S4-9. VS 露出狂②

 出てきた言葉は、我ながらあまりにも白々しかった。隣の由貴が親指を眉間に当てた。もちろん事前に何かの合図と決めた仕草ではない。

 だが、目の前に立つ男の姿が揺れた。

 黙って聞き役に徹していた田熊が、ようやく口を開いた。

「人工知能だ。そもそもArtificial Intelligenceという言葉が、エレガントではない。一九五六年夏、あまりにもセンスのない技術屋たちの愚かしさのために、あたかも既存の知能に対して劣っているかのような、Artificialという言葉が当てられた」

「研究領域では人工知能と呼ぶ方が一般的だそうですね」と由貴。「ビジネス屋の素人はAIと呼びがちですね。我々のような一般人も、AIという呼び方の方が馴染みがあります」

「なぜ、と訊いたね」田熊の目線が実宇に注がれる。爛々と光るその瞳に、実宇は由貴の企みが完全に成功したことを悟った。

 困ったら、トーシロの、一般人目線の、馬鹿っぽい夢見がちなAI観をぶつければ、田熊は必ず乗ってくる。由貴は事前に立ち寄ったスターバックスで、実宇にそう言い含めたのだ。

 田熊はホワイトボードを引き寄せ、何かの数式を書き殴り始めた。

「そもそも、深層学習でトレーニングされた人工知能の関数が入力に対してなぜ適切な出力を返すのかは、完全には解明されていない。教えていないはずのことを答えられるのは、あくまで経験的事実にすぎないのだ」

「えっ、そうなんですか。知らなかった。すごーい」

「数学的な説明は省くが、理論的には、人工知能は、教師データが増えれば増えるほど汎用性を失っていく。既存の入力と出力の結びつきに縛られ、世界のすべてを網羅したデータをもってトレーニングすることなど不可能だからだ。過去問を丸暗記するだけの勉強では、知らない問題ばかりのテストで満点を取ることはできない。この現象を、過学習という。数学的には、過学習にならなければおかしいのだ。だが、深層学習は、この壁を突破する。あたかもデータの中に隠された本質が存在するかのように、知らないはずの問いにも正しく答える。優れた一冊の受験参考書を繰り返し学んだ受験生のように。これを汎化という。モデルの自由度、パラメータの数が多すぎれば過学習が起きるはずなのだ。だが起きない」

「そうなんですね」

 一度乗ったら『基本のさしすせそ』でおだてろ、とも由貴に言い含められた。砂糖・塩・酢、ではない。さすがです・知らなかった・すごい・センスある・そうなんですね、のさしすせそである。

 田熊はホワイトボードに意味不明な数式を書き連ねたかと思えば、XY軸のグラフに点を打ってその点になんとなく沿うような曲線を引く。省くと言ったはずの数学的説明を省いていない。あるいは、説明したいところを書くことで発散しているのかもしれない。

「エレガントだ!」と田熊は叫んだ。「仮説はあるが、数学者たちは反論の余地がない解答に辿り着いてはいない。その一つが暗黙的正則化仮説であり……」

 そこで由貴が口を挟んだ。「膨大なデータは学習の初期でしか使われない。多層ニューラルネットワークモデルのうち関数を作るのに本当に必要な、本質的なものはごく一部で、そのごく一部からしっかり学習するから過学習が起こらない。狙い澄ませばモデルをすっきり小さくすることもできる。仰る通り、エレガントだ」

「だが仮説だ!」田熊はホワイトボード用のマーカーを放り投げた。

 哀れなマーカーは綺麗な放物線を描き、社長室を区切っているらしいガラス板に当たって絨毯タイルの床に落ちた。

 この田熊という男が、SARCの人々に勝るとも劣らぬ、むしろ上回る変人奇人であることを、実宇は悟らずにはいられなかった。社員がリモートワークを徹底しているのは、柔軟な働き方のためというよりむしろ、社長となるべく対面でコミュニケーションしないためなのかもしれないとも思う。

「理屈もわからない中から知性が生まれる。これは子育てにも勝る快感だ。それを、Artificial? あたかもNaturalに劣っているかのような? まったく愚かなネーミングだ」

 センスありますね、と言いかけて実宇は口を噤む。代わりに由貴が言った。

「ジョン・マッカーシーのことですか?」

「いかにも」田熊は深く頷く。

「教科書的な原理原則に反している現象ってのは、自然界には結構あるそうですね。大体全部水のせいだと、同僚の化学屋が言ってました」

「そうだ。劣ってなどいない。最大限譲歩して、同等だ」

「人の目線、意識が、どのような重み付けで外界に割り付けられるかさえも解析できる。〈AAI社〉のコアテクノロジーですね」由貴は顎を引いて腕を組む。「これが僕と、僕よりもこの手のテック系に強い同僚の立てた仮説です。動画からの高度な視線解析AIにより通行人と広告のエンゲージメントを数値化・可視化し、最適化するソリューションの提供。この応用の一つとして、あなたのAIは、三次元空間において人の注意が向かない、集合意識の盲点のようなものを見つけ出したのではないですか? そしてその意識のエアポケットのような場所であれば、あなたはあなたの内に秘めた欲望を解放できることに気づいた。映像ソースは……そう、たとえば駅舎の広告にカメラを仕込んでいるとか。〈AAI社〉の広告でしたよね」

「私は告白する」田熊の顎が上がる。「私は、誰にも迷惑をかけることなく、下半身を露出したい」

「でも完全ではないんですよ。僕らの調査で、〈音速露出ニキ〉の姿を捉えることができた。最初にバズった動画にも映っていた。映像からの特徴量抽出による人の目線解析をベースにした技術であることが、この技術の弱点だ。だからアクションカメラの意図しないアングルには映ってしまった。スマホカメラはともかく、ランダムに装着されたアクションカメラは、特徴量として検出できないか、検出しても適切な重み付けができない。それに、複数の目撃情報も得られている。だよね、実宇さん」

「はい。この動画や他の動画にコメントしてる人に接触して、あなたの顔写真を見せて確認しました」

 目撃証言、とは言わない。

 確認したら、間違いなくこの男だという証言が得られた、とは言わない。あくまで示唆して、田熊から自白と取れる発言を引き出す。この話し方も、由貴と事前に示し合わせたものだ。

 だが田熊は不敵な笑みを浮かべる。

「SARCという組織の優秀さは理解した。君たちの構想を、私が実装することも不可能ではない。だがここで、なんの意味もない数字をお伝えしよう」田熊は親指で自分の喉の辺りの髭を撫でた。「過去、。アクションカメラを装着した女子高生たちが歩き回っている様子を視認して、五回」

「……嘘でしょ」と由貴は呟いた。

 実宇も、息を呑まずにはいられなかった。

 見るはずが見られていた。

 その事実だけでも驚くべきことなのに、撮影できた一回以外にも、彼は四回の露出をしていた。八〇%の確率で、彼は『誰にも迷惑をかけない露出』を実現していたことになる。

 広告を見る人の目線をベースとした技術なら、意識しないアクションカメラには弱いのではないか、と栗田太郎は推測し、乾由貴も同意して今回の調査が行われた。だが、八割の確率で、田熊が上回ったのだ。

 由貴は爪先で床を忙しなく叩いていた。

「ありえない……いや、そうじゃない。あっちゃいけないんだ。そんな技術は」

「あっちゃいけない?」田熊の目が鋭くなる。

 その目線を真正面から受け止め、由貴が言った。「人の目線を掻い潜れる技術。無数の目線とカメラが作る包囲網の、盲点を見つけ出す技術。僕ならそれを、要人暗殺に使います。たとえば、ある政治家のせいで日本の税金が他国に流れているとか、ある思想家のせいで日本に失われた三〇年が生じたとか、偏った思想を頭の中で育てた誰かがその技術を手にしたら? 選挙の時の政治家の遊説や、思想家が授業を受け持ってる大学に潜入して、気づかれずに近づき、パイプ爆弾や手製銃で確実に暗殺することだって可能だ。ローンウルフ型テロリズムのブレイクスルーとなり得るテクノロジーですよ」

「楽天、性善、民主化。この三つが、技術開発における私の信条だ」

「人工知能関連の学術論文雑誌は既存の論文雑誌と違って基本的にオープンアクセスだそうですね。だから技術革新のスピードが速い。Done is better than perfect.の精神に通じるものがある。でもね」

「基礎理論は既に論文として発表済みだ」田熊は呆気なく応じた。「私の信条とあなたの危惧。どちらが正しいかは、神のみぞ知る」

「……発表済みのものを取り下げろ、とは言いませんよ。仕方ない」

「ならよかった」田熊はまた、大きすぎるものを必死に抱き締めるかのように、両腕を大きく広げた。「ああ、露出したい。露出したくてたまらない……」

「したんですか?」隙を突いたつもりで実宇は訊いた。

 田熊は急に姿勢を崩し、世間話のように肩を竦めた。

「誰も見ていない場所でズボンを下ろすことなら、誰でもしていることでしょう」

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