空蝉と蛍
深海 悠
出会い
気づけば、僕は海辺に立っていた。
空は灰色で、今にも雨が降り出しそうだった。
家に帰らなければ。そう思った瞬間、右足が強く引っ張られ、僕はそのまま海へ落ちた。右足は依然として何者かに引っ張られ続け、僕の身体はどんどん陸から遠ざかっていった。
僕はこのまま死んでしまうのか。誰にも知られないまま。
怖い。嫌だ。誰か、助けて。
「大丈夫」
その声に僕は心底ほっとした。そして、気が付いた。長い黒髪に雪のように真っ白な肌をした美女が、僕の顔をじっと見ていることに。
「うわあああああああ!!?」
情けない声をあげる僕を見て、謎の美女はくっくっと笑った。
「だっ、誰!?」
「警戒しなくていいよ。私はただ、君が河川敷で倒れていたから声をかけただけさ」
彼女が僕のすぐ横を指さした。横転した自転車を見て、僕は倒れた直前のことを思い出した。塾に向かっている最中に急に眩暈に襲われ、河川敷に転落したのだ。
「・・・・・・迷惑かけてすみませんでした」
「迷惑だなんてとんでもない。私がそうしたかっただけだよ」
「そう、ですか」
こういう時、どう返すのが正解なのだろう。僕はただ、じっと俯いた。
「ほら、立って」
彼女の手が僕の手を掴んだ。真夏だというのに、彼女の手はひんやりしていた。
「そうだ、少年。私、海に行きたいんだ。近くの海まで連れて行ってくれないか?」
「は?」
彼女は、自転車を僕に押しつけると「ゴー!」と言った。僕は訳が分からないまま、名前すら知らない女性を後ろに乗せて自転車を走らせた。
◆◇◆◇◆◇◆
「青い空。白い雲。太陽に照らされて光り輝く海。これぞ夏って感じだな!」
「はあ」
「はあって、なんだそのリアクションは。お前はご老人か。まだ高校生だろ」
「まあ」
死んだ魚のような目をした僕を置いて、彼女は海に向かって走り出した。
「ほら、君も早くおいでよ。気持ちいいよ」
「お断りします」
「どうして?海が怖いのか?」
「別に、怖くなんか・・・・・・って、うわ!!」
突然の水攻撃に、僕は頭からつま先までびしょ濡れになった。彼女が僕に向かって、さらに海水をぶん投げようとしてくるので、僕は海水を掻き分け、彼女の手を掴んだ。
「少年は、怒った顔も可愛いな」
「馬鹿言わないでください。揶揄っているんですか?」
「揶揄ってなんかいないよ。本当に、そう思っただけ」
彼女がふっと微笑んだ。冷静さを取り戻した僕は安堵した。もう少しで、彼女を罵倒してしまうところだった。
「久しぶりの海はどう?」
「どうって?」
「冷たくて気持ちいいとか、美女と海で遊べてラッキーとか、そういうのだよ」
「・・・・・・別に。特に何も感じません」
「そうか」
彼女が黙り込んだので、僕は目線を海に移した。
当たり障りのない会話しか出来ない僕を、周囲の人間は『つまらない人間』だと言って去っていく。きっと彼女も、僕を『つまらない人間』だと思ったのだろう。
頼むから、これ以上僕に話しかけないでほしい。深く関わろうとしないでほしい。
「少年、友達いないだろう」
「はい?」
彼女の発言に眉をひそめた。図星だが、いざ言葉にされると馬鹿にされたようで腹が立つ。
「私が少年のお友達第一号になってやろう」
「結構です」
「まあ、そう言うなって。改めてよろしく、
彼女が僕に向かって手を差し伸べてきた。
「ちょっと待ってください。勝手に話を進めないでくださいよ。というか、どうして僕の名前を知っているんですか?」
「君が寝ている間に生徒手帳を見たんだ」
茫然とする僕の手を強引に掴むと、彼女はぶんぶんと上下に振った。
「これで友達だな。改めて、どうぞよろしく」
一方的な握手は握手というのだろうか。いや、そもそも友達とはなんだ?
「さて、暗くなってきたし、そろそろ帰る時間だな」
彼女は僕の身体を反転させると、砂浜に向かって押しやった。
「また会おう、少年」
僕が砂浜に辿り着いても、彼女はまだ海に浸かっていた。彼女はどことなく寂しそうな顔で、僕の姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。
◆◇◆◇◆◇◆
「ただいま」
玄関の扉を開けた瞬間、小さな悲鳴が聞こえた。ずぶ濡れ姿の僕を見て蒼ざめる母に、熱中症でふらついて川に落ちたと言い訳し、浴室へ直行した。
熱いシャワーを浴びながら、今日の出来事を思い返していた。
いつからだろう。自分の存在を限りなく零にして生きるようになったのは。
他人と必要以上に関わらなければ、傷つかずに済むし、傷つけずに済む。誰かに傷つけられるぐらいなら、自分のせいで誰かを傷つけてしまうぐらいなら、ひとりでいる方がいい。ずっと、そうやって生きてきたじゃないか。
『これで友達だな』
彼女の言葉を思い出し、浴室の壁に自分の頭を打ちつけた。
友達なんて、僕には必要ない。僕はひとりでも生きていける。今までだって、そうしてきたのだから。それなのに、どうしてこんなにも胸がざわつくのだろう。
何度も頭を壁にぶつけながら、ひとりため息を零した。
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