2-4.四枚カード問題

 どこまでも続く関東平野に夕日が沈む。市街地が後方へ遠ざかり、次第に建物の群れが田園地帯へと変わっていく。やがてすべてが夜の帳の中へ沈み、高速道路は暗中に架かる橋になる。

 北へ進むにつれ交通量は激減する。樹里は車のヘッドライトをハイビームに切り替える。気を遣う先行車も対向車も乏しかった。

 後ろの由貴が「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。

「おーう、どうしたユッキー」

「カナブンです。胸にドスンと。これだから夜の高速走行は駄目なんです。今から洗車が憂鬱ですよ」

「そんなことより宇宙細菌の話なんですけど!」

 時速九〇キロメートル超で衝突する甲虫の話は実宇の興味を惹けなかったようだった。

 上村阿呆人の日本怪奇紀行に実宇の推理を重ねると、その銀河のパワーを送るという電話番号の主は、青森県本青森市にあるE社という健康食品メーカーなのだという。

「プロバイオティクス? ってやつらしいんです。上村先生の記事曰く」

「うわ、怪しいやつだ」と樹里は応じた。

 スマホのスピーカーから由貴が言った。「確かに若干オカルトな印象ありますよね。ヨーグルトとか乳酸菌飲料とか」

「というか大半の消費者は誤解してるな。ユッキーさ、ミューちゃんも、あの手の乳酸菌とかビフィズス菌って、生きたまま腸に届くから効くと思ってるだろ?」

 頷く実宇。「違うんですか?」と由貴。

 樹里は運転に意識を払いつつ言った。「嘘じゃないけど正確でもない、ってとこだな。大半が胃酸で死ぬ。というかパッケージに詰めた時点で殺してる。大体、食品の中にわんさか生菌がいたら保管中にどんどん味が変わるじゃん。プロバイオティクスってのは生菌を体内に導入することを指すから、死菌にこの言葉を使うのは正確じゃないんだよ。そもそもプロバイオティクスって抗生物質の対立概念だし」

「え、じゃあ、僕らが乳酸菌で感じるお腹の整った感、プラセボ効果ってやつなんですか」由貴はクラッチ側の手で自分のお腹のあたりを擦っていた。

「プラセボじゃない。死菌でも効くんだ、これが」

「そんなことってあるんですか。すごいな」

「車間距離、距離」前輪が接触しそうなほど詰め寄ってくる由貴を窘めて樹里は続けた。「腹の中にも乳酸菌とかビフィズス菌は常在してるじゃん? 死菌があると、それらのいわゆる善玉菌が一時的に数を増やす。死菌そのものや乳酸・酢酸のような代謝産生物が腸内のpHを善玉菌が生育しやすい値に調整するんだよ」

 実宇は宇宙細菌の話を一時忘れたようだった。「それって、だったら、生きたまま腸に届ける意味ないってことですか?」

「いや? 生菌の状態で腸に入ればその方が効率的なのは確か。でも死菌を大量に入れる方が明らかに技術的な難易度が低い。生菌を入れた方が有意に有効で、しかもユニークな効果が出るって論文も読んだことあるな」

 実宇は首を傾げた。髪が流れてシアンのインナーカラーがよく見えた。「カプセルとかに入れればいいんじゃないんですか?」

「ただのハードカプセルじゃ無理だな。pH反応性で胃中では溶解しない基材でコーティングすればいける。でも技術的にそこそこ高度だから、安さ第一の健康食品とはなかなかマッチしないんだよなあ」

「色々難しいんですねえ」と由貴。後ろのアフリカツインがアクセルを緩め、車間距離が離れる。

 樹里は車のステアリングを握り直した。「大体胃に溶けずに腸で云々って、便秘薬のキャッチコピーで有名になった概念なんだよ。それを怪しいプロバイオティクスがタダ乗りしやがって」

 機を見計らっていたのだろう。一段落を察した実宇が口を開いた。「でも宇宙細菌だったら胃酸でも死なないかもしれないですよね?」

「極限環境微生物ってのもいるけど……」うーん、と樹里は声に出す。「滅多刺しにそれが関係するかな。銀河のパワーだっけ?」

「ずばり、細菌を介して宇宙人に操られてて、自分が宇宙人だと勘違いしている」

 どうだかなあ、と樹里は応じる。

 道は首都高やその周辺を走っていた時と比べて随分と暗くなっていた。高速道路を照らす照明の数や強さは変わらないから、周辺からの建物の光が減ったのだ。

 関東平野の終わりが近づいている。

「宇宙人でちょっと気になることがあるんですよ」実宇はスマホを弄りながら言った。「ここ一ヶ月くらいで、青森県内のUFO目撃情報がすごく増えてるんです」

「増えてるって、何、そんなん集計してるサイトとかあるの?」

「まさに。UFO目撃情報投稿サイト〈UFO CRAWLER〉です。でっす!」

 自信満々に画面を見せられても、運転中では確認するわけにもいかない。

 実宇が語るには、全世界のUFOマニアが利用する、その筋では有名なウェブサイトなのだという。利用者はUFOを目撃した場所、その時の状況や時間帯の説明、画像などを投稿する。その情報は地図上にタグとして表示され、誰でも閲覧することができる。

「賑わってるってことは、利用者がいるってことか」聞き耳を立てていたらしい由貴が言った。「アメリカのサイトなんだよね? まあ、あっちなら、UFO大好き人間の人口層も厚いか」

「ユッキーさん遠回しに私のこと変人偏屈って言ってない?」

「察しがいいね……」

「日本人の投稿も結構あるから」

「そりゃ青森に投稿するのは日本人でしょ……」

 揚げ足取りは乾由貴の悪い癖である。樹里は助け舟を出すことにした。「ミューちゃんさ、その急増ってどんなもん?」

「ここ一週間で五件。今月に入って八件。普段は日本全体で月に数件くらいなんです」

 由貴が早速応じる。「それ賑わってるって言う?」

「賑わってるとは言ってませんー! 日本人の投稿も結構あるとしか言ってませんー!」

 まあまあ、と樹里は割り込んだ。「明らかに外れ値なのは確かだな。理由として考えられるのは……」

「笹渡が宇宙人だから!」と実宇。

「UFOマニア一人の気まぐれでは?」と由貴。「自分の予想に沿わせようとして現実を捻じ曲げる。反証可能性の検証を無視する。確証バイアスってやつだね。ウェイソンの四枚カード問題って知ってる?」

 なんだそりゃ、と樹里が応じると、由貴は少しバイクの速度を落とした。

 それぞれA、B、1、2と書かれたカードが置かれている。被験者は、そのカードには『表が母音ならば、その裏面は偶数でなければならない』というルールがある、と説明される。では、このルールが正しいかを検証するためには、四枚のうち、どのカードを裏返して確認すればよいか。一枚でも四枚でも構わないが、枚数は最小であることが望ましい。

「じゃあ実宇さんから。どれを確認して、どれを確認しない?」

「Aと、2。母音と偶数が表になってるやつの裏を見れば、ルールが正しいかわかるはずだし」

「では樹里さん」

 数秒考えてから樹里は言った。「Aと1かな」

「さすが。正解は樹里さんの方です。ですが、この実験の本質は正誤ではありません。その頻度です」バイクに跨る由貴は頻りに頷いている。「論理的に考えれば、ルールの確からしさを検証するためにはAと2では駄目なんです。母音と、奇数の組み合わせがないことを確認しなければ、ルールの正しさを証明することはできない。実宇さんの答えだと、たとえAの裏が偶数で2の裏が母音だとしても、1の裏が母音である可能性が残るよね。でも、サンプル数を多く取ると、圧倒的に実宇さんのように答える方が多い。これが確証バイアスなんです」

「な、なんかムカつく」と実宇。

「恥じることじゃないよ。これ、14、30、タバコ、キャンディに置き換えて、喫煙は二十歳以上、年齢と嗜好品の問題だとすると、『14、タバコ』という正解を選ぶ確率が途端に高くなる。規範意識はバイアスを乗り越えるんだ。むしろそのために規範は存在しているのかもしれない」

「お前、結構堪えてたんだな」と樹里は言った。

「何がです」

「石黒にしてやられたこと」

 図星のようだった。由貴はため息をついた。

「直感に反してでも論理的に考え、認知の陥穽をハックされた可能性を潰す。それは、僕よりも樹里さんの方が向いてるのかもしれません」

「また石黒が出てくるとは限らねえだろ」

 実宇が力強く応じた。「ですね。手先じゃなくてガチ宇宙人かもしれませんし」

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