福音に手を延べて
篠岡遼佳
福音に手を延べて
蝉が、ものすごくうるさい。
そして、夏というものは、ものすごく暑い。
そんなことわかりきっているが、盆の季節くらいしか会社を休めない俺は、いまこうして、真緑の山の中へと下生えを切り開きながら進んでいる。
俺のこどもたちは来たがらなかったので、仕方なく、この50を迎えそうな身体をおして、俺はやってきた。
目的はひとつ。墓参りだ。盆だからな。
さて、あれからもう何年になるのか……。
回想でもしようかと思ったが、そのへんは俺の担当ではない。
この伸びに伸びた雑草たちと、知らない花々と、ぐったりしおれたあじさいが知っているだろう。
朽ちた夏草の線路、屋根が鯖折りになっている駅舎。
そのままサビ続けている、もう動くことのない車両。
それは動かす人員がいないということだ。乗車するものも、もちろん。
――あいつが生きていたときは、世界はまだこんな風ではなかった。
もう少し、「明日に向かって頑張ろう」、という当たり前の気概があった。
今はおそらく、黄昏だ。
日が落ちていく世界を、みな何とか同じことをし続けて生きている。
世界がちょっと壊れ始めたのは、300年ほど前だと言われている。
教科書に載るような話だから、本当はきっともっと前からその症状は出ていたのだろう。
初手として、世界から、こどもがあまり生まれなくなった。
だから、卵子や精子を採取し、保存、あるいは人類を保全するために、「アンドロイド」が作られた。
彼女もそうだった。
彼女の腹からこどもたちは生まれ、そして、その身を「保育園」という大きな組織に任せた。
最初の100年程度は「母親からこどもを奪うな」などなどいろいろな議論もあったらしいが、目に見えて減っていくこどもの数を前に、みな何が必要かがわかったらしい。
退廃的な思想や、諦めに支配されたものもたくさんいたという。
だが、『生きてゆかねばならない』という言葉は、生殖細胞を持つものに課された使命のようなものだった。
だがある日、変化が訪れた。
アンドロイドが次々と壊れ始めたのだ。
それは、アンドロイドが作られはじめて200年目。
ある日、動かなくなってしまったパートナーを、人間は様々な形で悼んだ。
この国では、火葬された。
焼かれた最初のアンドロイドは、男性型だったという。
そして、彼は、そのあと、何も残らなかった。
骨のひとつも。
もちろん、機械のひとつも。
食事はするが、排泄はしない。
「アンドロイド
天空の青い瞳に、陽の光のような金髪。
アンドロイドを管理していた政府はようやく真実を告げた。
――これは、別世界から現れたものである。
――これは、「神」から遣わされたものである。
――「天使」である、と。
そんな頓狂な発表に、しかし世界は揺るがなかった。
どこかそうであることを知っていたのだ。
共に存在し、子を成し、ずっと一緒にいることで。
「神」は、しかし、俺たちの知っている"神"ではなかった。
珍しいものを見たい、珍しいものを保存したい。
そういう欲求を持った、異次元・異世界の存在。
我々など、指先ひとつで吹き飛ばしてしまうような、つまりは我々の「飼い主」であった。
そろそろ彼女の墓がある場所だ。
懸命に石と雑草を取り除くと、俺が自分で選んで建てた、なめらかな墓碑がようやく出てきた。
正直、もう汗だくでそろそろ熱中症になりそうだ。
背負ってきたハイドレーションパックから水分を取りながら、帽子をかぶり直す。
もうちょっと掘ろう、そうして、この墓の下を見れば――。
――そして俺は、墓をひらき、真っ暗な深淵を覗いた。
ここには遺骨は、当然ない。
あるのは、彼女が着ていた服の、濃紺のスカーフだけだ。
土に還らないように手を入れてある。
彼女はなぜか、最初に会った時、セーラー服を着ていた。
この世界で一番可愛い服だと、そう言っていた。
俺が選んだ服も着てくれたし、もちろんそうそう着るものでもなかったが、焼かれる時は最初の服を着たいと、そう言った。
あなたが最初に見てくれた服だから。
最初にあなたに会えた時の服だから。
――愛とは何だろう?
――生活とは何だろう?
こどもたちのことは好きだ、愛情だってある。
喧嘩もしたが、わかり合えた時だってある。
「飼い主」のいる世界で、俺は一体何をしているんだ?
緩慢な終わりを待っていていいのか?
では、「生きる」とは、「生き続ける」とは、
「次の明日」「次の未来」「次の世代」とは一体何なのか。
俺は泣いた。
果てのない絶望の淵で、俺は泣くほかなかった。
……だから、彼女に会いに来たのだ。
天使に会いたかった。
俺だけの天使に。
「――まったく、人間は本当に脆いものですね。200年を生きるわたしたちの精神を見習ってほしいものです」
「……幽霊になってもうるさいな、お前は」
「この世界が幽霊を許可した世界なのです。
だからわたしはわたしとして存在し、ちゃんと生きるに決まっているではないですか」
「生きる?」
「そうですよ。あなたを火葬するまで、わたしは終われませんからね」
「……――――……」
「もう……泣くか名前を呼ぶか、どちらかにして下さい」
「俺の"天使"」
「はい、なんですか、わたしの"人生”」
「これから、ずっと側にいてくれ」
「はいはい、まったく、父さんはいつもそうなんですから」
「母さんこそ、いつまでそのセーラー服の幽霊のつもりだ?」
「あなたが、最初に見つけてくれたから」
「また見つけに来たんだ。草葉の陰なんて、お前の金髪は似合わない」
「……ふふ」
この会話は、本当に成されているものだろうか?
それとも、俺の頭の中だけの妄想なのだろうか。
ただ、俺には、まだ君が見えるんだ。
すべらかなスカーフに、想いを込めて頬を寄せた。
彼女が、手を延べる。
その手を取る、前に、泥だらけの軍手を履き捨て、俺はきれいな布で顔を拭い、彼女に笑った。
――これからもまだ「生きていく」のなら、
どうか強く、自分の足で。
ひとりきりではなく、あなたとともに。
福音に手を延べて 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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