翡翠の守り石 💎

上月くるを

第1話 東京から糸魚川へ




 北上していた車が海岸線に出たとたんに、高速道路からの眺めは青一色になった。

 曇りのない空を真正直に映しながらも、底知れぬ紺碧の深みを増してゆく日本海。


 エアコンにしておくのが惜しくなって窓を開けると、すかさず母親の叱声が飛ぶ。

「ミコ、やめてよ。潮風に吹かれると髪はべたつくし、肌も荒れちゃうんだからね」


 そんなことを言ったって、糸魚川へ着いたら、どこもかしこも潮だらけじゃない。

 助手席の母親をちらっと睨んでおいて、ミコはおとなしく後部座席の窓を閉める。


 生まれ故郷のことをそんなふうに言われても、運転席の父親はなにも言わないが、そのうちに大きな爆発があるんじゃないかという予感がしきりにする、とくに最近。



      🚗


 

 わが家のパパとママのパワーバランスが、いつからこうなったのか知らないけど、物心ついたらすでにこうだったから、もしかしたら結婚前からそうだったのかもね。


 よその家庭もそうだと思っていたのに、やさしい物言いのママと尊敬されるパパがいる家がふつうだと知ったのは、友だちの家に遊びに行く機会が増えてからだった。



 ――だって、しようがないだろうが。 

   あの人はそういう人なんだから。


 

 なにがあったか知らないけど、仮にもとうさんを産み育ててくれた母親でしょう?

 「あの人」なんていう言い方はないんじゃないの? ミコは心のなかで反発する。


 

 ――だからぁ、金儲けは多少うまいかも知れないけど、ほかはさっぱりなんだよ。

   手料理が得意な義母さんやママとは、ハナから比べものにならないんだよね。



 ミコの耳を憚ってか母親の声は聞こえず、その分、父親が大声で言い訳している。

 あたりまえでしょう、女手ひとつで兄弟を育てたんだから。なに言ってんの?!


 怒り心頭のミコは、言葉にする代わりに、スニーカーの底を思いきり踏みにじる。

 あれは5年のときだったか、思ったことを率直に言って母親にクドクド叱られた。


 それ以来、ミコは、それはおかしいと思ったことは心の内で呟くことにしている。

 だから、両親は、他の子らのような反抗期とは無縁のいい子と思っているはずだ。



      🐠



 話題にされている祖母は、小さな土産品店を営みながら夏は海の家も出している。

 だから、とくにこの時期、猫の手も借りたいほど忙しいことは容易に想像できる。


 なのにママときたら、すっかりお客さん気分で、商売どころか家事も手伝わない。

 お嬢さん育ちの世間知らずで、だれかを思いやるということができない人なのだ。


 だから、おばあちゃんはミコたちがいるあいだは、寝る間もないほど働きづめだ。

 見かねて手伝うと「おばあちゃんは世話が楽しいのよ」即座にママの横槍が入る。


 いつもそうだが、帰省の何日も前からパパはオロオロとママの機嫌をとっている。

 いまどきの若い妻は夫の実家になんか行きたがらないのよ、なのにわたしは……。


 はいはいはいはい、さようでございましょうとも、ご説ごもっともでございます。

 気兼ねして(笑)夜もろくろく眠れない婚家へのお運び、ありがとうございます。


 息子夫婦にそんなことを言われているおばあちゃんが、ミコは気の毒でならない。

 パパもママも人がわるいよ、どうせならおばあちゃんの前で言ったらどうなの?


 

 ――だって仕方がないだろう。

   フミヤはあんなんだから。



 ほ~ら、またパパの「だって」が始まったわ、なんて情けない父親なんだろう。

 ママが文句をつけている相手は、大学で水の研究をしているフミヤ叔父さんだ。



      🏃



 兄とちがって几帳面で生真面目で、それが過ぎて心を病んでいるフミヤ叔父さん。

 心療内科の勧めで始めたジョギングに凝り始め、近ごろは依存状態にあるらしい。


 兄とちがい自分にきびしいタイプなので、なにがあっても一定の距離を走りこむ。

 ランニングハイ効果もあり、疲れていても熱があっても必ず15キロを完走する。


 だから、申し訳ないけど帰省できない、その分を取りもどすの容易じゃないから。

 それが叔父さんなりの必死な弁解だったが、もちろん、ミコは叔父さんの味方だ。


 大丈夫だよ、叔父さんの分はわたしがフォローするから、安心して走っていてね。

 アイコンタクトが通じたらしく、フミヤ叔父さんは尖らせていた肩の力を抜いた。


 


 

 

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