1-10.カフェインの構造式

 夜。宿に戻り、試薬だらけの部屋を必死で片付けた樹里は、エレベーターでロビーへと降り、簡素な自動扉を抜けて表に出た。横を見れば、ベンチとスタンド灰皿を置いただけの喫煙所。そこに缶チューハイを傾ける乾由貴の姿があった。

「頃合いかなと思ってましたよ、樹里さん」

「気持ち悪りぃよ」

 樹里はタバコを一本取り出し、使い捨てライターで火を点ける。アメリカン・スピリットの黄色。メンソール入りのものを選ばないのは、岡崎京子の漫画に憧れて、親友と二人、河川敷の橋の下でマルボロ・メンソールを隠れて吸った頃を思い出してしまうからだった。

 暗い空に煙が溶けていく。

「効くわ」

「禁煙してたんですか?」

「部屋は喫煙室だけど火気厳禁なものばっかだし、車に乗る時は吸わないことにしてるし、それ以外は、子供の前だしさ」

「素敵な倫理観に乾杯」由貴はチューハイの缶を持った手を掲げた。

「お前は何してたんだよ」

「パニアケースを。明日は長丁場になりそうなので」由貴はホテルの軒先に停めたアフリカツインを指差した。「左側だけですけどね」

「左右バランス大丈夫なのか?」

「多少の左右バランスよりもジャイロ効果の方が遥かに強いんですよ。そもそも大半のバイクは右側一本出しマフラーじゃないですか」

「言われてみりゃそうか」

「でも、上につけるのはやめました。あまり重心を上げない方がよさそうな道ですから」

 由貴は、今時珍しい携帯用の地図を広げた。バイク乗り向けのツーリングマップだ。

「S県I郡だったよな。で、旧I郡は、現在は全部公木浜市に合併されてるけど……」樹里は地図を指差す。「このあたりだな。道路が通ってねえ面積が多すぎだろ」

 平成の大合併で拡大に拡大を繰り返した公木浜市は、今や日本の社会問題をすべて市内に抱えているようなものだ。海沿いは南海トラフ巨大地震への備えを要する。駅前は空洞化し、完成車メーカーの工場に連なる無数の中小企業は、EVシフトによる業態転換を余儀なくされている。市民の消費の場は巨大ショッピングモールに集約され、地元の商店は世代を重ねられずに次々と滅ぶ。温泉街は新型コロナの影響を受けて衰退し、それ以前から続く失われた三〇年の不況は、湖畔のリゾート開発を根絶やしにした。津波を免れる市の中部は、暴れ川の水害に常に怯えている。

 一方で、二本の高速道路と第三セクター鉄道を越えた北方の中山間地域は、過疎と高齢化、交通機関を含む公共サービスの維持管理が課題となっている。

「定義の上では田舎ではないんですよ。外国の偉い学者が言うところによると、都市へのアクセスが二時間以上かかるところを田舎と呼ぶのだそうです。そして、その定義に当てはまるところは先進国においてはもはや少ない」

「確かに、何も考えずに突っ走れば二時間かからないな。抜ければ……長野の飯田か?」

「トンネルも通ってますし、観光道路化してるスーパー林道なんかもあるんですけどね。もしも、不死の一族の隠れ里とやらが実在するなら……」由貴の指が細い道路を辿り、一点で止まった。「ここかな、と。ストリートビューもないんですよ」

「これ国道の表記じゃん」

「国道が途中で寸断されてるじゃないですか。調べてみると、非常に工事が難しい地盤だそうで。無期限中止みたいです。県道を迂回すれば一応県境は抜けられますから」

 樹里もスマホを取り出す。「県道の方はストリートビューあるのな。……にしたってキツそうな道だけど。これすれ違えんのか?」

「さあ……」由貴は苦笑いする。「一本もらえます?」

「いいけど税金分払えよ」

「ほとんど全部じゃないですか」

 一本取って由貴に渡す。ベッドを借りた礼のつもりだった。

 話し込んでも中々短くならないどころか、いつの間にか火が消えているのがこの銘柄のいいところだ。樹里は消えそうになっていた自分のタバコを慌てて吹かした。

「こうして見てるとうわー、やべー、田舎ーって感想になっちゃいますけど、どんな土地にも人は住んでいるんですよね」片手で缶とタバコを器用に持った由貴が言った。「〈日本怪奇紀行〉の記述と照らし合わせると、不死の一族の住まいはこの寸断国道か、その周辺の側道の先にあると思います」

「街中のうちに給油しないとヤバそうだな」

 そうですね、と応じて、由貴は樹里の方を見上げた。「タバコ吸ってると本当にデカい金髪ギャルですね」

「ギャルじゃねえっつってんだろ、泣かすぞ」

「でも身長一八〇センチの金髪に染めてる女がタバコ吸ってたら普通ビビりますよ。自衛のためのルッキズムを否定するには、人の心の中をすべて自由に閲覧できなければならない。ポリティカル・コレクトネスは今の人類には早すぎる。だいたい、ギャル以外に見えませんよ」

「パリコレモデルだろ。群馬の冨永愛と呼べ」

「ルッキズムだ」

 駅前の通りは深夜でも車がひっきりなしに通る。だが歩行者の数は少ない。故郷の町の新幹線駅前の様子を樹里は思い出した。

「あたしにはギャルみたいな逞しさはねえよ」

「逞しさ?」

「あたしは地元から逃げたから」

「東京に住んでる人なんてみんなそんなもんでしょ」

「その昔東京に流入した人たちももう世代を重ねてる。三世代東京ならそれはもう東京だろ」

「住民票の本籍で書類上もそうなりますしね」

「お前今実家住まいなんだっけ?」

「ええ。父はあまりいい顔をしないんですけどね。園田今日子と何やら因縁があるみたいで」

「へえ……」おしゃべりなくせに肝心なことは何も言わない乾由貴が、酒のせいか饒舌。だが、だからといって、緩んだガードに乗じて相手のデリケートな部分に触れるのは、樹里の信条に反していた。樹里は思いついたことを口にした。「お前、本気で信じてるのか? その……不死の一族とやらのこと」

「むしろ科学を修めた樹里さんの方が内心では信じてるんじゃないですか。科学とは、不定形で時間的に浮動するものを、時間的に拘束された法則によって理解しようとする営為でしょう。たとえば生命活動に対するDNA。真空中を物体が落下する速度に対する重力加速度」

「そうでもねえよ。先に法則を予想して現象の観測が追いつくこともある。一般相対性理論がまさにそうだろ。数学のなんちゃら問題とか」

「それは天才のやり方でしょ。僕もあなたも天才じゃない」

「杉しかない山ん中に隠れてる一族の誰かが里に降りてきて、たまたま居合わせたコスプレイヤーを殺して逃げ帰ったとすれば、このわけがわからない事件も辻褄が合うと?」

「不可思議な現象をA。それを説明しうる解答をB。Aは生命活動であり今回の事件。BはDNAであり不死の一族仮説」

「ユッキーさあ」樹里は屈んで、タバコの煙を由貴に吹きかける。「お前、酔っ払ってるか緊張してると話がやたらややこしくなるよな」

「リラックスしてるつもりなので、思ったより酔ってるかもしれません」由貴は長いひと息でタバコを吹かす。

 乾由貴は、普段は吸わないくせに、会社の外で樹里が吸っているのを見ると、いつも一本くださいとねだってくる。タバコとは習慣化しなければ旨さがわからないものだと樹里は考えており、由貴の喫煙へのスタンスにはいつも首を傾げさせられていた。

 その由貴が、不意の沈黙を狙い澄ましたように言った。

「暗夜会、ってなんなんでしょうね」

「磯辺さんが言ってたやつか?」

 由貴は頷く。「考えてみれば、僕らみたいな外様がいきなり来て、それなりに自由に行動できていることがおかしいんですよ。今日子さんには僕らの知らない何かの目的、思惑があって、磯辺さんはそれを共有している、と考えるのが自然です」

「……秘密結社とか」

「樹里さんまで実宇さんみたいなこと言わないでくださいよ」

「そもそも所長がお前を送り込む理由もよくわかんねえんだよ。あたしはともかく、科学的な知見を提供するなら、お前じゃなくてモモやんとかタロちんの方が適任だろ」

「そもそものそもそも、なぜ僕を採用したのかも謎ですからね。僕の専門、犯罪心理学ですし」

 乾由貴。二十六歳。東京都出身。元、警察庁科学警察研究所。在職中は犯罪社会学や犯罪心理研究を専門とした。昨今増加の一途を辿る無差別巻き込み犯について記した年次報告は、マスコミにも取り上げられ話題になった。

 そんな彼が、どちらかというと自然科学寄りの性格が強いSARCの一員となったことに、樹里は初めから違和感を抱いていた。その上、ユキだと思ったらユタカで、話してみればとびきりいけ好かない男だった。

「採用面接の時所長に何訊かれたんだよ」

「旅は好きかって訊かれましたね」

「それあたしも訊かれたな」

「こうして西へ東へ飛ばすために僕を採用したのかもしれませんね」

 由貴は缶を煽る。中身はもう空のようだった。タバコもいつの間にか短くなっていた。

 樹里は目元にかかる髪を掻き上げ、その拍子に、ピアスを着けたままであることに気づいた。

「……それ、化学式ですか?」

「C8H10N4O2。カフェインの構造式」

「なんでまた」

「戒めだよ」樹里はタバコを押し消した。「夢を見るのは程々に」

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