夕焼けに、あの音を乗せて

鳴代由

第1話

「あ、楽譜……ピアノの上に置きっぱなしだ」

 部活も終わり、空もオレンジに染まる。学校の下駄箱の前、私はカバンの中をあさる。家で練習しようと、楽譜をカバンの中に入れたはずなのに、忘れてしまった。最後に置いたのは……たしか、音楽室だったっけ。私ははあ、とため息をつきながら、家に向いていた足を音楽室に向けた。

 放課後の学校はなんだか不思議な気分になる。沈みかけの太陽が教室を照らし、自分の影が長くなる。少しの浮遊感もありながら、私は急ぎ足で廊下を進んだ。

 ふと、音が聞こえた。ピアノの音だ。優しくて、暖かい。でもどこか、寂しいような気もする音。誰かに見つけてほしいと、言っているかのような音。

 音楽室の入り口から中をのぞく。そのピアノを弾いていたのは、同じクラスの人だった。確か名前は蓮くん……だったっけ。喋ったことはないしどんな人かもあまり知らない。休み時間になると机に突っ伏して寝ていることが多かったはずで、そういえば誰かと話しているところも見たことがないような気がする。

 ──ピアノを弾いている彼は、とても生き生きとしていた。

 私は思わずその姿に見入ってしまう。楽譜を取りに来たという目的も一瞬忘れ、彼の音に耳を澄ませた。


「水瀬? そこでなにしてんの?」

 入り口で彼の音に集中していると、いつの間にか音は止んでいて、代わりに名前が呼ばれる。閉じていた目を開けば、目の前にはさっきまでピアノを弾いていたはずの彼が立っていた。

「あっ、いや。ごめんね」

「別にいいけど」

 彼はそっけなく返事をして、またピアノの前に戻っていく。彼の声とともに現実に引き戻された私は、最初の目的を思い出した。

「そうだ、楽譜……」

 私は彼について音楽室に入り、ピアノの上に目当てのものがないか探す。

「探し物?」

「うん。ピアノの上に楽譜を置きっぱなしにしてたはずで……」

 そう、返事をしながら楽譜を探すも、探していたものはなく。もしかして別の場所に忘れたのだろうか。いやでも、記憶では確かに、この場所で見たのが最後だったはずで。

 部室とか、はたまた別の机の上だったか、と頭を悩ませていると、ふと、私の目の前に紙が差し出された。

 それはまさしく私が今まで探していた楽譜だった。

「探してたのこれ?」

「あ、ありがとう」

 楽譜は彼が先に見つけてくれたみたいだ。私はそれを受け取り、カバンにしまう。さて、目的も達成したことだし先に帰ろう、と彼に声をかけようとしたときだった。

「それ、フルートの楽譜だよね。吹奏楽やってるの?」

 と、彼のほうが先に口を開く。

「うん。そう」

「へぇ、いいじゃん」

 そう言って笑った彼の表情は、窓から差し込む夕焼けに照らされていた。笑った顔を見るのは初めてで、ああ、そんな風に笑うんだ、と私の心が、とくりと跳ねる。今にも夕焼けのオレンジに吸い込まれてしまいそうな、そんな表情に、私はすでに惹かれていた。

 さっきは帰ろうとしたけれど、このまま帰ってしまうのもなんだかもったいない気がして、なんとか会話を繋げようとする。もう少しだけ、彼と話してみたかった。

「え、と、蓮くんは、ピアノ弾くんだね」

「まあね。意外って言われる」

「確かに、ちょっと驚いた、かも」

 こうやって話してみると意外と楽しいところとか、彼も音楽が好きなんだとか、普段の彼からはあまり予想ができないことだった。

「いつも、ここに来てるの?」

「そうだね。ここでピアノを弾いてると、少し落ち着く」

 家では一人だから。そう言って彼はまゆ毛を下げる。彼にとってはここが心休まる場所なのかな、と、そう思うと、一言も言葉は出てこなかった。

 ただ少しだけ、音楽室の入り口から彼の弾くピアノを聞いただけ。それなのに彼の弾く音が忘れられず、もっと聞いてみたいなあ、なんて思う。いつまでここでピアノを弾くのかな。彼にそう聞こうとしたけれど、なかなかその言葉が出てこなかった。

「……気になるなら、聞いててもいいよ」

 人に聞かせることなんかないから、上手さは保証しないけど。そう言って弾き出す彼のピアノの音は、もう沈みそうな太陽と、うっすらと淡くなっていく紫色に溶けていった。


 あの日からたびたび、帰り際になると彼に会うようになった。一度気にしてしまったから、だろうか。

 部活の片付けも終わり、さあ帰るぞ、と思っていたところに彼が来た。今日もまた、ピアノを弾きに来たらしい。

「今日も、聞いていく?」

 ああ、まただ。そうやって柔らかく微笑まれたら、断れない。私は聞く、と短く返事をして、彼とともにピアノのほうへと向かった。

 いつもと同じように、彼はピアノの前へ、私はピアノに一番近い机に座る。彼はすっと息を吸ってピアノの鍵盤に置いた指を動かした。

 耳に響いたのはいつもとは違う楽しい音。そしてどこか、聞き覚えのある曲。

「蓮くん、この曲……」

「吹奏楽でやってるでしょ、この曲」

 彼が弾いてくれたのは、今部活で練習中の曲で。私に聞かせるために練習してくれたのかな、とか、そうでなくても私が練習中の曲と同じ曲を弾いてくれるなんて嬉しいな、とかいろいろな感情が浮かんできて、心が暖かくなる。

「水瀬も一緒に演奏しない?」

 ふと、指を止めた彼にそう言われた。

「この前の楽譜、この曲だったでしょ。一緒にできたら楽しいかなって」

 そりゃあ、やれるのなら、一緒にやってみたい。私は緊張しながらも小さくうなずく。心臓の音が、さっきよりも耳に響いて離れなかった。


「じゃあ俺、伴奏弾いてるから、水瀬は入れるところで入ってきて」

「わかった」

 楽器を構え、彼が弾く音を耳になじませる。息を吸って、ピアノの音に自分のフルートの音を乗せた。

 ひとつ、音を出してから、最後、曲が終わるまで、あっという間だった。私と彼の音が重なった瞬間、ぞわぞわとした心地よい感覚が押し寄せてきて、胸が高鳴った。こんな感覚を味わったのはたぶん初めてで、今にも飛び上がりたい気分だった。

「……すごい」

「うん、すごい。この曲、水瀬のために練習してよかった」

 ピアノの鍵盤を撫でる彼も、私と同じ気持ちのようで、浮き立つような明るい顔を見せている。よほど、楽しかったのだろう。私も楽しかった。しばらく、二人ともが無言で、二人で演奏した余韻に浸っていた。

「……水瀬」

「ん?」

 まだ余韻も抜けきっていない頃、彼がぽつり、と私の名前を呼んだ。さっきまで晴れやかな笑顔を見せていた彼は、今はなんだか火が消えたような、そんな表情をしている。初めて彼のピアノを聞いたときのような、そんな寂しさが私を襲った。

「蓮くん?」

「俺、水瀬に言わなきゃいけないことがあるんだ」

 ゆっくりと、選ぶように言葉を紡いでいくその様子が、喜ぶような内容ではないことを暗に示していた。

「今まで何度も言おうとしてたんだけど、結局今日まで言えなかった」

 彼の言葉を聞いて、胸の奥がざわついた。さっきの演奏で跳ね上がった鼓動も、今は別の意味で跳ね上がっている。私は彼の言葉を邪魔しないように、そしてひとつも聞き逃さないように、彼の声に耳を傾けた。

「俺さ、今度引っ越すんだ。……親の都合で」

「そう、なんだ」

 あまりに突然のことで頭が回らなかった。思ったことをそのまま口に出してしまったあとで、おかしな返事だったかな、と後悔する。

「これから、引越しとか、転校とか、準備で忙しくなるから、ピアノはもう弾きにこれない」

 急にごめん、と謝られた。仕方のないことだよ、とか、今日一緒に演奏できて楽しかったよ、とか、言えたらよかった。けれど私の口からは声にならない空気ばかりが音を立てずに出ていく。

「水瀬。最後に、言っておきたいことがあるんだ」

 彼は申し訳なさそうな目で、私を見つめる。そんなにまっすぐに見つめられたら、別れるのが惜しくなるのに、それでも目を離さない。青かった空ももうとうに夕焼けの色に変わり、時間の終わりをほのめかしている中、彼の口が静かに、好きだ、と動いた。


 雲ひとつないくらいの青空に、薄ピンクの桜が舞う。私は彼の姿が見えなくなったピアノの前で、フルートを取り出した。

 あの日、二人で重ねた音を思い出しながら、息を吸い、メロディを奏でる。

「あれ、水瀬ちゃん、その曲、去年の文化祭で吹いた曲だよね?」

 後ろを通りがかったトランペットパートの子に声をかけられた。私は振り返り、そうだね、と笑いかける。

「これから吹く予定あったっけ?」

「ううん、ないよ。でも、思い出の曲だから吹きたくって」

 今でも彼のピアノの音が心の奥で鳴っている。忘れたくないから、私は彼との思い出のこの曲を、いつまでも紡ぎ続ける。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕焼けに、あの音を乗せて 鳴代由 @nari_shiro26

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る