自警団の皆も、十二使徒の皆も、ゼノヴィア様も、そしてこの国の、この世界のどんな人にも……大切な人を想う気持ちは、決して踏み躙られていいものじゃない。私が味わったようなあんな悲しみを、苦しさを、辛さを……もうこれ以上、誰にも繰り返させたくはない」
過去の、呪縛のような記憶を振り払うようにクラウディアは頭を振り、顔を上げた。
「私は、誰かを愛することができる人を……大切な人を想うことができる『人』を守りたい。そのために、襲い来る危難を振り払い、そんな人を守れる剣になりたい。それが、きっと、私を守ってくれた母様や、仲間達の想いに応えられることだと、今では思える気がする」
そして、穏やかな笑みを浮かべて、クランツを見た。
「きっと、私がそう思えるようになれたのは、君のおかげだ。クランツ」
「え……」
「ミラと戦っている時、ずっと君のことが頭から離れなかった。君の真っすぐな目を思い出すと、私はここで負けるわけにはいかないと――そんな風に、感じていた」
当惑しかけたクランツに対し、クラウディアは目を逸らさなかった。
「君と一緒に戦うようになってから、君は私にいくつもの思いを伝えてきてくれた。そして、私は君のそのたくさんの想いを受け取ってきた。そのおかげで、私は愛されているという実感を、今一度強く意識し直すようになった。私が今改めて大切な人を想い、大切な人のために戦おうと思い直せたのは……きっと、君のおかげだと思うんだ」
そして、クランツに新しい想いを告げるような眼差しを注ぎながら、言った。
「ありがとう、クランツ。君は、私に勇気をくれた。私の大切な騎士だ」
「――――――――!」
その言葉を聞いた時――クランツは、かつてない感情が胸の内に渦巻くのを感じた。
それは、彼女の信頼の証だ。かつての自分なら、嬉しくないわけがない。
なのに、なぜ――こんなにも、胸の内にやりきれない悔しさが湧き上がるのか。
それを自覚した時、クランツは目の前に一本の光輝く道が見えた気がした。
その道こそ、すなわち――今こそ、境界線を踏み越える時なのではないかと。
《クランツ君。クラウディアのこと、愛してるって言える?》
シャーリィに言われた言葉が、その一歩を踏み越えようとするクランツの背中を押した。
クランツは、目に滲んでいた涙をごしごしと拭くと、クラウディアの眼をまっすぐに見ながら、なだらかな浜風が草花を揺らす中、一歩ずつ彼女の元まで歩み寄った。
そして、クラウディアの手をふいに取ると、その白い手の甲にそっと口づけをした。
「ッ……⁉」
突然のことに心臓が動転したクラウディアに、クランツはそっと唇を手から離すと、上気する鼓動のあまりに目を逸らしながら、言った。
「騎士の作法……って、イメージですけど。あなたの騎士になるのなら、いいですよね」
「クランツ……」
そして、顔を上気させているクラウディアに、再び誓いを立てるように言った。
「クラウディア。あなたに信じてもらえていること、僕はとても嬉しく思います。それでも、僕の想いに変わりはありません。あなたを助けるために、僕は全てを尽くす。それはこれからも変わらない、僕のあなたへの忠誠です。けど……あなたにそこまで思ってもらえていると、僕が思ってもいいのなら……もう少しだけ、あなたの心に近づかせてください」
覚悟と決意を胸に、クランツは愛する人の目を、逃げずに見つめる。
その瞳に映っているのは、幻想でも憧憬でもない、目の前にいる、守るべき人の姿だった。
今――少年は、彼女の騎士となる覚悟を決め、それを告げる言葉にした。
「クラウディア。あなたが僕を信じてくれるのなら、僕はそれに応えたいと思います。あなたの信頼が続く限り、僕は全てを懸けて、あなたの力になります。あなたがこの先何を背負ってどんな道を行くとしても、僕はあなたを信じて、あなたの行く道を一緒に生きます。あなたが人を守る剣になることを誓うのなら、僕はそんなあなたを守る剣になります」
熱に浮かされたように、少年は胸の内に燃える心を口にした。
それが、今まで守られるだけだった少年を、一人の意志を持った騎士へと変える。
《本当にそう思っているなら、いつか言ってあげてね。あの子を一人にしたくないなら》
託された言葉は燃える想いと融け合い、勇気と決意となって、少年の口を開かせた。
「約束します。もう、何があっても、あなたを一人にしません。だから……これから先、何があっても、あなたの傍にいさせてください。僕は、あなたを愛しています。クラウディア」
「………‼」
告げられた言葉に、クラウディアが心を震わせたのが、クランツにはわかった気がした。
熱を帯びた言葉を出し尽くしたクランツは、少し上で言葉を失っているクラウディアの顔と、緩やかに流れる浜風に上気していた頭を冷やされ、身勝手を働いた激しい後悔に襲われかけた。しかし、それが失意に陥る前に、クラウディアの震えた声が聞こえてきた。
「クランツ……少しだけ、目を閉じていてくれる?」
クランツが顔を上げると、クラウディアが泣き崩れそうな顔でこちらを見下ろしていた。
「―――――――」
その響きに、熱い炎のような胸をざわつかせる予感を覚えながら、クランツは目を閉じた。熱を帯びた瞼の裏に、暗い闇の奥で燃えている炎を背景に、いくつもの記憶が明滅する。彼女を想いながら生きてきた、十六年のここまでの全ての想いが、炎の中に飲み込まれていく。
それは、唐突に、しかしゆっくりと、クランツの全身に痺れとなって沁み渡っていった。
――― ―――
震えながらそっと唇に触れた甘く熱いその感触に、クランツは胸の内に燃える炎が大きく燃え盛るのを感じた。その炎は身を焦がすほどに熱く、胸の内に収めるのがやっとだった。
人生の中で最も甘美だったその感触は、切なさを残してそっと唇から離れた。
クランツが恐る恐る目を開けた時には、王都を出る前の時と同じように、彼女は恥ずかしさに目を逸らし、自分に背を向けていた――全てが夢で終わっていたと、そう思っていた。
だが、夢では終わらなかった。
目を開けたクランツの眼前には、クラウディアが真っすぐな目でクランツを見ていた。
「クラウ、ディア……」
震えながら零した声に、クラウディアもまた、心を決めたような目で笑っていた。
「君がそこまでの忠誠を示してくれるのなら……私も何か、示しを残さなければと思ってな。王都の病院での時に、預けていた分……そう思ってくれ」
そして、赤熱する表情を鎮め、何かを受け入れたように強く笑みながら言った。
「ありがとう、クランツ。君の想い、覚悟……確かに聞かせてもらった。私を信じてくれること、私も嬉しいと思う。君が傍にいてくれると、私は嬉しい」
「あ………」
クラウディアの言葉が胸に沁みた時には、クランツの涙腺が音を立てて決壊し始めていた。溢れ出す涙にしゃくりあげ始めるクランツの頭を、クラウディアはそっと撫でた。
「だから、私も君の覚悟に応えられるよう、強く在ることを君に誓おう。何があっても君に信じ続けていてもらえるような、そんな人間で在れるように。私を守ってくれるという君の約束に応えて、私は君を守る。それが、私の約束だ」
そして、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたクランツに、悲しみを祓うような笑顔を見せた。
「これからもよろしく頼む。クランツ。君の想いに応えられるよう、私も強くなるから」
「っ……はい、ッ……僕も、傍にいます……傍に、いますから……!」
涙が溢れて止まらないクランツを、クラウディアは嬉しそうに笑いながら抱きしめた。
「泣くな、クランツ。泣いてばかりでは私の騎士として先が思い遣られるぞ?」
クラウディアにそう慰められても、クランツは溢れる涙を止めることができなかった。
それは、彼女に相応しい一人の人間として認められたその瞬間は――彼女に救われ、憧れ続けてきたクランツ・シュミットにとって、一つの到達点に等しいことだったから。
胸の内に渦巻く炎が、彼女に救われたあの日よりも勢いを増し、全身全霊を大きな力の奔流となって駆け巡っていくのがクランツにはわかった。それは、あの日から変わらない思いをこの先も継いでいくための力となるだろうことも。
それは、同じように胸の内に炎を抱えていたクラウディアも同じだった。彼女が彼に対して踏み出した一歩が、自分に新たな決意という名の力を与えたのを、彼女は感じていた。
その日、光の差す薄雲の空の下、一人の少年は覚悟を決めた騎士となり。
運命に流され続けてきた少女は、幼いながら愛を受け入れた一人の女性となった。
薄雲の空は徐々に晴れ、天の下の人々全てを祝福するように、光が空に溢れていった。
祝福のような光が二人のいる霊園に注ぐのを遠くから眺めていたエメリアは、
「ふふ、これにて一件落着ですねぇ」
嬉しそうに微笑むと、二人を迎えに、光の降り注ぐ霊園の中を走っていった。
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