第9話 歌川桔花の目線Part7
転機というのは、いつも突然にやってくる。アルマンとマルグリットの破局のように。
「ごめん。こんなことになっちゃって」
布団の中にくるまっていた雛見がかすれた声で言った。
「無理して声出さないでくださいね……苦しかったら言ってください。大丈夫ですから、ね?」
私は精一杯、明るい声を出して雛見を元気づける。不安さを表に出さないようにしながら。
今の私は、演技をしているのだろうか?元気な演技を。違う、きっと違う。
雛見が涙ぐんだ目で私を見上げてくる。悲しいからなのか、それとも風邪のせいなのか。
拭ってあげたくなるのをこらえて、私は「お粥とってきますね」、と声をかけて、そそくさとベッドの近くに置いた椅子から立ち上がった。カレンダーを見つめる。
六月三日。
学園祭公演まであと一週間。
雛見が高熱を出した。四十度のまま下がる様子がない。
はじまりは本当に急だった。いつものように私の部屋で二人で自主練をした後、二人で夕食をとっていた。以前雛見が言っていたように、奢られるのはやっぱり遠慮したいと思ったので、今度は雛見が持ち寄った素材を使って作った鍋料理だったのだが……
『?』
雛見は豚肉を口に入れた時に急に首を傾げた。
『どうかしたんですか?』
『いや、なんでもない。おいしいよ』
いつも通りだねえ、とニコニコ笑ってくれたが、今思うと後半は演技だったのかもしれない。
食べ終わった後、テレビでも見てくつろごうかと、二人で番組鑑賞を続けていたのだが、何か言おうとした雛見が声を出した時、私は異常を察した。
彼女の声が割れていたのだ。雛見も驚愕に目を見開いていた。
『風邪気味なのかもしれません。いったん今日はお開きにしてお休みしましょう』
何度も正常な声を出そうと、喉に手を当ててしきりに努力している雛見をなだめて、その日は解散した。
しかし、翌日になっても結果は変わらなかった。その翌日、つまり今朝迎えに行くと、雛見は四十度の高熱を出して苦しんでいた。布団にくるまっていたせいでひどく発汗している。
『苦しいよ。頭から火が出そうだ。熱い。本当に熱いんだ。苦しくてたまらないんだ』
顔は真っ赤になっていて、着ていたパジャマは水に浸けたように濡れていた。
私は慌てて彼女を着替えさせ、体中の汗を拭いてあげた。
『雛見さんが体調を崩しました』
私は部員全員に連絡し、校医の先生に掛け合って、地元の病院からお医者さんを呼んでもらった。
部長が「とうとう来たか」と、お見舞いメールに書いて送ってくれた。
みんなでお見舞いに行こうか、という話になっていたようだが、大勢で押しかけるのはこの際良くない、ということになって、後から一人ずつ来てくれる予定になったようだ。きっとそちらの方が雛見も落ち着けるだろう。保健室で面倒を見るより、自室の方が安心できると雛見は保健室に行くのを拒否した。
『君は授業に出なよ』
と言われたが、放っておけるわけも無く、今日は休むことにした。といってもずっと休むわけにもいかない。二、三日様子を見てからまた考えるつもりだった。部長にそのことを伝えると、『最悪の場合、アタシも授業を休む。長引いたら、途中からアタシがアンタの代わりに看病しよう』との事だった。
少しマシになれば、何かあれば携帯電話のチャットアプリに連絡してもらうように雛見に伝えればいい、ということで話はまとまり、最低でも二日は私が看病することとなった。
診断に来てくれた医師の話だと、腸が炎症を起こしている、との事だった。
特に悪いものを食べたわけでもなくても、腸が炎症を起こすことはあるらしい。自分の胃液の濃度の異常で胃を壊してしまう人もいる。風邪と同じで、急に罹ってしまうこともあるそうだ。彼女が鍋料理の時、首をかしげたのは味がしなかったからのようだ。
私は、雛見が体育の時間いつも見学していることを知っていた。けれども、毎日元気そうだったので、こうなる可能性を考えていなかった。疲れが蓄積したのかもしれない。
『別に無理してたわけではないんだ』
雛見はそう言っていた。確かに私たちは、短い時間で一生懸命練習した。けっして無理なことをしたわけでも無い。だからこそ、雛見がこんな理不尽な目にあうのがひどく悲しかった。
演劇で共演できなくなるかもしれない。そのことも悲しい。けれどもそれ以前に一番悲しいのは、雛見が苦しんでいることだった。彼女は一番、『椿姫』の舞台を楽しもうとしているように感じていたからだ。親友の欲目だとしても、私はそう思いたかった。
「ごめんね、桔花」
「いいんです、さ、早く寝ましょう」
なんだか小さい子をあやしている気になってきた。いつもはもっと私より人生経験豊富そうなのに。
「お願いが、あるんだけど、いいかな」
かすれ声で途切れ途切れに言った。吐息が苦しげだった。
「飲み物ですか?それなら」
「ううん。違うんだ。なにか読んでほしい。小説でもいいよ。絵本でも」
こういう時は、物語がいちばん落ち着くのだという。なにか今良さそうなものはあるだろうか。迷った末、木下順二の脚本集にした。わりとユーモアのある話が多い。
きっと元気が出るだろう。それに、この子には笑ってほしかった。
私はつとめて明るく朗読していく。雛見は苦しげながらも、満足そうだ。お医者さんから貰った薬が効いてきたのかもしれない。読み終わると、雛見が手を動かそうとしてやはりやめたのがわかった。
「?」
「はくしゅ」
「無理しなくていいのに」
「…………いつも、昔の話だけどね。よく寝込んでたんだ。その時は、無理して一人でなにか読んでた。退屈だったし、不安だったから」
「……はい」
「うちは、父が忙しくて。地元の企業経営者から、海外進出しようとしてた。それは今は上手くいったみたいだけど。母は早くに亡くなって。だから、病気になっても一人でいることが多かったんだよ。お手伝いさんは通いだったし。夜中は一人だった。たまに、私はこのまま死んじゃうんじゃないかなあ、なんて思うくらいしんどい日もあったんだ」
「……」
私は雛見の話を頷きながら聞いていた。思わず雛見の手を優しく握りしめた。私よりも小さい手。そして、私より体温の低い手は、とても熱くなっていた。
「辛くて辛くて、怖くて。でも物語の中にいるときだけは幸せでいられたんだ。演劇をやりたかったのもそうなんだよ。私は登場人物になって、現実の辛いこと全部から離れることができる。別の世界にいることが楽しかったんだ。弱虫だと思うかい?」
「思いません」
私は断言した。演じるのは楽しい。
朗読のボランティアやっていた時から、私はそう感じていた。
絵本も小説も好きだったから、その中でも特に好きな物の面白さを伝えたかった。それが楽しかったからだ。
いつしか私は他人を物語の世界を伝え、その楽しさを体感してもらうことに喜びを感じるようになった。私が楽しいと思った物語を広く共有したかったのだ。そしてそれはやがて物語を自分が演じる事で更に楽しくさせたい、と思い、演劇を志した。
それくらい、物語には力があるのだ。
そして、そして。
私が読んであげた物語で雛見が元気になってくれたらいいと今も思っている。
だって……
「私は、いつも楽しそうにしている雛見さんが好きです。あなたがいると、私ももっと楽しくなるんです。今までいろんな人たちとお芝居したけど、雛見さんとのお芝居が一番楽しいんです」
「その献身はどこからくるの?」
「私の心からです」
さっきの雛見の台詞は『椿姫』の台詞だ。そしてその後の台詞は私の、歌川桔歌のオリジナルだ。アルマンは、「あなたに同情しているからだ」と言っていたが。きっと、私のは違う。
「はぐらかしたねえ。困るよ先が続けれない」
「今はお芝居の時間じゃないですよ」
「いや、少し気になっただけだよ」
「同情だけじゃありません」
「他はなんなんだい?」
「わからないんです。色々グチャグチャしています。でも、全部あなたに向いています」
「私の体調に?」
「いいえ…きっと貴女全体に。でも、グチャグチャしてるって言っても悪い意味じゃないんです!うまく言えませんが……」
うまく言えない。私のこの気持ちは全然うまく伝えられない。お芝居の時みたいにうまく言えない。
「ふうん。難しいんだ」
「難しいんです。それに先が続く訳がないじゃないですか」
「どうしてだい?」
「だって貴女はマルグリッドと真逆だから。放蕩も不眠もしない。現実から逃げてヤケになったりしない」
心配をかけないように木登りもしない。最初に出会った時からそうだった。
「貴女は時間を忘れて好きなことに没頭したけど、ちゃんとした生活をしました。だから病弱が逃げていったんですよ。だから今まで元気でいられたんです。だから、こんな病気すぐに治せます。だから、弱気にならないで」
そうしたら、私も悲しいことと戦える。なにがあっても戦える。そんな気がした。
「……ポジティブだね、君は。大丈夫だよ、見ててくれたまえよ、すぐに治すさ」
雛見は微かに笑って見せた。私も彼女の手を握ってにっこりと笑った。手はまだ熱かった。私の手も熱くなっていたのかもしれない。
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