1-22.アノマリー・ゾーン
*
エレメントのステアリングを握る樹里は盛大にくしゃみをした。
「……風邪引いたかな」
「誰かが噂してるんですよ。一回だったら悪いやつです」助手席の実宇が応じた。「二回でしたっけ」
「誰だろう。心当たりがありすぎる」制限速度五〇キロの道を四〇キロで走る先行の軽自動車に苛立ちながら樹里は言った。「ユッキーは? 電話出ない?」
「はい。さっきから何度もかけてるんですけど。樹里さんのからでも、私のからでも出ません」
「あのバカ、無茶してないといいけど」
「ユッキーさん、いつもクールで冷静な感じじゃないですか?」
「いやー、それがな……」
軽自動車が路肩に避けた。追い越し、サンキューハザードを炊いてから、樹里はアクセルをベタ踏みにする。重い車体の加速は頼りないが、それでもスピードメーターは制限速度を置き去りにする。
「意外な一面とかあるんですか?」
まあね、と樹里は応じた。「あいつ結構、キレるとやべえタイプなんだよ」
*
石黒の車はレクサス・ISのV6、3.5リッターモデルのスポーツ仕様だ。社外か純正かはわからないが、間違いなくトルセンLSDも積んでいる。後輪駆動であり、運転手次第ではワインディングでも速いが、ストレートでは運転手によらずもっと速い。峠道を抜けて長野県飯田市側の開けた道に出られたら、スーパースポーツではないアフリカツインの性能特性では、エンジンをブローさせても追いつけない。
だが、道は塞がれていた。
石黒のレクサスが落ち葉や砂利を弾き飛ばしながら下り坂でスピードを上げ、遠ざかっていく。一方、由貴の眼前は安全運転するトラックが塞ぐ。道幅は狭く、いくらバイクでも、トラックの横をすり抜けることは難しい。待避所のような場所も見当たらなかった。
路面の段差を拾ってトラックが揺れ、荷台に積まれた手動織機の残骸も揺れる。
秋野村セットの解体はすでにほぼ完了しており、後は細々したものを軽トラで運び、重機を回収するだけのようだった。その軽トラも後方で発進するのが見えた。
石黒をここで逃すわけにはいかない。
渡された名刺に書かれていたのは、映像プロデューサーという肩書と名前、それにメールアドレスだけだった。そして、彼の言葉を信じるなら、彼はなんら非合法な活動に手を染めていないことになっている。むしろ、無人で放置されていたセットを行政の指導で解体したような体裁が、既に整っているかもしれない。
刑事事件を起こしているのなら警察の手を借りることもできる。だが石黒はクリーンだ。だから、こうして眼前に姿を見せた今この瞬間に、多少非合法でも実力で拘束するしかない。
愛車が焦れていた。
なんとしてもトラックを追い越し、石黒が行方を晦ます前に追いつかなければならない。
由貴は頭の中で地図を思い浮かべる。天にもうひとつの目を持った自分を想像する。次は大きな左のヘアピン、その次はRのキツい右カーブ。
ヘアピンを徐行で抜けて、由貴は肚を決めた。
車間距離を取る。ウイリーコントロールの介入を最小に。タイミングを見誤ったら一巻の終わりだ。
右カーブは左手が崖、右手が苔むした擁壁。前方のトラックのフロントがカーブに侵入したところで、スロットルを一気に開いた。
加速をつけて擁壁の立ち上がりを一気に登る。枝や木を紙一重で回避。落下寸前のスリルに頭が焼ける。6軸IMUが滅茶苦茶な挙動を感知しスロットル制御に介入。大量の障害物による減速とスリップとジャイロ効果の減退、転倒を阻止する。
トラックの運転手が仰天する。今や、トリコロールの獣と化したアフリカツインは崖の上からトラックを見下ろし、エンジンの咆哮を轟かせていた。
元を正せば、IMUによる制御は、サーキットでのめまぐるしい旋回や加減速に電子的に対応することで、タイヤを温存し、給油回数を減らし、ラップタイムを少しでも縮めるために発展した技術だ。
前方に倒木による小さな段差。由貴は自らを鼓舞し、叫んだ。
「一番早いやつが、一番安全なんだよ!」
そして回転を維持したまま一旦クラッチを切り、倒木に乗せて一気に繋いでフロントを持ち上げる。
バイクが宙を舞った。
トラックのブレーキ音が響き、木立に隠れていた鳥が飛び立つ。トラックの前方すれすれに着地し、衝撃で沈み込んだサスペンションが戻ろうとする時には眼前にガードレールのない崖。車体を山側に傾け、レッドゾーンぎりぎりまで回す。後輪が脱輪寸前のアクセルターンでもトラクションコントロールが介入し、乗り手に冷静になれと語りかける。そして舗装路に復帰。加速する。
トラックを置き去りにし、つづら折りの下り坂を後輪をスライドさせながら走る。
そして、見えなくなっていた石黒のレクサスを、由貴は再び捉えた。
「待ちやがれクソ野郎!」
パドルシフトで高回転を保ったままコーナーを抜けようとも、短距離での加速力なら二輪の方に分がある。レクサスとの距離はコーナーひとつ分に迫っていた。
舗装の色が変わった。
泥と砂の汚れで霞んでいたアスファルトの色が濃くなる。車線は片側一車線に広がる。ここはもう長野の飯田市。国道が寸断されて市道や林道で迂回する区間が終わったのだ。
先を行くレクサスが近県ナンバーのSUVを強引に追い越す。遅れること三秒、五速で四〇〇〇回転まで回した由貴のアフリカツインが同じSUVを追い越した。
対向車はない。由貴は、緩やかなコーナーを最内でクリア。路肩から伸びたツタ植物がヘルメットを打った。
両腕が振動に震える。1082ccが力を振り絞る。そしてとうとう、レクサスに並走する。
ぶつけてでも止めてやる、修理代と怪我の治療費は経費と労災につけてやる――そう覚悟してハンドルを左に切った。
だが、空振りだった、
それどころか、石黒が乗っているはずのレクサスが忽然と姿を消していた。
のみならず、見える景色のすべてが変わっていた。朝の日差しは黄昏時に。何もかもがオレンジ色に染まっている。足元のエンジンやマフラー、タイヤのロードノイズ、ヘルメットの風切り音を貫いて、遠くから踏切の遮断機が降りる警告音が聞こえる。カンカンカン。カンカンカン。走り続ける道路は、果てが見えないほど遠くまで直線が続いている。頭の中に叩き込んでいた地図では、こんなところにストレートはなかった。路面に落ちる電柱と電線の影。ミンミンゼミとヒグラシの声がする。
脳裏に、知らない景色が懐かしく思い出される。木造の今にも崩れそうな無人駅。夏の終わりのお祭りになると縁日が立つ神社。駅前の寂れた喫茶店の前に自転車が停まっている。雑草に半ば埋まった、塗装が剥げた赤いポストと、時刻表が日に焼けて色褪せたバス停がある。夕焼けを映した水田を、名前を知らない鳥の影が横切る。警告音が鳴って遮断器が降り、一両編成の旧式の列車が駅に入る。降車したのはひとりの若者。その彼は、夕焼けに目を細める。駅舎に入り、回収箱に切符を入れる。柱に扇風機が据えつけられた待合室に、夏らしい白のワンピースを着た少女がいる。彼女が立ち上がる。扇風機の風に長い黒髪が揺れる。「おかえり、由貴」と言った。彼女の後ろに夏祭りを知らせるポスター。ミンミンゼミとヒグラシの声がする。
電話口の石黒の声が蘇った。
――アノマリー・ゾーンへようこそ、乾由貴さん。
覚えのない景色が郷愁を掻き立てる。感傷が胸を焦がす。感じられるすべてが、自分の人生において何よりも大切な、最も振り返るべき記憶のように思える。どうして忘れていたのか。こんなに懐かしいのに。
違う。
「クマゼミ」と由貴は呟く。「温暖化の影響でクマゼミの分布は西日本から中部、さらに東日本へと広がろうとしている。クマゼミの声がしないのは、おかしい」
由貴は、グローブ越しにハンドルを握る自分を知覚する。ヘルメットを被った息苦しさも。
「今は朝だ。まだ一〇時前だ。黄昏時じゃない」
ガソリンを燃やし続けるエンジンの鼓動を感じる。ブロックダイヤから伝わる絶え間のない微振動。ゴーグル越しに、大型のタンクとフルカラー液晶メーターが見える。
由貴は、あらん限りの声で叫んだ。
「大体なあ、僕の元カノは白人女性だ! おい、石黒!」
世界が開けた。
青空。朝の日差し。由貴はブレーキを握って急制動をかける。ABSが作動しロックを防ぎながら、しかしシートから放り出されそうな加速度を感じながらアフリカツインが急停車した。
前後左右を見回す。石黒の車は見当たらない。後続車のセダンが、道の真ん中で停まっているバイクに怪訝な目を向けながら、対向車線にはみ出して追い抜いていく。
急に息苦しさを覚え、バイクを路肩に寄せてスタンドを立てて降車。エンジンはアイドリングさせたままで、ヘルメットを取ってミラーにかけた。
グローブも取ってシートに置く。気づけば肩で息をしていた。サイドケースを開け、スマホを取り出す。圏外だった。
もう山岳路は抜けているはず。道の駅まで数キロであることを示す標識もある。電波が入らないのはおかしい。
「電波……電磁波? 磁場、電場?」
由貴は、自分のその思いつきを内心笑いながら、ケースの奥の奥に放置していたものを取り出した。
トリフィールドメーターである。
本体は片手で持てる程度のごく小さいものだ。ダイヤルを回し、交流電界モードで測定する。
「なんだ、これ」由貴は思わず呟いた。
デジタル画面の針が一番右から動かない。測定限界である1000V/mを振り切れていた。磁界に切り替えても、100ミリガウスの測定限界を振り切れる。
だが、ほどなくして数値はごく小さいものに落ち着いた。ゼロにはならないことを訝しむが、電装部品を持つバイクからの距離によるようだった。
スマホの電波は回復していた。
画面には大量の着信履歴が表示されていた。実宇からと樹里からが半々だった。
どちらに応じようか思案していると、全く別の番号からの着信が鳴った。園田今日子だった。
おずおずと通話をタップする。
「由貴ちゃん。そちらはどんな様子かしら?」
「ちょうどよかった。ご報告したいことが」由貴は深呼吸して続ける。「何もかもブチ壊しにされて、石黒を取り逃がしました」
沈黙があった。
車の音がして振り向くと、見慣れたオレンジ色のエレメントが路肩に停車したところだった。樹里と実宇が降りてくる。
園田今日子はいつもの高飛車な声だった。
「ブチ壊された、と覚えているのね?」
「ええ。誰が忘れるものですか」
「そう。ご苦労さま。樹里ちゃんは?」
「今、合流しました。一緒にいます。実宇さんも」
「そう。なら、戻ってらっしゃい」
「捜査は終結と?」
ええ、と今日子は応じた。
脳裏に疑問符が浮かんだ。調べることはいくらでもある。もし、石黒が現実そのものをチューニングするような怪しげな力を行使したのなら、その影響がどこまで及んでいるのか確かめなければならない。
「すぐですか? もう少し確認したいことが……」
「構わないから、戻ってらっしゃい」有無を言わさず今日子は言った。「由貴ちゃんの疑問にも答えてあげるわ」
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