真夜中アンブッシュ
ナナシマイ
1
コンコン。
「
「はぁい」
扉の向こうから聞こえてきた、呆れと苛立ちが半分ずつ混ざったような母親の声に、由芽は生返事をして手もとの画面に集中する。
(明日、っていうか今日は土曜日なんだから、ちょっとくらい夜更かししたって良いじゃん)
タブレットの画面には可愛らしいイラストが映し出されている。由芽が通う中学校の女子の間で流行っている、恋愛ものの漫画だ。
王道だけどそれが良い、と、由芽の友達は口々にそう言っていた。最近は刺激の強いものとか、変わった設定のものばかりで、いまいち共感しにくいのだと。
由芽はそういう奇をてらったような話も好きだったが、友達が言うこともわかるし実際おもしろいしで、「王道」と言われるこの漫画にハマっていた。……発売日、日付が変わった瞬間にタブレットで購入するくらいには。
(それに、夜って好きだし。この中で読む漫画は格別だよ)
ベッドに腰かけた由芽の位置からは、小さな出窓を通して東京湾の夜景がよく見える。
コンテナの灯りや、ビル群や、東京タワー。キラキラ、チカチカと光るさまはいくら見ても飽きることはない。すべての建造物はおもちゃのように小さくて、色とりどりで、窓から宝石箱を覗いているようにも思えた。
そんな部屋で漫画を読むのは、いかにも大人の女性という感じがして由芽は気に入っていたのだ。
――コンコン。
またノックの音。先ほどよりもくぐもって聞こえる。
「もう、わかってるってばぁ……」
いつもは一回しか言われないのに、でもさすがにもう寝ようか、そう思いながらタブレットを見ていた顔を上げると、ベランダに繋がる窓から吹き込んできた夜風がふわりとおでこに当たった。
(あれ、こっちの窓、開けてたっけ?)
夏はとっくに過ぎて、夜はもう肌寒いくらいだ。窓を開けたまま寝れば風邪をひいてしまうかもしれない。あまり音を立てないよう気をつけながらベッドを抜け出し、これまた音を立てないようにカーテンが揺れる大きな窓へそろそろと近づいた。
「やぁ」
「――っ!」
叫び声は口の中だけで収まった。真夜中、静かにしなければと意識がはたらいていたおかげだ。冷静とまではいかずとも、表面上はかろうじて落ち着きを保ったまま、由芽は静かにカーテンを開ける。
場違いにやわらかな声は、その向こうから聞こえてきた。
「やぁ」
同じ声、同じ言葉。
挨拶にふさわしく軽く持ち上げられた腕。
「どこから入って……や、ここ何階だと思ってるの」
セキュリティ対策万全のタワーマンションに入り込むのは簡単ではない。が、声の持ち主がベランダの細い手すりの上、器用にバランスを取りながら立っていることに気づいて、由芽は言い直した。
夜に溶け込むような、全身黒づくめの男。長めの髪が顔にかかっており年の頃はわからない。
ともすれば強盗に間違われそうな恰好ではあるが、しかし、漂うやわらかな雰囲気がその可能性を否定する。
ひんやりとした上空の風が二人のあいだを吹き抜けた。
ふと我に返り、由芽はようやく聞きたいこと、聞くべきことを口にする。
「じゃなくて……誰?」
闇色のコートがバサリと揺れる。
「僕? 僕は夜さ。この辺り限定のね」
風で髪の毛が持ち上がり、男の気取ったような笑顔があらわになる。顔立ちからすると大人ではあろうが、若い。そんな彼が持つ、闇よりも深い暗色の瞳と目が合った。
「夜? それは名前なの」
最初に確認するところがそれか、と呆れる者はこの場にいない。目の前の男も、軽く曲げた指を口もとに添えて真面目に考えるように視線を漂わせている。
「名前、うーん……まぁ、そうだね。個人を識別する、という意味では違うけど」
「シキベツ?」
「君は<人間>って呼ばれないだろ」
由芽は頷いた。同時に疑問も浮かぶ。夜と名乗ったこの男はどのように彼自身であることを証明するのだろう。
そんな考えを読み取ったのか夜はクスリと笑う。それから肩越しに振り返って、後ろの夜景に目をやった。
「滅多にないけどね……東京湾の、とは言われるよ」
車のライトがレインボーブリッジをなぞって走る。橋や、ビルのてっぺんにある灯りが明滅する。由芽にとって見慣れた風景。
しかし変わらず好きな風景でもある。心なしか興奮したように問いかけた。
「あなたは東京湾の夜なの? あれ、全部?」
夜は答えなかった。代わりに、無骨だが、日焼けしていない白い手が差し出される。
「さ、デートへ行こうか」
あまりに自然な誘いかたに、由芽は乗せそうになった手をすんでのところで押しとどめた。
「この時間に出かけるのはちょっと……」
「はは、確かにご両親が心配しそうだ。僕の中で君に悪いことなんて起こさせないけどね」
じゃあ、と今度はおどけるように夜の片眉が持ち上がる。
「外へ行かなければ良いんだね? お部屋に案内してもらっても?」
再度の自然な提案に、由芽は「どうぞ」と部屋へ通しそうになった手を反対の手で押さえる。
「……夜に、部屋で二人っきりは良くないと思う!」
上手な断りかたが見つからなかった由芽は出てきた自分の言葉に赤面した。
(なに言ってるの、あたし!)
「それもそうだ。失礼したね」
夜は紳士だった。
こんな子供がなにを、と笑われると思って顔を背けていた夢がその声に視線だけ戻すと、夜は穏やかに微笑んでいた。馬鹿にはされていないようだ。
「ならベランダをお借りしよう。君は外に出ていないし、僕は部屋に上がり込んでいない。羽を休めにきた小鳥と話すようなものだと思ってくれれば良いよ」
返事をする間もなかった。
「ひゃあっ!」
夜を中心にぶわりと広がった闇。由芽は慌てて目をぎゅっと瞑った。
むしろ眩しく感じるほどの暗さが、まぶたを閉じていてもわかるくらいである。しかしそれはほんの一瞬のことで、闇が引いたのを感じた由芽が恐る恐る目を開けるとそこはレインボーブリッジの上だった。道の部分ではなく、山のように二つとがった部分の、片側のてっぺんだ。
「……え、これ」
「大丈夫、ベランダにいるままだよ」
夜がおもむろに手を伸ばしカーテンを開くような動作をすると、景色がペラリとめくれ、その向こうに由芽の部屋が見えた。どうやら本当にベランダから移動していないらしい。
「でも怖いなら、僕に掴まっていれば良い」
(そういう意味じゃないんだけど、まぁいっか)
由芽は示された通りにコートの端を掴む。目に見える足場はとても狭く、頭では落ちないと理解していても恐怖することはとめられない。そもそもこのおかしな状況で夜の言うことをはねのける思考などできるはずがなかった。
それでも大きな声で驚いてしまったことが悔しくて、由芽は唇をとがらせる。
「……小鳥っていうか、あなたはカラスだと思う」
「さ、君はなにを見たいかな」
夜は紳士だが、都合の悪いことは聞き流す。なんとなく察した由芽は別のことを問おうとして、あることに気づいた。
「待って。さっき、デートって」
「うん」
「え、なんで?」
「好きな人と出かけるのはデートって言うだろ」
「あたしのことが好きなの? 会ったばかりなのに?」
「逆だよ逆。君が僕を好きなんだろ」
「いやいや」
「違うの? だってさっき」
そこで一度、夜は言葉を切った。口にするべきか迷っているような、はたまた言いかたを考えているかのような、そんなふうに唇がはくはくと動く。綺麗な形だと思いながら、由芽は気になる続きを促した。
「さっき、なに?」
答えは簡潔だった。
「僕を好きだって考えてたでしょ」
(いや、あれは違う! 違うけど、でも)
掴まっていれば良いと言ったはずの夜が、考え込む由芽の手を外す。まだ恐怖心はなくなっていないようで、彼女の手は無意識に掴まるところを探して宙をさまよった。
「ふ……」
淡い笑い声とともに、するりと手首が撫でられる。由芽の手に温かな感触がして、気づけば夜の手の中に収まっていた。
「違うな……こうか」
今度は包まれた手の甲を撫でられる。くすぐったさに力が抜けて緩んだ手の指の隙間、夜の指が入り込む。
指と指が、互い違いになるように。
「なっ、んで、恋人繋ぎ!」
「知ってるんだ」
知っているもなにも、今読んでいる漫画もちょうど、主人公が相手の男子と恋人繋ぎをしようと一生懸命になっているところなのだ。
まさか自分が段階も踏まずに恋人繋ぎをすることになるとは思ってもいなかった。
「嫌?」
「嫌じゃ、ない。けど」
こんなふうに初対面の男に触られたら、普通は嫌どころか気持ち悪いとすら思うはずだ。それなのに、この夜をまとったかのような――夜そのものだという男に対しては、違った。
「けど?」
夜が覗き込むように由芽の表情を窺う。その瞳はやはり真っ暗で、ひどく美しかった。まるで光のない夜景。
由芽は一目ぼれは物語の中だけのものだと思っている。見た目が良いだとか、ちょっと優しくされただとか、その程度のことだけで恋心が芽生えるのは都合が良すぎると。
だとしたら、はたしてこれは恋なのだろうか。
由芽が答えないままでいると、夜は仕方なさそうに笑いながら繋いでいないほうの手で闇色のコートを広げた。
暗闇に覆われる。
「……あ、ここ」
視界が晴れると、また景色が変わっていた。
レインボーブリッジのように見慣れている場所というよりは、由芽にとって思い出深い場所だ。
「入ってみれば」
「入れるの?」
「君が望むなら」
ドアのない入り口ではあったが、由芽は慎重に足を踏み入れた。
すぐに鼻をくすぐるコンソメの香り。なにかを焼いているのか、ジュウジュウと油のはねる音がして、由芽の腹が小さく鳴った。
「なつかしい」
ここは三年前、十歳の誕生日のときに両親が連れてきてくれたフレンチレストランだ。
あの時はまだ東京へ引っ越してくる前だった。目に入るすべてのものが新鮮で、ずいぶん興奮したことを覚えている。プレゼントを買ってもらい、スイーツを食べ、観覧車に乗って、そして最後に訪れたこのレストランは格別だった――
「わぁ、きれい。ご飯も、外も、宝箱みたい!」
「気に入ったかい? 東京の夜は綺麗だろう」
「うん、東京の夜、大好き! 毎日見たいくらい!」
「やぁね。毎日見てたら飽きるわよ。こういうのはたまにだから良いの」
「うーん、こんなにきれいなら、絶対、飽きないと思うな」
夜景を映してキラキラと輝く瞳を、由芽の両親は嬉しそうに見ていた。それから今の家に引っ越してきたのはすぐのことだ。
与えられた部屋と、宝箱のような夜の景色。
それを見るときの気持ちは、今も変わらぬままだ。
「――最初っから、一目ぼれしてた……」
「ん?」
聞こえなかった。夜はそう言ったが、わかっているだろうにと由芽は軽く彼を睨む。
わざわざここに連れてきたということは、夜は三年前のことも知っていて、それを思い出した由芽がなにを考えるかなんて簡単にわかるはずなのだ。
「どうして今になって」
「や、だって十歳だよ? さすがにちょっと」
先ほどまでの紳士然とした雰囲気はどこへやら、夜はふざけるように肩をすくめてみせた。繋いだままの由芽の手も持ち上がる。
「あたしまだ中学生なんだけど」
「恋愛漫画にハマっている人間の言うことか? だいたい中学生なんて、恋してなんぼだろ」
あまりに雑な言いかたがおかしくて、由芽は「ふはっ」と吹き出した。最初の印象とはかけ離れているが、やはり嫌だとは思わない。
「現実と物語は別だよ。……あ、ちょっと待って。夜って何歳? もしかしておじさ――」
「それにほら、三年間も熱心に見つめられたら」
聞き流すどころか、ばつが悪そうに言葉を被せてきた夜に、そちらが本心か、と由芽はニヤリとする。
「ふぅん。じゃあ、夜はあたしのこと好きなんじゃん。いっけないんだぁ」
「……僕に年齢はない」
拗ねたように目を逸らした夜だったが、由芽の言葉自体は否定していない。ド、と由芽の心臓が大きな音を立て始める。
(自分で煽ったくせに、なんだか)
心のなかで呟いたそれが、夜に対してなのか、自分に対してなのか、由芽には判断がつかなかった。
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