第8話 人をいざなう魔性の歌声

(あの女の子は、まだ宿屋にいるかな…!)


 ニークは、慌てた様子でマゼストの村の坂道を下りていく。

 配送は馬車だし、最近はややぽっちゃりしてきたせいか、ちょっと走っただけですぐに息切れをする。少し運動をした方がいいかもしれない。


 両手には、包むように麻の小袋を持っていた。

 荷馬車の御者台にあったもので、妻が見つけてくれたものだ。ニーク自身に心当たりはなかったが、今日戻る際に乗せてきた女性リーファのものだとすぐに気が付いた。


 中にはお金がそこそこ入っていたから、きっとこれが全財産だろう。宿屋に着いた早々文無しでは困るだろうと、ニークは宿屋へと向かっているのだ。


 坂を下りていくと、ラッフレナンド側の出入り口に最も近い2階建ての建物が視界に入る。宿屋だ。


 坂を下りきり、砂埃だらけの舗装されていない平坦な道に足を向けた───その時。


「”ああ誰か教えて───”」


 高い音から始まる歌が、ニークの耳に届いた。


 その良く通る声を多くの者が聞いたらしく、近くでたむろしていた若者らも一斉に声の方向を探している。


「”風の鎧を身にまとい、真っ赤な髪を靡かせた、あの尊き人の名を───”」


 さっきまで練習に付き合っていたから、声の主がリーファだとすぐに分かった。声の方向も、宿屋の方で間違いはなさそうだ。

 だが、宿屋までは距離がそこそこあるのに、すぐ側で聴いているような奇妙な感じがした。


「”悲しむ人の背を撫でて、苦しむ人を抱き寄せて───”」


 美しい歌声だと思う。音程も間違えておらず、声もよく伸びている。間近で歌を教えていて、才能があるのではないかと思った位だ。


「”ああ、銀の刃をその手に持って、闇に挑むはかの乙女───”」


 だが、この状況は明らかに異様だった。

 まるで歌声に吸い寄せられるかのように、そこそこの数の村人が興味を示し、皆一様に宿屋に向かい始めている。

 これではまるで───


(若い頃のわたしみたいじゃないか…!?)


「”籠手を真っ赤に染め上げて、乙女の凱歌は天を裂く───”」


 宿屋の周囲には、既に人だかりが出来ていた。ニークは彼らの波を抜け、スイングドアを押し開けた。


 入り口入ってすぐ右側。カウンターの手前に、リーファが顎を上げて立っていた。


 側には、ハープを奏でている女がいる。こちらは最近宿屋に腰を落ち着けている吟遊詩人だ。歌の一番が歌い終わり、しっとりと間奏を奏でている。


 宿屋の中は異様な空気だった。

 普段なら、歌や芸が披露されても見向きもしない者も多いが、今回に限っては皆が皆、リーファと吟遊詩人の女を凝視している。配膳をしている女の子たちもだ。賑やかなのが取り柄な連中が、歌に想いを馳せてしんみりしているのだ。


 だが、ドアを押し開ける音を、リーファは気にしたらしい。

 ニークと目が合った途端、リーファは歌を止めてしまい、ニークに笑顔で手を振った。


「あ、ニークさん!」

「んあ?!」


 ───ポロンッ


 いきなり歌を中断されてしまい、吟遊詩人のハープが不協和音を奏でた。

 その瞬間、まるで魅了の魔術が解けたかのように、宿屋とその周囲が一斉に騒ぎ出した。


「おいねーちゃん!急に歌うのを止めんな!」


 吟遊詩人が、ガラガラ声で叫んだ。リーファが歌わされている理由が何となく分かった気がした。

 リーファは我に返り、吟遊詩人の女に慌てて頭を下げている。


「え、あ…ごめんなさい…つい」

「ったくぅ…」


 素直に謝られる事に慣れていないのか、吟遊詩人の女はそれ以上怒る事はなく、ぶつくさ言いながら頭を掻いて黙り込む。


 宿屋の中はいつもの賑わいに戻っていくが、それでも先程の余韻に浸っているものが多いようだ。拍手を送る者もいるし、チップを投げて寄越す者もいる。


 転がったチップを拾いに吟遊詩人の女が動いたのを見計らって、ニークはリーファの所まで行って麻の小袋を手渡した。


「リーファさん、お金落としたろう。荷馬車に残ってたよ」


 リーファの顔が嬉しそうに綻んだ。


「わあ、良かった!探してたんです。どこかで落としたのかなって…。

 持ってきてくれてありがとうございました!」

「いやいや。わたしも良いものを聴かせてもらったよ。上手に歌えてたね」

「そうですか?それなら良かった…。

 ニークさんのおかげですよ」


 自分のおかげと言われては、悪い気はしない。

 だが、ここは心を鬼にしなければならない。ニークはリーファの鼻の頭を指でつついてたしなめた。


「うん、だったら次のアドバイスだ。

 歌ってる途中で、急に歌うのを止めちゃいかん。ちゃんと全部歌い切らなきゃね。

 特に”救国の聖女”の歌は、聖女の革命成功から処刑のくだりまで歌うのが重要なんだから」

「あー………はい。気を付けます…」


 リーファは肩を落とすが、それでも手元にお金が戻ってきて、すぐにへらっとはにかんだ。


 そんなふたりの間を割って入ってきたのは、宿屋の主人ジェニースだ。

 古馴染みの彼も気が付いたのだろう。震える手でリーファを指差して、ニークに訊ねてきた。


「ニークさん、その子…」


 何故だか誇らしくなって、リーファの頭をぽんぽん撫でながら答える。


「ああ、わたしの歌の弟子だよ」

「おおー」

「どおりで」


 カウンター席にいた宿屋の常連たちも納得してくれる。弟子と呼ばれて、リーファも嬉しそうだ。


 ジェニースは腕を組み、ひとしきり唸り声を上げた。


「ううむ…ニークさんのような声のやつが他にもいるとはなあ…」

「ああ、わたしもびっくりだよ。

 自分では分からないものだったが、こうして人の声を聴くと違うものだねえ」


 そう言ってリーファを見下ろすと、彼女は『何の事やら?』という表情でニークとジェニースを交互に見ていた。


 どう説明をしようかと考えていると、吟遊詩人の女がチップを拾い集めて戻ってきた。まずはこちらを優先するべきだろう。


「吟遊詩人のお嬢さん。稼ぎの邪魔をしてすまなかったね。

 良かったら歌の続きを弾いちゃくれないかい?

 …リーファさん、どうせだから一緒に歌おうじゃないか」


 ニークの提案に、リーファの目がきらきら光った。


「は、はい、喜んで!」

「チップの取り分はないぜ!」

「ああ、もちろん。分かってるよ」


 吟遊詩人の女はそれで納得したようで、早速ハープの調子を確かめ始めた。


 ニークもまた、声の調子を確認する。さっき街道で指導がてら歌っていたので、通り自体は問題なさそうだ。


 ジェニースが少し心配そうに声をかける。


「ニークさん、あんた…いいのかい?もう歌わないって」

「一曲くらい、いいだろう?

 今日は皆仕事は終わってるし、坑道で厄介事も起こらんだろうさ」


 ニークはそう応え、胸の下あたりに手を当て深呼吸をしているリーファに声をかける。


「リーファさん。あとで少し、わたしの昔話を聞いてはくれないかね?」

「はい、もちろん!」


 笑顔と共に、二つ返事でリーファは快諾する。素直で快活な良い子だ。


(この子ならば、わたしに出来なかった事をやってくれるかもしれない)


「さあ、仕切り直しだ!”救国の聖女”の歌、今度は男女のデュエットだ。野郎ども、聴いていけよ!」


 乱暴な言葉遣いに反して、心地よいハープの音色が宿屋中に響き渡った。

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