はざま屋

佐々木尽左

第1話

 周りがよく見えないほど暗い中、一軒の小さな店がある。硝子ガラス越しに漏れる光は周囲の闇に引き立てられて明るい。


 古びた木造建築の右端に引き戸があり、その脇に『はざま屋』と筆で書かれた赤提灯がぶら下がっている。


 中に入ると店内は中央にカウンターが貫いていた。出入り口から向かって右側に席がとうあり、反対側は板前の調理場で各種の食材と道具が並んでいる。


 調理場の奥は白い暖簾のれんが床近くまで掛けられていた。そこから和服に前掛けをした店主兼板前が現れる。


「よっと」


 暖簾の脇にぶら下げられた肉の塊を避けた店主の頭部には何もなかった。髪の毛はもちろん、眉、目、鼻、口、耳の一切がない。のっぺらぼうだ。


 店主は食材と道具を見て回ると、木製の小さな丸椅子に腰掛けた。同時に小さなため息をつく。


「もう歳なのか、最近体が前ほど動かなくなってきてるんだ。念願叶ってこの店を開いてからもう随分と経つからねぇ」


 首の骨を鳴らした店主は店内を見回した。あちこち年季が入っている。


「幸い食っていく程度には繁盛させてもらっちゃいる。できればずっとこうしていたいね。何しろあたしは、お客さんがここで楽しんで元気になって店を出て行くところを見るのが何より好きなんだ」


 まだ客のいない店内で店主はしゃべり続けた。客が一杯引っかけながらとりとめもなく話すかのように。


 引き戸が開く音に店主は気付いた。丸椅子から立ち上がって顔を向ける。


「いらっしゃい」


 入店してきたのは垢舐めだ。人間の子供程度の大きさで、肌は暗い緑、頭髪はぼさぼさ、そして足に鋭い鉤爪かぎつめがある。


「濁り酒をくれ。深皿に入れてな」


 垢舐めがカウンターの真ん中の席に座った。濁り酒が並々と注がれた深皿を受け取ると、どす黒い赤色の液体を爬虫類のように長い舌で舐め飲む。


「旨いね。この若干とろみのある食感がたまらん」


「ありがとうございます」


「それにしても、人間の世界ってぇのも随分と変わったねぇ」


「そうらしいですね。あたしは最近行ってないんで直接見てませんが」


「昔は木や土でできた家ばっかりだったってぇのに、最近は鉄やわけのわからねぇもので建てられてやがる。その点、ここは昔ながらで落ち着くね」


「確かに建物の造りは昔ながらですね。けど、ここも少しずつ変えてるんですよ」


「例えば?」


「明かりは前だと蝋燭や菜種油を使ってましたが、今は電球を使ってるんですよ。ほら」


 店主が指差した先には天井からぶら下がる裸電球が輝いていた。


 釣られて目を向けた垢舐めが気付く。


「人間の世界ですっかり見慣れちまってたから全然気付かなかったよ」


「これはこれで良いものでしょう?」


「まぁね。ただ、オレっちの方はそうもいかねぇんだよな」


「と言いますと?」


「最近の家はどこも小綺麗で、あんまり舐めても垢の味がしないんだ。そりゃ水垢くらいはどこにだってあるよ? けど、もっとこう濃いやつが舐めたいんだよ」


「変わってほしくないというものも確かにありますよね」


「だろう?」


 相づちを打った店主に気を良くした垢舐めが喜んだ。


 垢舐めがまた濁り酒を舐め始めると、再び引き戸の開く音がしたので店主は顔を向ける。


「いらっしゃい」


 入ってきたのは安少啼あんしょうていだ。店主と同じ和服だが、頭と手足は鳥、手には鉄の輪を持ち、額には矢が突き刺さっていた。


 垢舐めの二つ右隣に座って店主に矢筈やはずを向ける。


「サラミと冷酒を頼む」


「承知しました。器はお猪口ちょこでかまいませんか?」


「かまわないよ」


 目の前に差し出された徳利とっくりから、安少啼はお猪口に清酒を手酌すると大きく呷った。次いで箸を手に取りサラミをついばむ。


「お、このサラミ、前とは違う味だね」


「わかりますか。最近作り始めた自家製なんですよ」


「僕は美食家じゃないけど、どうせなら美味しいものを食べたいから嬉しいよ」


「ありがとうございます」


 安少啼は何度か酒とサラミを口に入れた後に店主へと顔を向ける。


「この数十年の人間の世界の変化は特にめざましいね」


「そうらしいですね。あたしは最近行ってないんで直接見てませんが」


「でも、天井からぶら下がってる電球やこのサラミは昔なかったものだよね。行ってない割にはしっかり取り込んでいるじゃないか」


「はは、こちらでもちらほらと聞きますからね。それに、お客さんに飽きられないよう新しいものを取り込んでいかないと、じきに寂れてしまいますから」


「客商売も大変だね。でも、たまには直接見に行った方がいいよ。僕としては、女性が全体的に美しくなっていて嬉しい」


「そんなにきれいになってるんですか」


「そりゃもう。やっぱり豊かになるってことはいいことだよ。最近は目移りして困るくらいさ。特に今まで子供だって見向きもしなかった女の子にもバブみを感じ、いやなんでもない」


「バブみ、ですか?」


「いや本当に何でもないんだ。忘れてくれ」


 焦る安少啼は店主に告げると目の前の酒とサラミに視線をとした。


 会話が途切れたところで、再び引き戸の開く音がしたので店主は顔を向ける。


「いらっしゃい」


 今度は口裂け女が入ってきた。身長は二メートルを超える大柄で、真っ赤なコートと白いマスクをしている。


 安少啼の二つ右隣、カウンターの端に座った口裂け女はマスクを外した。するとその美貌の顔が現れるが、最も目を引くのは耳元まで裂けた口だ。


 けれど、店主はその姿を驚くでもなく見つめ、小首をかしげた。


 そんな店主の仕草を意に介することもなく、口裂け女は口を開く。


「ステーキをレアで、それと赤ワインをちょうだい」


「承知しました」


 店主が差し出したステーキ皿には、分厚く大きな肉が強い香りと共に湯気を上げていた。また、肉汁やソースからは弾ける音が聞こえる。


 口裂け女が大きめに肉を切り取って口に入れると細長い目がほころぶ。


「普段は生派なんだけど、たまにこうやって焼いたお肉を食べるのもいいわね」


「ありがとうございます」


 口の中の肉を飲み込んだ口裂け女は赤ワインの入ったグラスに口を付けた。


 その様子を眺めていた店主は遠慮がちに問いかける。


「お客さん、つかぬ事を伺いますが、ちょっと影が薄いですね」


「そーなのよ! 実は私、人間の世界に出た途端に殺されちゃったのよ!」


「へぇ、それはまたいきなりですね」


「ひどいでしょう! 今回は色々と用意したのに全部台無しになったの! もー最悪!」


 食事を中断した口裂け女は真っ赤なコートをはだけさせた。その裏地には、カッター、はさみ、のこぎり、ドライバー、針金などが所狭しとぶら下がっている。


「今は私の噂話もあんまり聞かないからのんびりと楽しめると思ってたんだけど、なんか強い霊能力のあるっていうお子様にいきなり追いかけ回されちゃってね」


「それは災難でしたね」


「まったくよ! 最近は疫病が流行っててマスクをしていても怪しまれないから絶好の機会のはずだったのに!」


「まぁまぁ、これでも飲んで落ち着いてください」


 空になったグラスに替えて店主は再び赤ワインを差し出した。口裂け女はそれを手に取ると一気に呷る。


 荒ぶる口裂け女をなだめていると、またもや引き戸の開く音がしたので店主は顔を向ける。


「いらっしゃい」


 姿を見せたのは赤鬼だった。筋骨隆々で赤い肌に毛むくじゃら、更には額に角が生えた厳つい顔の地獄の獄卒だ。カウンターの一番左端に座る。


「いつものをくれ」


「はい」


 目の前に陶製の一升徳利を置かれた赤鬼は、既に栓の開いているそれを片手で持ち上げて口を付ける。


「ぷはぁ、うめぇ! やっぱ仕事上がりはこれに限るな」


「最近お見かけしませんでしたね。余程お忙しいようで」


「そうなんだ。何しろ年々地獄へやって来る連中が増えててよ、獄卒の頭数が足りねぇんだ。おかげで残業三昧の毎日さ」


「地獄へ落ちる人間はそんなに増えているんですか」


「そらもう。この五百年で十倍だぞ。たまんねぇや」


 返答を聞いた店主は絶句した。


 赤鬼はもう一度一升徳利を呷ってからしゃべる。


「けど、どうも人間の数が増えたのはウチだけじゃないみたいなんだよ。極楽も同じくらい増えてるらしい」


「善人も悪人も増えたわけですか。それって」


「おうよ、人間の数自体が増えたってことだ。おかげで今や極楽じゃ住居問題ってのが持ち上がってるんだとさ」


「大変ですねぇ」


「まったくだ。地獄こっちに来るのは悪人だからどんな扱いをしても問題ないが、極楽あっちはそうもいかねぇからなぁ」


「どうしてこうも急に増えたんでしょうね?」


「さぁな。俺にはわかんねぇや」


 ため息をついてから赤鬼は一升徳利を傾けた。


 やって来る客と店主が順番に話をしていると、店内にはいつも通り雑多に賑わい始める。


 店主が赤鬼と話をしている横で、酒の入った垢舐め、安少啼、口裂け女が雑談に興じていた。


 濁り酒を舐めてから垢舐めが安少啼に尋ねる。


「あんたが入ってきたときからずっと気になってたんだけど、その額の矢はなんだ?」


「僕を射殺そうとした人間が放った矢だよ。幸い浅かったから死なずに済んだんだけどね」


「そりゃまた怖い話だな。けど、どうして抜かないんだ? 鬱陶しいだろ?」


「抜けないんだ。下手に引っ張ると痛くてね。だからこのままにしているんだよ。腕や脚だったら無理にでも引っ張って抜いていたんだけど」


 苦笑いしている安少啼に口裂け女が問いかける。


「あなたってどういった妖怪なの?」


「有名じゃないから無理もないね。僕は、人間の夢に現れて、その人にやまいをかけるんだ。そのまま放っていると何年後かに死ぬことになる」


「うわ、じんわりと追い詰めていくタイプね。怖いわぁ」


「でもね、祀ってくれたらその人から去るから、知っていれば怖くないよ」


「なんでそんな面倒なことしてるわけ? さっさとやっちゃえばいいのに」


「僕はその人間に警告するためにいるんだよ。放っておくと病気で死ぬぞってね」


 口裂け女は微妙な表情で赤ワインを飲んだ。


 垢舐めがサラミをついばみ冷酒を飲む安少啼に尋ねる。


「あんたが夢に現れる人間って、ちっちゃい女の子も入ってるのか?」


「え? まぁ、そりゃぁ。でもなんでまたそんなことを聞くんだい?」


「ちっちゃい女の子も美人が多いってさっき喜んでたからどうなんかなって」


「ぶっ」


 安少啼は口に含んだ冷酒でむせた。


 口裂け女が目を細めて安少啼を見る。


「あんたもしかして幼女趣」


「ちーがーいーまーすー。人間の世界が豊かになって年若い女の子も妙齢の女性のようにきれいになりましたねって言ったんですー」


「それじゃバブみってのは? オレっち意味がわからないんだが」


「さいてー」


「待って、待ってください。説明を聞いてください」


 それから安少啼は必死になって二人に説明した。


 赤鬼と話をしていた店主は、空になった一升徳利を持って一旦その場を離れる。そして、一升徳利に漏斗ろうとを差し込んで濁り酒の入った一升瓶を傾けた。


 何とはなしに聞こえてくるのは、安少啼から口裂け女への問いかけだ。


「さっきの店主との話を聞いていて気になったことがあるんだけど、いいかな?」


「なによ?」


「お姉さんは死んだそうだけど、これからどこに行くんだろう? 人間と同じように裁かれるのかな?」


「裁かれるのは確かだけど妖怪は別枠よ。前のときは禁固刑だったかな」


「経験があるんだ」


「一回だけだけどね。人間だったら地獄行きなんだろうけど、そこはちょっと違うみたい。詳しくは知らないわよ。あっちにいる宮仕えの赤鬼さんに聞いたら?」


 口裂け女は視線だけを赤鬼に向けた。


 赤鬼は店主から受け取った一升徳利を呷ってから口を開く。


「俺みたいな下っ端はりつなんぞ知らねぇぞ。ただ、妖怪が地獄にも極楽にも行かねぇのは確かだけどな」


「死んだらみんな同じだと僕なんかは思ってたんですが、違うんですね」


「地獄も極楽も人間用だからな。妖怪はその罪深さに応じて禁固刑が原則だ」


「ということは、出たり入ったりを繰り返すわけですか」


「まぁな。ただ、裁きを受けるときに妖怪をやめたいって申告すりゃ、人間扱いされるが」


「なんか想像していたのとは違いますね。てっきり僕達妖怪も極楽や地獄へ行くと思ってましたよ」


「最近こっちは無茶苦茶忙しいんだ。間違っても来るんじゃねぇぞ」


 赤鬼は面白くなさそうに一升徳利に口を付けた。


 話を聞いていた口裂け女は首をかしげる。


「あれ? だったら、何もできずに人間の世界で殺された私が妖怪をやめたいって申告したらどうなるのよ?」


「極楽行きになると思うぜ。俺としちゃお勧めのやめ方だな」


「んー、なんだか面白くないわね。ま、やめる気なんてないし、関係のない話ね」


 口裂け女は赤ワインで喉を潤した。


 話し終えた赤鬼は一升徳利を傾けた。そして、調理場の奥へと続く暖簾の脇にぶら下げられた肉の塊に気付く。


「店主、その簀巻きに猿轡さるぐつわされた人間はなんだ?」


「昨日仕入れたばかりの肉です。ここで生きたまま寝かしてるんですよ」


「そりゃまた変わったやり方だな。なんかいいことでもあるのか?」


「人間の世界では、植物に音楽を聴かせて育てるとその実が美味しくなるって聞きましてね。あたしもそれに倣うことにしたんです」


「けどよ、今音楽は鳴ってねぇよな」


「こいつに聴かせているのは音楽じゃありません。皆さんの会話ですよ。これから自分を食べてもらう方の話を聴かせてるんです。すると、肉がきゅっと引き締まって美味しくなるんですよ」


「始めて聞いたな。今ちょうど腹が減ってるんだが、だったら人肉のたたきを頼むよ」


「承りました」


 ぶら下げられている人間を持ち上げると、店主はカウンター手前にある大きなまな板の上に横たえた。


 その話を聞いていた口裂け女も追加の注文を入れてくる。


「そんなにいいお肉だったら、私も頼もうかしらね。刺身なんてできる?」


「はい、できますよ。そちらのお二人はどうですか?」


「僕はそうだな、しゃぶしゃぶにでもしようかな」


「オレっちはもつ煮込みが食べたい」


「承知しました」


 震えている肉をぺたぺたと触ると店主は何度かうなずく。


「いい感じですね。鮮度も充分だし、これなら旨いでしょう。それじゃ」


 店主は包丁を手に取ると、身動きできない人間の首に刃先を入れた。

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はざま屋 佐々木尽左 @j_sasaki

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