2-18.乾由貴 対 アナーキー・アンディ


 乾由貴はPCを開き、Web会議のアプリケーションを立ち上げる。ホテルの壁掛け時計は二十二時を示している。通話先の時間では、朝の九時頃だ。

 約束の時間のきっかり一分前に、通話相手が入室、カメラとマイクが有効になる。その姿を認めるや否や、由貴は英語で言った。

「ご無沙汰しています。教授」

「久し振りだね、ユッキーさん」と応じたのは、ロマンスグレーの豊かな髪と髭を蓄えた、丸眼鏡の白人男性だった。

 留学時代、由貴は同じく彼に師事する仲間たちに、「僕らのボスはジョージ・ルーカスに似ていない?」と主張した。だが、なぜか誰からも同意は得られなかった。彼らにしてみれば、乾由貴は上原浩治に似ているのだという。もちろん全然似ていない。どう考えてもボルチモア・オリオールズのファンが多い土地柄のせいである。

「それで、相談というのは」男は、優しげな風貌と笑顔と乖離した言葉を続けた。「君が不遜にも送ってきたこのハンバーガーに挟まったピクルス並みのクソ分析のことかね? それとも我が研究室の過去の所属者一覧から発音しにくい日本人の名前を削除してほしいという謙虚な申し出かね?」

「あなたの塩味と脂味を際立たせる酸味の話です、教授」と由貴は応じた。

 人呼んで、アナーキー・アンディという。

 元FBI捜査官にして現在は米国メリーランド大学で教鞭を執る犯罪心理学者、アンソニー・タッカーである。

 FBIは、伝統的に、極めて高いスキルを持つ個人によるアート的なプロファイリングを好む傾向にある。だがタッカーは、徹底してエビデンスベースを主張し、実行に移し、実績を挙げた。アカデミアに転じてからもその思想は変わらず、そして、口の悪さも変わらなかった。嘘か本当かクワンティコで最もFワードを使いこなす男と呼ばれた現役時代に、反主流の徹底的な統計ベース手法で、人の嘘を見抜く方法を得意気に語るベテラン捜査官や伝説のプロファイラーの著書を丸暗記する才気煥発な若手を叩きのめしながら出世を重ねたのがアンソニー・タッカーという男だ。彼が逮捕に貢献した凶悪犯罪者でフットボールチームが組めるとか、連邦議会を占拠できるといった嫉妬混じりの揶揄の例は数に限りがない。そんな評判の中でついた渾名が、アナーキー・アンディなのだ。

 若かりし頃の、日本語の心理士教育では探究心が収まらなくなった由貴を受け入れ、そして叩きのめして鍛えたのもまた、タッカーであった。

 そのタッカーは、Web会議のカメラに映るように、印刷物の束を片手にしていた。由貴が送った、笹渡事件における精神分析の結果と見解をまとめたものだった。それをタッカーは、画面の前で、思い切り後ろに放り投げた。

「カスだ。標準化されない手法の検査結果になんの意味がある?」

 ひらひらと舞うA4用紙。相変わらずの態度に、腹立たしさを通り過ぎて感傷を覚えた。

 これで悄気ていてはタッカーと議論することはできない。わざわざ印刷して手元に置いて、時間通りにWeb会議にログインして、大事に準備しておいた書類を放り投げるパフォーマンスをしてみせるのが、アンソニー・タッカーという男なのだ。

 下唇を突き出しながらタッカーは言った。「過去十年以内に、再現性が否定された心理学実験を三つ以上述べよ」

 これはトラップだ。

 三つ以上と問われ、回答を三つで止めたら、アンソニー・タッカーはその回答者を見放す。この罠にかかった学生を由貴は何人も見てきた。一度見放された学生が信頼を取り戻すことは難しい。そしてタッカーは、見放した学生を罵倒しない。むしろ慇懃に、その学生が自分の研究室で何も得られないように優しく接するようになるのだ。

 由貴は呼吸を整えて言った。

「社会的プライミング、目の効果、赤い服効果、新生児模倣、マシュマロ・テスト、一万時間の法則、表情フィードバック効果、えっと……ステレオタイプ脅威、パワーポーズとかも」

「十分だ」とタッカーは言った。「君がアカデミアを去っても論文に目を通しているかを試した」

「教授が仰りたいことは理解しています。ですが」由貴は胃に違和感を覚えた。乾由貴がこうも緊張する相手は世界広しといえどアンソニー・タッカーだけだった。「統計は傾向にすぎません。ですから、僕は教授の統計万能主義には賛同できません。アノマリーな外れ値を無視することは、人間、自然、世界の複雑さへの侮りではありませんか?」

「ならインクのシミとウェブブラウザの秘密のブックマークを結びつけて精神分析だと言い張ればいい。紙の右半分に絵を描いたら支配的傾向があるのかね? ユッキーさん、君が欲しいのは阿呆どものシェアやリツイートか?」

「あなたはこの世で一番SNSを使うべきではない人間の一人ですね。職を失いたいのなら止めませんが」

 これまで言葉を交わした中で最も口が悪い人間は誰かと訊かれたら、乾由貴は迷わずアンソニー・タッカーと答える。だが彼の言葉の中にはユッキーさんという間の抜けた呼び名が混じる。これはそもそも、由貴、という名前が英語話者には発音しづらいことに由来する。特にタ、カで同じアの母音を持つ音が連続するためなのだとか。日本語話者からすれば、由貴のタカもアンソニー・タッカーのタッカーも大して変わらないが、英語話者には大きな違いなのだ。

 そこで、由貴という漢字にはユキという読み方もあると知人に教えると、それが彼らにはユッキーという読みで定着した。さらに日本人とのコミュニケーションに便利な『さん』をつければ、ユッキーさんという珍妙な呼び方の完成である。しかし最近、ユッキーさんと呼ばれる機会が増えてしまった。園田実宇のためである。

 一方、由貴も、アメリカ人との会話で日本語を便利に使うことがある。

「本題に入りましょう、センセイ・タッカー」と由貴は言った。「連絡を差し上げた時は、被疑者の精神分析について、あなたのご意見を伺いたかった。僕一人では行き詰まりを感じていたからです。でも、今は違う。僕は、あなたから叱責されるべきだと考えています」

「コウスケ・ササワタリへの君の分析については、大筋では私も同じ意見だ。私の助言を乞うた時の君と」とタッカーは告げる。「ASDとADHDの併存。それに伴う社会性の欠如、表現の困難、共感性の欠如、こだわりの強さ、不注意、衝動性。本来はDSM‐5対応の評価スケールをもって鑑別すべきだが、君と笹渡の置かれた特殊な状況を勘案するに、責められるべきではない。完全に調理されたホットドッグからマスタードを除けと言うようなやつはスタジアムから叩き出すしかない。言語連想検査への他人事のような回答も、ASDの影響と考えるのが自然だ。エピソード記憶研究における情報を記憶、想起するための三段階は?」

「符号化、貯蔵、検索です。ASD者の場合、エピソードを符号化する際の感情の関わりが定型発達者と異なる。これは言語連想検査における情動刺激語への反応の違いとしても現れますよね。これが、自分の話を、他人事のように語ることに繋がります。まだ若いので論拠としては弱いですが、レミネセンス・バンプが現れていないことも特徴的でした。一〇代後半の記憶について、彼は積極的に語ろうとはしなかった」

「では、独自の理論へのこだわりが他者への強い攻撃性に発展したのはなぜか。妄想性パーソナリティ障害のような特徴は見られない。セントラルエイトのうち彼が該当するものは?」

 アンソニー・タッカーならば必ずこれを訊いてくる、と由貴は予想済みだった。

 セントラルエイトとは、カナダの犯罪心理学者D.A.アンドリュースとジェームス・ボンタがメタアナリシスにより見出した、犯罪の危険因子のことである。『犯罪歴』『反社会的交友関係』『反社会的認知』『反社会的パーソナリティ』『家庭内の問題』『教育・職業上の問題』『物質使用』『余暇活用』の八つであり、このうち前から四つについては特にリスクが大きいため、ビッグフォーとも呼ばれる。メタアナリシスによりそれぞれの影響度は数値化されており、精神障害や知能、社会階層などはセントラルエイトよりも遥かに下に格付けされている。

「笹渡の場合、まず『犯罪歴』『反社会的交友関係』については、否定できます。敵意帰属バイアスのようなものも見られませんから、『反社会的認知』についても否定できます。しかし、『反社会的パーソナリティ』『家庭内の問題』については、これまでのインタビューや生育歴から肯定せざるを得ません。『余暇活用』については、水槽を愛でたり健康食品のセミナーに参加したりと、充実していたようですので、否定です」

「物質使用については?」

「覚醒剤やアルコールへの依存は見られませんでした。ですが、影響が未知の物質の習慣的使用は確認されています。現在のところは、肯定も否定もできません」

「せいぜいダブルチーズバーガーだ。一定の危険因子は有している。だがこの数値では、因子をもって危険性が高いと断言することも困難、と」タッカーは親指の先で髭を撫でた。「ユッキーさん、君は統計的に有意な傾向から外れた、何らかの比較的珍しい疾患の可能性については検討したかね?」

 由貴の肌が粟立ち、鼓動が跳ねた。もしも対面なら即座に気づかれていただろう。

 図星だったのだ。

 なぜ、由貴が今日の相談の目的を意見伺いから叱責を受けることに変えたのかを、タッカーは淡々と、夜が朝になるほどの距離を物ともせずに指摘する。

「君の統計的な傾向から外れる物への眼差しについては、私もある程度評価していた。非標準的な手法の採用も、君の場合は無知に由来する古典的手段への妄執とは異なっている。私の指導を受けて私の劣化コピーノックオフになることを目指すのではなく、自分自身のスタイルを作り上げて飛躍テイクオフしようとする学生を、私は肯定する。稀だからだ。だからこそ、君は屈辱を感じなければならない。もしも君が今も君自身の致命的な見落としに気づいていなかったのなら、私は君を叱責しなければならないところだ」そこまで言ってから、タッカーはテーブルに置いたトールサイズのコーヒーに手を伸ばした。「だが、自分が叱責されるべきと理解している者を、私は叱責しない。君のローストしすぎた赤身肉より硬い固定観念に穴が開いたきっかけを聞こうか」

「同僚ですよ。彼女には僕にはない知見はもちろん、僕にはないセンスがあります」

「それは、君のガールフレンドが心中穏やかではいられない話だな」

「彼女とはもう……」と応じかけて、由貴は画面を覗き込んだ。「まさか、聞いてる?」

 タッカーはコーヒー片手に頷く。「最初からね。君から連絡があったら、彼女に知らせないわけにはいかない。今、カメラの画角の一歩外で、彼女はハリケーンのように荒れ狂っている。何も言わないがね」

「一刻も早くこの会話は終わりにしましょう。ルイジアナに甚大な被害が出る前に」

「では君の新たな見解を聞こう」

 由貴は、何度目かの深呼吸して言った。

 タッカーは目を細めて頷いた。彼の表情のうち、最も長続きしないものの一つだった。


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