それなのに、髙田くんはどうして。

茂由 茂子

それなのに、髙田くんはどうして。

 実を落としながら葉桜が揺れていた今年の春、放課後の誰も居ない図書室に呼び出された私は、告白をされた。相手は、男子バレー部のエースで学校中から人気のある同じクラスの髙田たかたくんだ。


 私の学校のバレー部は強くて、県の中でも上位の成績を収める強豪校なのだそうだ。それに加えて髙田くんをエースとする今のチームは特にすごいらしく、運動部に所属していない私の耳にさえ「今年はバレー部インターハイに行けるかも」と聞こえてくる。


 そんな髙田くんと私は、昨年からクラスメイトである。顔を合わせれば挨拶をする程度で、それほど多くの会話をしたことがあるわけではない。


 なにしろ、髙田くんの周りにはたくさんの人が集まっている。いつも誰かが彼の周りには居て、賑やかな時を過ごしている。そんな彼とは対照的に、私は教室の端で気の合う友人とおしゃべりをするくらいだ。


 髙田くんと私の世界はいつも違う。だから私は、彼の告白を断ってしまった。


 今でもあのときの髙田くんの顔を思い出す度に、胸の奥が締め付けられる。髙田くんの声が、唇が、指先が、あんなに震えているところを、これまで見たことがなかった。彼の精一杯で気持ちを伝えてくれていたというのに、私は足元に落とし穴を掘られた気分だったのだ。


 そんな気持ちを抱えたまま衣替えの季節を迎えた私は、半そでのパリッとしたブラウスに袖を通しても心の内はじめじめと生ぬるいままだった。髙田くんと挨拶をすることさえ憚られるようで、彼が一人のときには出くわさないように気を付けるようになった。


「今日も湿気が嫌だね。」


 ある昼下がり、友人の友里ゆりちゃんが憂鬱そうにそう呟いた。彼女は私の方をちらりとも見ずに、窓の外に浮かんでいる曇天から目を離さない。私はその隣に立って、彼女と同じようにその曇天を見上げる。


「本当だね。でも私は湿気で髪の毛が収まらないから、友里ちゃんの真っすぐな髪の毛が羨ましいよ。」

「えー。私は弥生やよいちゃんのふわふわの髪の毛が羨ましいよ。パーマみたいで素敵だもん。」


 友里ちゃんは曇天から私の髪の毛へと視線を移すと、そっとそこに手を伸ばした。私はなんだか猫になった気分で、友里ちゃんの手を受け入れる。そんなやりとりを教室の片隅でしていると、爆弾が落ちたかのような歓声がどこからか上がった。私と友里ちゃんは一瞬だけ両肩を震わせると、二人とも顔に「なにごと?」と書いて、顔を見合わせる。


 教室に居たクラスメイトたちも、何事かと歓声の聞こえる廊下の方へと顔を出す。私と友里ちゃんはその場で留まり、誰かが事の顛末を伝えに来るだろうと待つことにした。予想通り、興奮した様子の同級生の男の子が私たちのクラスまでやってくる。


「髙田と二組の橋本はしもとが付き合い始めたって!」


 その情報を皮切りに、教室内が騒がしくなった。髙田くんと接点のないクラスメイトさえ色めきだっている。


「二組の橋本さんって、あの綺麗な人だよね。」


 そんな中でおっとりとした言葉を私に向けたのは、友里ちゃんだった。


「そうだね。背の高い髙田くんと並ぶと、お似合いな気がするよ。」

「たしかに。橋本さんもスラッとしていてモデルさんみたいだもんね。お化粧も上手だし。」


 頭の中で橋本さんの姿を思い浮かべる。すれ違ったことがあるだけだけれど、身長は私よりも十センチメートルは高いように感じた。制服の袖から伸びた手足は、細長い。顔も小さくて、遠くから見ても「綺麗な人が居るな」と存在感のある人だ。


「橋本さんの髪の毛の色って素敵だよね。ミルクティー色とかっていうのかな。」


 友里ちゃんのその言葉に私は大きく頷いた。太陽の光を弾くほどにキメが整えられた橋本さんの髪の毛の色は、単純な茶色ではなく艶めいている。私はつい、癖毛ボブの自分の髪の毛を触った。


 そんな話をしているうちに、お昼休みの終わりを告げる予鈴が学校中に響き渡った。友里ちゃんとは「じゃあ」と声を掛け合うと、各々の席で5限目の授業の準備を始める。「お昼ご飯を食べた後の古文は眠たくっちゃいそうだなあ」なんて思いながら、教科書とノートを机の中から取り出した。


 予習がてらに教科書を開き、今日の授業の部分に目を通す。蜻蛉日記だ。これを読むと、心臓が鷲掴みされたみたいに胸が苦しくなる。どの時代も悩むことは変わらなくて、藤原道綱母の想いに触れると時を超えたような感覚へ陥るとともに、こんな辛い想いを味わう恋なんてしたくないとも思ってしまう。


 私はそっと教科書の文字をなぞった。あなたにはきっと分からないのでしょうね、という彼女の想いに触れた。そうしていると、教室の廊下側の扉が騒がしくなる。クラスカースト上位の人たちが団子状態になって教室へと入ってきたのだ。


 その中心に居たのは、渦中の人である髙田くんだった。「もういい加減いいだろ」とぶっきらぼうに言う髙田くん。その頬は照れ臭そうに染まっていた。――ああ、見なければよかった。


 誰にも気づかれないように睫毛を伏せる。でもどうして、クラスカースト上位の人たちの声って、こんなにも大きいのだろう。知りたくない話が耳を突く。「どっちから告白したの?」と、甲高い声が教室をさらに騒がせる。古文担当の先生が教室に入ってきてからも、先生を巻き込んで髙田くんの話でもちきりだった。


 私たちの学校では放課になる前に、掃除の時間がある。それぞれの持ち場に分かれて掃除をするのだけれど、今日はやっぱりクラスカーストの高い人たちは集まって話をするだけで、掃除なんかしてくれなかった。仕方がないから、その輪の中に入らない人たちで、教室や廊下の掃除をする。


 集まって話をするのなら、邪魔にならないところで話をしてくれればいいのだけれど、こういうときに限って教室のど真ん中を陣取っている。私も友里ちゃんもその輪を避けながら、気持ちばかりの掃除をした。


 掃除の時間が終わり教室に担任の先生が入ってくると、ショートホームルームが十分ほどあって放課となった。周りはがやがやと五月蝿く、野球部のクラスメイトは「昼まで曇りだったから、雨が降るかと思ったのに晴れたしー。」と不満を漏らしながら、教室を出て行っている。


「弥生ちゃん、帰ろう。」


 帰りの準備をした友里ちゃんが私の席まで来てくれた。


「ごめん。今日までに返さなきゃいけない本があるの。図書室に寄るから先に帰って。」

「そうなんだ。じゃあ、また明日ね。」

「うん。また明日。」


 友里ちゃんと別れた後、私は鞄の中から図書室で借りた本を取り出す。川端康成の『古都』だ。だけどそれの返却日は今日ではない。私は挟んでいた栞の頁を開くと、その文字を目で追う。もう何度も読んだ作品だから、文字を読まなくても内容は頭に入っている。


 目に文字をうつしているうちに、窓の外から部活生の声が聞こえ始めた。野太い声は野球部だとすぐに分かる。本から顔をあげて教室を見渡すと、もう誰も居なかった。私はゆっくりと腰をあげると、掃除道具の入っているロッカーへ向かい、そこから箒を取り出した。


 掃除の時間にきちんと掃除をできなかったことが、どうしても気になった。だから、誰も居なくなってから教室内の塵を掃くだけでもやっておこうと思ったのだ。教室に並んだ机と椅子はそのままに、机同志の隙間にある通路を通りながら、箒で塵を集めていく。誰も居ない教室だと掃除がしやすい。


 教室の前方から後方に向かって塵を移動させるのを、何往復かすると教室に散らばっていたおおよその塵を集めることができた。


「ふう。」


 額に滲んだ汗を手のひらで拭う。集めた塵を塵取りに入れてしまえば、掃除はもう終わりだ。掃除ロッカーへと塵取りを取りに向かったところで、教室の中に扉を開ける音が響いた。私は両肩を震わせて、音の方へと身体を向ける。そして、まさかその人が教室へやってくると思わなくて、もう一度両肩を震わせた。


「あれ。桜井さくらいさん、まだ帰ってなかったの?」

「え、あ、うん。」


 教室に現れたのは髙田くんだった。髙田くんと顔を合わせるのが気まずいのか、一人で掃除をしているところを見られたのが気まずいのか、よく分からない。でも、とにかく今はクラスメイトの誰にも会いたくないと思っていたのに。


 髙田くんの視線が、私の爪先から頭の先まで突き刺さる。


「明日にしたらよかったのに。」

「え?」

「どうせ桜井さんのことだから、今日の掃除が満足にできなかったから、わざわざこうして掃除してくれているんでしょ。」


 私は「いや、気になっちゃっただけだから……」と唇をまごつかせながら、視線を塵取りへと移した。そしておずおずと、塵を集めた場所へと移動して塵を塵取りの中へと入れる。髙田くんの方へは背を向けて。


「ごめんな。俺らのせいで掃除ができなかったんだろ。」


 いつの間に傍へと移動してきていたのか、髙田くんはそっと私から箒と塵取りを取り上げた。部活の途中なのか、髙田くんは制服ではなくTシャツに短パンという出で立ちである。日に焼けた肌を見ると「バレー部なのにどうして日焼けしているんだろう」なんて考えてしまう。


「……私が気になっただけだから。髙田くんは謝らなくていいよ。」


 私がそう言うと、髙田くんは眉を寄せた。


「……そっか。でも、五月蠅かったのは事実だろうから、ごめんな。」


 そう言った髙田君は手際よく塵を塵取りへ集めると、それを教室の片隅にあるごみ箱の中へと入れた。彼の大きな手足が動くだけで、胸が締め付けられる。


「髙田くんは部活の途中じゃないの?」

「……ギャラリーが多すぎるから、少し時間を潰してこいって言われてさ。」


 私はつい「ああ。」と納得の声を漏らしてしまった。


「ああってなんだよ。」


 髙田くんが箒と塵取りを掃除ロッカーへと片付けながら、笑みを含んでそう言った。髙田くんが柔らかくなってくれたから、私もつい言葉が漏れる。


「だって今日は髙田くんのお話でもちきりだったじゃない。だから仕方ないよ。」


 ぎいっと静かに掃除ロッカーが閉められると、髙田くんは真っすぐにこちらを見た。ほんの数秒前まで柔らかい空気だったのに、その途端に糸が張り詰めたかのように髙田くんは苦しそうな表情をする。どうしてそんな顔をするの?


「……桜井さんには言われたくなかったな。」


 褐色を含んだ瞳が、私を捕らえて離さない。髙田くんにこうされたのは、以前に一度だけある。だからきっと、その理由を聞いてはいけない。


「……どうして?」


 だけど、聞かずにはいられない。


「桜井さんのことが好きだから。」


 息が止まったかというくらい、ひゅっと喉がなった。警鐘でも鳴らすかのように心臓の動きが早くなる。


「でも、橋本さんと……。」


 自分の口から、「髙田くんは橋本さんと付き合っているじゃない」とまで言えなかった。言葉にすることができなかった。


「それも、桜井さんのことが好きだから。」


 怖いと思った。だけど、自分の気持ちを言葉にできる髙田くんが羨ましいとも思った。どうして私なんかが、髙田くんのことを好きだなんて言えるだろう。


 本当は。本当は初めて告白してもらえたとき、天に飛び上がってしまいそうになるくらい嬉しかったというのに。


 髙田くんに好きって言ってもらえて、私はなんて幸せなんだろうって思った。髙田くんの告白を断って家に帰ってからも、何度も口端が緩むのを止められなかった。朝起きたら、「あれは夢だったのかもしれない」と思ってしまうほど、夢見心地だった。


 だけど、私なんかが髙田くんの気持ちを受け入れることはできない。住んでいる世界が違う。きっと「なんであの子なんかが」って言われてしまう。カーストの高い女の子たちにどんな言葉を浴びせられるか、分かったもんじゃない。だから私は、片思いを選んだ。それなのに、髙田くんはどうして。


「……でも、髙田くんの大切にしなきゃいけない人は、橋本さんでしょ。」


 声を振り絞った。そうやって突き放すのがやっとだ。


「理由だけ教えてくれない?」


 夏至を迎えた太陽は、夕方になっても高く昇ったままだ。だから、電気をつけていない教室の中だというのに、髙田君の冷たい表情がよく見えた。エアコンも消えていて蒸し暑いはずなのに寒気がする。


「……なんの理由?」


 喉がカラカラだ。そうして理由を問いかけるだけで精一杯だ。


「俺のことを好きなくせに、そうやって俺のことを拒絶する理由。」


 彼は冷たい瞳の奥に、焦げ付くような衝動を携えている。私はそれに怯えていた。しかしそれだけではない。ただほんの少しの優越感がある。


「……きっと。髙田くんも私も自分のことしか考えていないからだよ。」


 私は、私の立場しか考えていない。そして逆を言うならば、髙田くんは私の立場を考えてくれておらず、気持ちを押し付けることしかできていない。


「私と髙田くんは同じ気持ちを持っているよ。でもそれ以上に、平行線のままになる気持ちを持ち合わせているの。私にとっては、その平行線になっている気持ちは見て見ぬふりなんかできなくて。私の方から歩み寄ることは絶対にできない。そうなるときっと私と髙田くんは、一生分かり合うことはできないの。だから、私は髙田くんの気持ちに応えない方がお互いのためだって思うの。」


 髙田くんは分かりやすく片眉を吊り上げた。


「私はほんのひと時でも、髙田くんと両想いだっただけで最高の思い出だよ。」


 私がそう言うと、髙田くんは「そっか」とだけ零し、力なく教室から出て行った。大きな背中を見送ると、その場にへたり込んだ。膝は笑っており、立っているのもぎりぎりだったらしい。緊張から解放された私が腰を上げることができたのは、西日が教室へと差し込み始めてのことだった。







 髙田くんと私の間に何かあったとしても、東から昇る太陽には関係のないことだ。今日も朝はやってきて、学校へ行く時間が訪れる。


 最寄り駅から電車に乗り込むと、学生や仕事へ行く人たちで溢れている。運よく座席へと座れると「ラッキー」と心の中でガッツポーズをしながら、鞄から『古都』を取り出した。


 電車は駅で停まるごとに私と同じ学校の生徒が増えていく。あと三駅で学校の最寄り駅へ着くというところで、はっとして顔をあげた。すると、私の目の前に立っていた人物と目が合う。


「おはよう、桜井さん。」

「……おはよう、髙田くん。」


 その日から髙田くんは、毎朝の電車の中でだけ私の傍に立つようになった。

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