1-23.AにしてZ、ZにしてA
秋野村は存在しなかった。小さな橋とトンネルの奥にはセットが設営されていた跡だけがあり、更に奥に通じる道は三人がかりで探してもどこにも見当たらなかった。当然、秋野忠義教授の研究施設も。表のバリケードは実在する建設業者のものに差し替えられていた。
石黒の行方も杳として知れなかった。飯田市側に出たのだから、中央道経由で東京に戻ったのかもしれない。或いは東京以外に拠点を持っているのかもしれない。だがレクサスは練馬ナンバーだった。
兵頭自動車と併設の〈ROUTE CAFE HYODO〉にも立ち寄った。それとなく話を向けたが、秋野村の生活維持に彼が関わっている証拠やそれを匂わせる言質は何ひとつ得られなかった。
公浜西署へ赴き、磯辺と増田にも面会した。26番の証拠はナイフに差し替わっていた。白い液体のことなど誰も知らないようだった。鑑識の野末にも問い質したが、彼は必死で分析したはずの防犯カメラの映像のこと、そこに映し出されていた少女やライトバンのことを忘れていた。事故車のクラウンは持ち主が見つかり、スクラップにされたとのことだった。
ナイフからは山田香菜の指紋が検出され、山田は犯行を認めていた。ゲームの見立て殺人、村上綾に好きな男を奪われたというありふれた理由だった。その男とは塩見柊汰だった。サークル内の痴情のもつれ。ゲームになぞらえた犯行。それなりに話題になって、一週間で忘れられそうな事件になっていた。
それでも、樹里も、由貴も、実宇も、自らの足で赴き、自らの五感で見聞きしたことを忘れていなかった。
「科学捜査のセカンドオピニオンも何もない事件でしたね、って笑われちゃいましたよ。増田さんに」例によってスピーカーから由貴の声がした。「あの人、僕とバイクの話したこと覚えてるんだろうか」
高速道路を東京に向けて走る。往路ほど速度は上がらず、往路ほど賑やかな車内ではなかった。太平洋が開けても、富士山を通過しても誰も騒がなかった。サービスエリアでの食事も、フードコートに入っていた全国チェーン店で済ませてしまった。
SARCに連絡すると、応じたのは森木志雄だった。口頭での報告を求められ、単調な高速道路を走りながら事の顛末を可能な限り簡潔に語る。石黒との遭遇については、由貴に語り手を譲った。
木志雄は、何ひとつ否定しなかった。驚きもしなかった。彼がこうも若手の話に耳を傾ける姿を樹里は目にしたことがなかった。
そして報告もひと段落し、交通量が増えた海老名のあたりで、実宇が急に声を上げた。
「そうだ! 写真!」実宇はスマホを取り出し、そして程なくして、眉を寄せて「何これ……」と呟いた。
樹里は車間距離を確認してから実宇のスマホを見た。
秋野村で発見した研究ノートを撮影したはずの画像は、すべて滅茶苦茶な画像加工をかけたかのように乱れ、判読不能になっていた。
「クラウドは?」
「あそこ電波なかったですし。通信量もったいないからWi‐Fiに繋がってる時だけ同期にしてますし、ここにしかないです……」
「一応まゆみさんには連絡したから」
由貴が応じる。「電子顕微鏡観察の話ですか?」
「そう。あっちにサンプルが残ってれば、少なくともあの公園で有機ナノチューブが採取されたことがわかるだろ」
「樹里さんが増田さんから借りた分は?」
「返しちゃったんだよな……」
そうですか、と応じたきり、お喋りな由貴も口を噤んだ。
渋滞の東名から更に渋滞する首都高に繋がるところで高速を降りると、SARCはもう目と鼻の先である。現地での確認に時間を費やしたために、もう夕方だった。
建物から照明の光が漏れている。ワーカーホリック気味の一部を除き、容赦なく定刻退勤する職員の多いSARCにしては珍しかった。駐車場には、園田今日子のフィアット500や、栗田太郎が通勤に使っているホンダ・モンキーも停まっている。
三人を待ち構えるようにして出迎えたのは、そのワーカーホリックの権化にして、誰もがなぜ忙しいのかわからないと首を捻る男、森木志雄だった。。
「今日子さんがお待ちだ。荷解きは後でいい」
「キッシーは? ねえキッシーはうちらのこと待ってた?」
由貴はヘルメットを取った。「ちょっと樹里さん、森さんは不器用な方なんだからそんなにグイグイ行ったら困らせちゃいますよ」
実宇もにやついている。「あ、私もキッシーって呼んでもいいですか? おばあちゃんのお友達なら他人行儀は嫌じゃないですか」
「君たち、もう少し緊張感を持ちたまえ」木志雄は咳払いする。「今日子さんからお話がある」
「今日子さんって」実宇は首を傾げる。「キッシー、もしかしておばあちゃんのこと好き?」
樹里は由貴と目配せを交わす。それはSARC最大のタブーだった。
額に青筋を浮かべる木志雄を二人で宥め、建物に入り所長室へ上がる。
室内には見知った顔が勢揃いしていた。いつにも増して眉間に皺を寄せている桃山修。ぼんやりと宙の一点を見つめている栗田太郎。樹里を認めると小さく手を振る柿野まゆみ。
そして窓辺の執務机に、今日も喪服のような黒いワンピース姿でシガリロを吹かす園田今日子の姿があった。
「すべてが嘘になった」今日子は雑談のように告げた。「そうね? 樹里ちゃん、由貴ちゃん」
由貴はヘルメットで潰れた髪に手櫛を入れつつ応じた。「悪い夢でも見たみたいですよ。あの石黒っての、何者なんですか?」
樹里も続けて言った。「あたしも、実際に現場や現地の人の話を再確認するまでは半信半疑でした。こいつ、いっつも意味不明なこと言うので」
「石黒一成に直接対面したのは、由貴ちゃんね?」
由貴は頷く。
すると、今日子はシガリロの火を消して立ち上がり、書棚から一冊のファイルを取り出した。表紙には〈AZ〉とだけ書かれていた。
「あなたたちが初めてではないのよ」と今日子は言った。「あたくしが遭遇したのは、三〇年ばかり前だったかしらね。その時、とある新興宗教団体の内部で修行と称して行われる暴行、傷害、恐喝、退会者への脅迫について取材していたの。そこで出会った。空中浮遊し、掌からオーラを発する真の超能力者に」
「それ、インチキカルトでしょう?」と由貴。「わけがわからない終末思想に染まって地下鉄で毒ガステロまで起こした。教祖様の超能力はただの演出で……」
「それは嘘にされた結果だってことですか」樹里は遮って言った。「所長も、辿り着いたはずの非科学的な真実が、何者かの力で科学的に正しく辻褄が合うものに差し替えられた経験をした。今のあたしや乾、実宇ちゃんと同じように」
「一応コメントね」まゆみが口を挟んだ。「例の白いワックスの電顕撮ったけど、チューブ様に会合しているものは一切見られなかった。加熱、徐冷を経ても同じ。安定して有機ナノチューブが存在するとは思えない」
修が挙手する。「では自分からも。単一であろうと混合物であろうと、血球の代替になるとは考えられません。加えて、血液内に存在する血球は赤血球だけではない。そもそも、骨髄の造血機能は? 秋野村の女たちが生存しているなら、血が作られるはず。白い血液のまま長期間にわたり生存しているのは不自然です」
続いて太郎が言った。「RC造の法定耐用年数は四十七年。現地は、たぶん高温多湿。なら、もっと短い。崩落していないのが不自然」
「外堀は埋まってるみたいですね」と由貴。
「でも見ました! ですよね、樹里さん!」実宇が樹里を見上げ、由貴を見上げ、それから部屋の主を見た。「信じてよ、おばあちゃん」
「このファイルは同じような事件の記録を集めたもの。一見するとただの妄言よ。でも、証言者の言葉の中に、必ず彼らの存在が見え隠れする」今日子はファイルを机の上に置いた。「差し替えられた記憶が残るケースは稀なのよ。それが、あなたたちを選んだ理由。勘違いしないで。あたくしはあなたたちの言葉をすべて信じてる。もちろんあなたも、実宇」
由貴は顔を顰める。「僕は呑まれそうになった。心の中に忍び込むんです。心臓を冷たい手で掴まれたみたいな。僕がなぜ、今も記憶を正しく保っているのか、わからない」
「アノマリー・ゾーンに耐性を持つ人間も存在する」木志雄が感情を表さずに淡々と言った。「統計的に有意な傾向として、彼らの持つアイデンティティの特殊さが挙げられる。端的に言えば、変わり者ということだ」
樹里は由貴のつむじと横顔をしげしげと見下ろして言った。「まあ、ユッキーは変わってるよな。ロス帰りだし」
「メリーランドですが」
「でもあたしは別に普通だよ」
「身長一八〇センチの金髪ギャル薬剤師が何言ってんですか……」
「だからギャルじゃねえっつってんだろ」
「群馬の冨永愛も大概ですからね?」
「私だって普通だしー」と唇を尖らす実宇に、樹里と由貴が続けざまに言った。
「いや、普通のJKは校則に喧嘩売らないから。あたしが言っても説得力ないけど」
「心霊スポット巡りブログもやらない。僕は何を言っても説得力あるよね? ご覧の通りの秀才だし」
まだ納得いかない様子の実宇。場所も忘れて騒ぐ三人にこれみよがしなため息で呆れを示した木志雄が言った。
「記憶の残り方はケースによって異なる。今回は、アノマリー・ゾーンに閉じ込められた乾くんが出自の特殊性からゾーンに親和せず、跳ね除けた。これが君たち三人にのみ波及したと考えられる」
「それ、石黒が言ってました。アノマリー・ゾーン」由貴は、机の上に置かれたファイルを指差した。「A、Z。それと〈黄昏の者たち〉とか……」
「彼らの存在を先んじて察知したのは、米国国防総省の情報機関だったわ。これを米国のみならず全自由市民、全地球的な危機と認めた彼らは、秘密裏に同盟各国に情報をリークした。でも、我が国における具体的な対策は、一部の関係者有志の奉仕的な活動に留まった。それでも、当時の与党青年部長、警察幹部、当時の理化学研究所所長の三名による極秘の連絡会が組織されたのよ」
「それが〈暗夜会〉というわけですか」由貴は腕組みになる。「昼と夜の狭間の曖昧さに乗じて悪さをする連中を、真夜中から監視する。洒落た名前だ。昭和の人のそういうところ、僕は好きです」
「その悪さというのが、自分にはよくわからないんですよ」言ったのは後ろで控えていた桃山修だった。「アノマリーな超常現象を消し去り、説明可能な形に変える。〈黄昏の者たち〉にはどんな利が?」
「それ、石黒が僕に電話してきた時に仄めかしてました。録音再生します。モモさんたちは、まだ生の音声は聴いてないですよね」由貴が応じ、スマホを取り出した。
その第一声に、室内の全員の注目が集まる。そして再生ボタンが押され、音量最大のスピーカーから声が響いた。
『もしもし。福山雅治です』
全員が堪える中、不幸にも柿野まゆみが堪らず吹き出した。
「ユッキーくん結構似てんじゃん」とまゆみ。堪えているがウェリントンの眼鏡の下で目が爆笑していた。「何? これ宴会芸? 意外だなー、そういうキャラなん、自分」
「いける。これ、いける」丸い顔に丸眼鏡、菩薩のような笑みを浮かべたのは栗田太郎だった。「クビになったら、吉本」
「事故です。失礼しました」と由貴。「その時はモモさんに相方になってもらおうかな」
「断固拒否する」修は即座に応じる。
その時、今日子がライターを開く金属音が鳴り、全員が口を噤んだ。
やがて石黒の言葉が再生された。
『あなたが思うより現実とはアンバランスです。そして、何を安定した調和と見なすかを、私たち人間は選択することができない。ですが、彼らにはそれができます。むしろ彼らは、そうすることで私たちを消費している。励起状態から基底状態に遷移する時にエネルギーが発生するように、この現実の中の怪奇なるもの、調和の中の非調和が本来のバランスを取り戻す時、彼らは喝采する』
由貴は停止ボタンを押す。
「ここですね。その黄昏れてるクソ野郎どもにとって、この世の不思議を常識的に解釈するということが、すなわち食事か何かなのだ、と僕は受け取りました」
「由貴ちゃん」煙の中から、園田今日子がぽつりと告げた。「あなたは、日々の食事に喝采する?」
「賛美と感謝は捧げますけど、喝采はしませんね」
消費されるもの。
生きるために必要なもの。日々の食事とは少し違うが、それを得られた時、諸手を挙げて喝采してしまうもの。
樹里は目を見開いた。
「……エンターテイメントだ」
「機密情報を共有する同盟各国の情報機関、あたくしを含む〈暗夜会〉の結論も、樹里ちゃんと同じよ」シガリロからの煙が傍らに直立する木志雄の方へ流れていくが、今日子は特に気にしていないようだった。「〈黄昏の者たち〉によるあたくしたちの生命、財産、感情、記憶、この世界を形作るものすべてへの侵略は、彼らにとっての娯楽でしかない。あたくしたちは、彼らの娯楽によって消費されている」
「人はパンのみにて生きるに非ず。彼らにとっての必要不可欠なサーカスが、我々ということだ」副流煙を浴びる木志雄は鼻の穴を膨らませたり縮めたりしていた。
「何それ。ウザすぎ」と実宇が呟く。
「シミュレーション仮説とか、地球動物園説っぽくない?」由貴が応じて言った。「そういうの好きかと思ったけど。イーロン・マスクもそんなこと言ってるし」
「宇宙人の侵略は、もっと崇高な目的があるべきだし。ていうか宇宙人が地球人に依存するとか駄目じゃん。そんなショボいの私が信じる宇宙人じゃないし」
「え、そっち……?」実宇に思い切り睨まれ、由貴は苦笑いを浮かべる。
「ウザすぎなのは同意だな」と応じて、樹里はシガリロを吹かす今日子に向き直った。「だから所長はSARCを作った。ですね?」
そうよ、と応じて今日子はまた椅子から立ち上がった。「科学捜査へのセカンドオピニオン提供は予算獲得のための建前。このSARCの真の目的は、アノマリー・ゾーンに対抗できる資質と技能を兼ね備えた人員による、〈黄昏の者たち〉への抵抗勢力を組織することにあるのよ」
由貴が訊いた。「でも石黒の野郎、侵略はほとんど完了したとか言ってましたけど」
「そう。だから石黒という尻尾を見せた」
「なるほど。やつらが米兵、僕らはベトコンをやるってわけですか」
「どういうことです?」
実宇に見上げられ、樹里は首を傾げつつ応じた。「うちらが特異点として抵抗すれば、向こうもピンポイントで誰かを送り込まなきゃならない。で、その誰かを逆にとっ捕まえれば、トワなんとかってのを直接叩く糸口になるかも……ってことですか?」
今日子は静かに頷く。「長い戦いになるわ。実宇、あなたも覚悟しておきなさい」
「え、私? なんで?」
由貴が代わって答えた。「世代を跨ぐ戦いになる、ってことですよね。今日子さん」
「マジか」と樹里も堪らず口を挟む。「一〇年どころか五〇年、一〇〇年スパンってことですか。だからあなたの後継者候補の実宇ちゃんを同行させた」
「あー、すると僕の採用も、科学分析だけじゃなくて石黒みたいな連中相手の化かし合いになることに備えてですか」由貴は口の端で笑っていた。「今日子さんには敵わないな」
やはり今日子は頷く。「理解が早くて助かるわ。樹里ちゃん、由貴ちゃん」
今日子からの話はそれで済んだようだった。木志雄がぽん、と手を叩いた。
「以上だ。小暮くんと乾くん、報告書は私に提出するように。〈AZファイル〉の最新更新になる。心して作成してくれたまえ」
「あの、おばあちゃん」実宇が進み出ておずおずと言った。「お願いがあるんだけど」
「何かしら?」と応じた今日子に、祖母の気配は薄い。
「そのトワイライターっての追っ払ったら、そのファイル、月刊ミューに持ち込んでもいい?」
〈AZファイル〉を指差す実宇に、木志雄が悪鬼羅刹のような顔になる。だが今日子は「いいわよ」と応じた。
「よっしゃ。じゃあやる。次も樹里さんとユッキーさんと一緒にどっか行くの?」
ええ、と頷き、実宇の肩越しに今日子の目線が樹里と由貴に向いた。
「二人とも、旅は好きでしょう?」
【第1話『白血人間殺人事件』 了】
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