泣きたいくらいに

あさの紅茶

泣きたいくらいに

 ガチャンガチャン


 トラックの荷台のドアを開ける音が微かに聞こえてくる。


 畑中悠里はその音を聞いてソワソワと落ち着かなくなった。まわりをキョロキョロと見回してみると、少ないアルバイトのメンバーがそれぞれに仕事を見つけて何かしら手を動かしている。

 今はお客さんも少なく、ゆったりとした時間だ。

 悠里は片付けをしながらも、自然と裏口に近い位置まで移動した。


 やがて裏口の扉が大きく開けられ、元気のいい声が厨房内へ響いた。


「こんにちはー。配達です!」

「あ、私行きます!」

「ありがとー」


 扉の一番近くに陣取っていた悠里は、さも自分が対応するのが当然かのようにメンバーに告げ、まわりもそれをありがたいと感じて悠里に対応を任せる。

 悠里は心の中でガッツポーズをすると、普段ホールに出るときのような営業スマイルで挨拶をした。


「お待たせしました、安永さん」

「悠里ちゃん、今日も頑張ってるね。はい、これ納品書」

「はぁい。数確認するので待ってくださいね」


 悠里は納品書に書かれた数字と運ばれてきたビールケースの数を丁寧に数えた。


「はい、大丈夫です。確認しました」

「冷蔵庫に運ぼうか?」

「いえ、こちらに積んでおいてもらえますか?」


 安永は悠里の指示通り、入口を入ったすぐ横のスペースにビールケースを運んだ。


「私もお手伝いします」

「あ~悠里ちゃん、重たいからいいっていいって。俺がやるから」

「こう見えて私力持ちなんですよ!」


 瓶ビールの入ったケースを持ち上げると、飲料と瓶のずっしりとした重さが両腕にずんとのし掛かる。

 悠里は、よいしょよいしょと入口まで運び終える頃には顔が熱るほどに汗をかいていた。

 悠里が1ケース運び込む間に安永は他のすべてを運び終えていて、最後に悠里からケースを受け取るとあっという間に積み上げてしまった。


「全然戦力になりませんでした……」

「こういう力仕事は男に任せとけばいいんだよ」


 安永は何でもないようにカラカラと笑い、つられて悠里も笑顔になった。


「じゃあ、まいど。またよろしくお願いしまーす。店長さんにもよろしく」

「はい、ありがとうございました」


 トラックに乗り込んだ安永は運転席の窓を全開にする。


「悠里ちゃん!」

「っ!」


 ひょいっと何かが投げられ慌てて受け止めると、悠里の手の中には紙パックのバナナオレがあった。


「手伝ってくれたお礼。じゃあまた」


 手を挙げて爽やかに去っていく安永に、悠里は慌ててお礼を言った。


「ありがとうございます!」


 その声が届いたのかどうなのか、トラックは後ろ髪引かれることなく次の目的地へと去っていった。


 しばらくトラックを見送っていた悠里は人知れず頬を緩ます。たった今受け取ったパックジュースを胸に抱えたその表情は喜びに満ちていた。


「……えへへ。もらっちゃった」


 ほんのり頬が染まるその感情は、高校生になって初めて実感した初恋なのだった。



 悠里は母親と二人暮らしだ。

 母は十八歳で悠里を産んだ。いわゆる“できてしまった”から産んだだけで、相手の男は結婚すると言いながら行方を眩ませてしまったため未婚の母だ。


 だからといって母が悠里を邪険にしたことは一度たりとてない。母の愛を一身に受けながら、悠里はまっすぐに育った。

 父親がほしいなんて思ったことはない。不憫だと思ったこともない。

 ただ、成長するに従って、母はそれでいいのかなとも感じるようになった。それは特に、悠里に好きな人ができてから芽生えた感情だ。


「ねえ、お母さんは結婚しないの?」


 何の気なしに尋ねたことがある。

 母は驚いたような困ったような顔をして、「いつかできたらいいよねぇ」と他人事のように笑っていた。


 昼間はファミレスで、夜は居酒屋で働く母の姿を見て育った悠里は、高校生になってアルバイトを探すときにまっさきにファミレスを選んだ。

 母の働く姿はかっこいい、自分もそうなりたいと思ったからだ。


 初めてのアルバイトは苦難の連続で、覚えることもたくさんあるし失敗して怒られて、時にはお客さんにも文句を言われてめげそうにもなった。


 そんな時に出会ったのが、ビールを配達している安永だ。

 初めての納品作業でテンパる悠里に、安永は怒るわけでもなく優しくレクチャーしてくれた。ほんの少し世間話もして笑い合って、その時間にどれほど救われたかわからない。


 いつしか悠里は安永を見るだけで心がウキウキし、声を聞くだけで心臓がドキッと高鳴るようになった。

 それが恋心だと気づいたのは最近のことだ。


 安永は三十六歳。悠里よりも一回り以上年上だ。けれどそんなことは関係なく、悠里は日を追うごとに安永のことが好きで好きで堪らなくなっていた。


 いつかこの気持ちを伝えたい。

 そして受け入れてもらいたい。


 安永に会えるかもしれないという期待がアルバイトを続ける理由になり、そして頑張れる原動力となっていた。



 久しぶりに悠里は母と買い物に出掛けた。もうすぐ母の誕生日、悠里はアルバイトで稼いだお金で母の好きなものを買ってあげる約束をしていた。


「悠里が稼いだお金だもの。自分のために使いなさい」

「いいからいいから。私だってお母さんにプレゼントしたいの」


 今まで母が贅沢をしている姿は見たことがない。決して貧乏な暮らしをしているわけではなく不自由だと思ったことはなかった悠里だが、それは母が節約上手で尚且つ自分のものは買わないで悠里のために惜しみ無くお金を使ってくれていたことにようやく気づき始めていた。


 そんな母に、自分で稼いだお金で何かプレゼントをしたいとずっと思っていた。

 やっと今日、それが実現するのだ。


「じゃあお言葉に甘えて、手袋を買ってもらおうかな」

「そんなのでいいの?」

「最近寒くなったでしょ。自転車で通勤するの手が冷えるのよね」


 二人はまるで友達同士かのように和気あいあいとショッピングを楽しみ、肌触りの良いベージュの手袋を購入した。


 今日はお互いに仕事が休みなためそのままカフェへ入る。

 母は先ほど購入した手袋をさっそく着けて見せ、嬉しそうに笑った。そんな姿を見て悠里も嬉しくなる。


「悠里は立派になったね。本当にいい子に育ってくれてお母さん嬉しい」

「そう?高校生にもなればこんなもんでしょ?」

「進路は考えてるの?」

「うーん、就職しようかな?」

「大学行ってもいいのよ。悠里はすぐ遠慮しちゃうから」

「遠慮なんかじゃないって。私、勉強あんまり好きじゃないんだよね。それにファミレスでバイトしたら働くのも楽しいなって思えるようになってきてさ」


 クリームソーダを啜りながらそれっぽいことを言ってみる。

 悠里にとってそれは真実が半分、もう半分はやはり遠慮である。


「本当に立派になっちゃって、自慢の娘だわ。……あのね?」

「うん?」


 母は一呼吸置くと、控えめな声色で言う。


「……そんな自慢の娘を紹介したい人がいるんだけど、悠里は会ってくれる?」


 遠慮がちに言う母はいつもと違ってモジモジしており、そんな態度に悠里ははっとなった。


「え?それってもしかして……」

「実はお付き合いしている人がいるの。でも悠里が嫌なら会わせないから……」

「ううん。会いたい。お母さん結婚するの?」

「そんな、まだ結婚だなんてわからないわ」


 母のいじらしい姿は普段とは違ってとても女性らしく、悠里は胸がウズウズとしてきた。まさか母の恋話を聞く日がこようとは思わず、感慨深くなる。

 安永に片想い中の悠里は、いつか自分も母にそうやって報告できる日がくるのかなと思いを馳せた。


 やがて悠里の目の前にスーツを着た男性がやってきた。


「こんにちは、悠里ちゃん」

「……こんにちは」


 かろうじて挨拶ができた悠里だったが、そのまま何も言えなくなった。

 ビシッとしたスーツ姿の彼は初めて見たけれど、悠里はその彼の顔を知っている。

 制服であるポロシャツに、汗をかくので首にタオルをかけてビールを運んでくれる彼。いつも悠里に優しく笑いかけてくれる彼。


「こちら、安永さん。もしかしたら悠里もバイト中に会っているかもしれないけど……」

「驚かせてしまったかな?」

「お母さんの職場に飲料を届けてくれる業者の方でね、それで知り合ったの。……悠里、どうしたの?」


 悠里の目からは大粒の涙がボタボタとこぼれ落ちテーブルを濡らす。


「……やっぱり会わない方がよかったかな?ごめんね、悠里ちゃん」


 悠里の目の前でオロオロとしだす大人たちを見て悠里は慌てて涙を拭った。一向に止まる気がしない涙は次から次へとあふれ出てくる。


「……お母さんに恋人ができて嬉しい。そのお相手が安永さんでよかったと思って……嬉しくて泣いてるの」


 嘘。

 嘘。

 ううん、少しは本当。

 だけど嘘。


 神様は意地悪だ。

 こんな仕打ちを与えてくるから。


 悲しくて悲しくて、だけどやっぱりほんの少しだけ嬉しくて。

 よくわからない感情が失恋の痛みだとわかるのはしばらくしてからのこと。


「……お母さんのこと幸せにしないと恨むから」


 悠里が苦し紛れに吐き捨てた言葉を安永は大切に拾い、そして柔らかく微笑む。


「お母さんのことも悠里ちゃんのことも、幸せにしてもいいかな?」


 優しくされればされるほど悠里の胸には失恋の痛手がぐさりと刺さる。


 好きだった。

 初恋だった。

 いつか想いを伝えたかった。


 だけど目の前の二人は恋人同士で、知らなかったのは悠里だけで。いつも悠里に優しく接してくれたのも、恋人の娘だと知っていたからかもしれない。


 そう考えると虚しくてたまらない。

 苦しくてたまらない。


 悠里の気持ちを知らない二人は見つめ合い、そして微笑み合う。

 悠里の気持ちだけを置き去りにして……。


 ああ、空はこんなに青く澄んでいるのに。

 なぜこんなにも泣きたくなるのだろう。

 苦しくてたまらないのだろう。


 悠里はもうほとんど溶けてしまったクリームソーダを啜る。クリームと氷が溶けて薄まったソーダは悠里の心を現しているようで、まったく味がしなかった。



【END】


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泣きたいくらいに あさの紅茶 @himemon

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