第12話 家中のひととき・1~夕餉の支度

 ”ちょめちょめしないと出られない家”は、条件をつけないと利用できない訳ではない。

 旗に名前を書かなければ扉に触れるだけで誰でも入れるし、条件シールを貼らなければ扉に触れるだけで出る事が出来る。


 また”家”の中の、食材を始めとする消耗品は定期的に補充されるらしく、その時期に合わせた家財道具が増えたり減ったりするのだ。食料庫の奥に開かずの扉があり、どうやらそこから業者が出入りしているらしい。


 定期的なメンテナンスは必要らしく、あくまで借り物だ。リャナが次回来る際に一度回収するというし、恐らく今日が最後の利用となるだろう。


 ◇◇◇


 日の暮れた側女の部屋。ベランダに程近い絨毯の上に”家”が置いてある。


 ”家”の中のキッチンで、リーファは夕食の支度に勤しんでいた。カーリンから魚料理の話が出たので、”家”にあった料理本に載っていたブイヤベースに挑戦中だ。

 パンを焼いている余裕はなかったから、パンケーキを焼いてある。トマトとキュウリとアボカドのサラダも支度が出来ている。


(あとは何を作ったらいいかな………デザートは、冷凍庫にあったアレがいいかなぁ…)


 エビとタイを煮込んで、そろそろかと思いアサリを入れてフタをする。あまり魚料理に縁のない土地なので、上手く出来ているか、喜んでもらえる出来になるかは分からない。


 きぃ───ぱたん、と玄関の方から音が鳴る。

 ここで行われる、いつものやりとりの始まりの合図だ。


「ただいま」


 リーファは鍋の火を少しだけ弱め、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンから顔を出した。

 玄関の方に顔を向ければ、丁度アランが”家”に入ってきて上着を脱ごうとしていた所だった。


「おかえりなさい。あ───」


 ”あなた”と言おうとして、言い留まる。

 以前、ここでのアランの呼び方について、『何故名前で呼ばないのか』と不満が出ていたのを思い出した。

 リーファとしては外でうっかり呼び捨てにしてしまう事を懸念して、妥協案として”あなた”と呼んでいたのだが。


(当分は使わないでしょうから、今日くらいはいいよね)


 変な所で言葉を止めてしまったものだから、アランが無表情でこちらを見下ろしていた。一つ咳払いをして、満面の笑顔でアランを出迎える。


「おかえりなさい、アラン」

「──────」


 全力で愛想を振りまいてみたが、当のアランは表情を変えないままリーファを見つめている。

 鍋がクツクツ煮込まれていく音だけが聞こえるほど、時間だけが無為に流れたが。やがてアランは、脱いだ上着をハンガーラックにかけつつ感想を零した。


「やはり呼び捨ては違和感がひどいな」


 どうやらお気に召さなかったようだ。


「そうですねー…」


 リーファとしても、同じ意見だった。国で一番偉い人を呼び捨てするのだ。違和感とかそれ以前の問題だ。


「しかし新婚夫婦とは得てしてそういうものかもしれん。

 最初は気恥ずかしくもなるが、そのうち気にもならなくなるのか」

「…気恥ずかしくなりました?」

「いいや、全くだ」

「ですよねー…」


 思ったよりも評判は悪いようだ。ご機嫌取りも兼ねての呼び捨てだったが、逆効果では意味がない。


「じゃあ、やめますね」

「いや、続けろ」

「え?」

「続けていけば違和感がなくなるかもしれんからな。

 色々と気に障るが、我慢しておいてやる」

「…ありがとうございます…」


 内心複雑な気持ちで、リーファは頭を下げた。大分ケチがついたが、続けても良いと思う程度に気に入ったのかもしれない。


(素直じゃないんだから…)


 帰宅のやり取りも終わった事だし、そろそろ鍋の方も気になってくる。


「もう少しで夕食の支度が出来ますから、ちゃんとうがいと手洗いをしてきて下さいね。

 あと、服の汚れがあるなら洗剤に浸けておきますから、先に出しておいて下さい」

「ああ、分かってる。全く…お前は口うるさいな」


 機嫌良くやれやれと肩を竦めるアランを見ていると、何だかもやもやしてしまう。


 帰宅時の愛想もその後の会話も、アランの『一般家庭とはこういうもの』という言葉を元に従っているだけだ。そこまでやらせておいてこの態度なのだから、呆れもする。


(アラン様の常識ってどこから来るのかなぁ………。

 ヘルムート様やシェリーさんは、こんな事言わないだろうし…)


 洗面所へ行くアランを見送り、リーファはキッチンへと戻っていく。

 鍋のフタを開けるとアサリの殻が開いていた。食器棚から小皿を取り出して、ブイヤベースの汁をおたまですくう。


 味見をしようとしていたらキッチンにひょっこりとアランが顔を出して来た。洗面所に行って、すぐに引き返してきたようだ。


「リーファ」

「はい?」

「忘れものだ」


 そう言うと、ポカンと口を開けているリーファの顎をつまみ上げ、そのままキスしてきた。


「んく」


 軽い口づけではなく、するりと舌も入れてきた。


「ん、んん」


 朝出掛ける時と、夕帰ってきた時にキスをする。これもアランが『その日のやる気に関わる重要なもの』と定めた事だった。


(帰って来た時は、うがいしてからしてほしいんだけどなあ…)


 急だったが、汁を零さないよう小皿とおたまをなんとか調理台に置いた。両手が空いて安心し、改めて口内をねぶるアランを受け入れる。

 いつもより長めのキスが終わると、アランが舌なめずりをしてリーファの唇に指を滑らせた。


「ん、口の中が甘いな」

「冷凍庫の中にバニラアイスが入ってたんです。それを少し」

「私に黙ってつまんでいたか?行儀が悪いな」

「もう、味見してたんですってば。夕食に出すのに口に合わなかったら困るじゃないですか」

「分かった分かった。そういう事にしておいてやる」


 もう一度浅く口づけて、アランは満足そうにキッチンから出て行った。


 アランの姿が見えなくなって、一連の行動を思い起こす。


(本当にこんな事、夫婦でしてるのかな…?)


 リーファが夫婦の姿として参考にしているのは自分の父母だから、この流れはちょっと信じがたい所があった。


 物心ついた頃には、父は大半が出掛けていて母を思いやっている光景は見た事がなかったし、母は仕事に忙しく父が帰ってきても素っ気ない対応だったから、こんなにゆったり過ごしている印象は全く見られなかった。

 更に突っ込んだ事を言うなら、本当にあの父母が愛し合っていたのかという部分も疑わしいのだが。しかしそこを疑うとリーファの出自すら怪しくなってしまうので、考えたら考えただけキリがない話でもある。


 アランは王族で、一般家庭とは無縁の幼少期を過ごしていたはずだ。しかし兵士団にも所属していたというし、もしかしたら周囲の人達から家族の事を色々聞いていたのかもしれない。


(理想像、なのかも)


 朝は妻の甘いキスで起こされて、妻がアイロンをかけた仕事着に着替える。

 階下へ降りれば朝食の支度は出来上がっていて、ふたりで他愛ない会話をしながら食事をして。

 もう一度妻からキスしてもらってから、仕事へと出かける。

 夕方仕事に疲れて帰ってきても、家で笑顔の妻と温かい食事が出迎えてくれる。

 風呂上がりのレモネードは欠かさずに。

 そして気の向くままに───片付け中だろうが入浴中だろうが就寝中だろうがお構いなく───妻の肌に触れる。


(…都合の良い話よね)


 結局は男性目線の理想である。女性の立場には全く触れていない。

 ”家”を借りているのはアランだし、リーファ自身もアランの”所有物”なのだから、どちらをどう扱っても構わないのだが。


 こう”夫婦ごっこ”を続けていくと、上手く行かなくて色々な所で不満が湧いてくるのも事実だ。

 朝決まった時間に起きられなかったり、調理の時間配分を間違えて出迎えが出来なかったり、言わなければならない言葉が出て来なかったり、レモネードの支度が間に合わなかったり。

 そういった細かい失敗をするとアランが必ずケチをつけてくるので、その都度鬱屈した気持ちが膨らんでいってしまう。


(…ああ、駄目ね。イライラしてる)


 生理前によくある症状だ。どうでも良い事を考えてしまう。らしくない。


 気を取り直して、ブイヤベースの汁を湛えた小皿を傾け口に含む。時間が経ってぬるくなってしまったが、味付けは問題なさそうでちょっと安心した。

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