第七章 第二話 アグナバル洞窟の主(後)/不穏な風
湖上に浮かぶレーベンアドレ島から出て西岸のジョヴェード地区に渡るには、民間が管理運営している渡船を使う。
小さな橋は在るが、其処は人間が渡る為だけ、の橋であり、馬車は通る事は出来ない。
その橋は、ジョヴェード地区に敵勢力が進行してきた際には即座に落橋出来る様、強度をギリギリまで下げている。
渡船に載せる事が出来る馬車は二台だけであり、その中でも鉄の装甲板を張った、重量が有る皇帝御用馬車は一台が限界。
五社五隻の渡船をフル稼働させても、四十二台の馬車前部を渡し終えた頃、青陽は既に四十五度の角度まで昇っていた。
西岸地区の御用所に立ち寄ると皇帝御用馬車に、其処に預けてある大型で分厚い遊離装甲板を取り付け、いよいよ出発する。
カラカラと、木製の車輪の外側に巻き付けた薄い鉄板の輪っかが、砂利道を転がりながらリズミカルな心地よい音を立て、四十二台もの馬車が一様に南を向き、一番先頭の馬車から順番に、西岸ジョヴェード地区を通って行く光景はとても珍しい。
ましてや、皇帝御用馬車も加わっていた事から、道の両側にはいつの間にか、大勢の人だかりが出来ていた。
シャンタル・ドゥシエラが乗る馬車は四十二台もの馬車の大行列の最後尾にあり、従って彼女が乗るこの馬車が動き始めるには、もう少し時間が掛かりそうである。
その時。
シャンタル・ドゥシエラは何かに気付き、キッと表情を引き締めると、屋根が無い、馬車の後部デッキに身を乗り出す。
シャンタル・ドゥシエラは辺りを急いで見回すが、腰の曲がった老婆と草臥れた表情の冴えない五人の老従者が、此方も相当に疲労困憊した様子の老駄馬が引いて此処まで来たのだろう、大量の野菜や果実を高々と満載した古ぼけた荷車が、道にでも迷ったのだろうか、呆然と立ちすくしているのが見えるだけである。
「どうか、なさいましたか?局長」
困惑したような表情で車内に戻ってきたシャンタル・ドゥシエラの姿を見つけて、ウォルフィントンが声を掛ける。
「いや、気のせいらしい。物凄い魔力と強い殺気を感じて辺りを見渡したのだが、草臥れた風の老いた風体の商人達が引く、ボロボロの荷馬車が一台が停まっている以外には、以外、其れと思しき姿は何処にも見当たらなかった」
そう言いながら、なおもまた、腑に落ちない様子で、其れでもシャンタル・ドゥシエラは席に座る。
「全方位に、魔術アクティブ・スキャン、しましょうか?」
「いや止そう。馬は、いや、これは馬に限った事では無く、野生生物の殆どが、アクティブ・スキャン魔術に敏感に反応する事が有る。滅多にある事では無いにしても、馬車隊が暴走して周囲の人達にけが人が出てては、遠征前に大事になる」
ウォルフィントンの申し出に、しかしシャンタル・ドゥシエラはそう言ってこれを断る。
「解りました」
ウォルフィントンは組みかけていた術式をキャンセルする。
◇ ◇ ◇
四十二台の馬車キャラバンがアグナバル洞窟に通じる洞窟の入り口付近に到着したのは五日と四夜、経ってからであった。
皇帝御用馬車と比較して格段に乗り心地が悪い、一般的な馬車に乗った為だろう、日に日に口数が少なくなり、度々、座り直していた皇帝エメリヒでは有ったが、最後まで弱音を吐かず、文句も言わず、此処まで来た。
とはいえ、馬車の乗り心地が悪いと感じるのは皇帝エメリヒだけではなく、五日と四夜に渡って馬車に乗り続けた全員がそうであり、現地に着いた順番に、馬車から急いで降りると、全員が申し合わせたように、何度も何度も、何度も何度も背伸びをして腰を伸ばし、大きく深呼吸している。
アグナバル洞窟の入り口である洞窟の周辺は当然だが、イメルント帝国の領内であり、此処は南岸アダカルレラ地区に当たる。
洞窟前には、地区の統治を任されているベタンコウル卿が先乗りして設営した、浅黄色の、円筒形でこじんまりとした布製のテントが百基、内の一基だけ半径が三倍あるテントを皇帝専用のテントとしてこれを中心に据えて、円形に並べられて設営を終えている。
「各テントはそれぞれ、お一人づつご用意させて頂いております」
馬車から自分の荷物と共に降りて、テント村に近づいて行く、それぞれ騎士や魔術師に、案内役となったベタンコウルが丁寧に説明していく。
「但し、サイズ的にはお二人までなら、お泊り頂いても充分な広さが御座います」
周囲が既に暗くなり始めている事、そして何よりも、五日と四夜、馬車に乗り続けた事から、馬車を止めた場所から近い順に、テントは埋まって行く。
「さて、ドゥシエラは、どちらのテントに止まるのですか?」
そう言って自分の荷物を自分で馬車の荷台から降ろしたエメリヒは、トトトッとシャンタル・ドゥシエラに近寄る。
丁度、シャンタル・ドゥシエラとウォルフィントンが手分けして、百一基のテント全てに魔術シールドを施し、テント村全体を三重の魔術結界を張り終えたところだった。
「私との同室、または最寄りのテントへのご宿泊は、流石にお受けできません」
シャンタル・ドゥシエラは毅然とした態度で此れを断る。
「わたくしを魔術師の一人としては数えていない、そう言うお考えですか?」
エメリヒはプクッと頬を膨らませて不機嫌そうな態度をとる。
「此れは御身分とか役割りとか、そう言うお話し以前に、皇帝陛下の御命は、帝国の存亡に関わる事です」
シャンタル・ドゥシエラは其れは見ず、毅然と言う。
「陛下が大迷宮に下られる、其れだけで、一体何名の守護妖精騎士に動員を要請したか、ご存知でしょうか?」
流石にエメリヒも気付かずには居られなかった。
「十名、ですか?」
それでも負けじと、エメリヒはそう言って誤魔化そうとする。
「およそ五十名です。五十名。出撃できる守護精霊の皆さん、全員にわたくしが出撃をお願いしました。精霊使い、ドルイドのフィッツシモンズは、普段からとても温厚な方ですが、もう、頭から湯気を出してカンカンでした」
流石に堪忍袋の緒が切れた、そう言う素振りで、シャンタル・ドゥシエラは、強い口調で言う。
たとえ相手が皇帝であろうと、シャンタル・ドゥシエラにも譲る事が出来ない一線がある。
「万が一、陛下の御身に何か有れば、わたくしもギルド長も最早、帝都には戻る事が出来ません」
済まなさそうにエメリヒは、クシャッとなった様子で、力無さそうに頭を下げる。
その様子を伺っていたのだろう、丁度タイミング良く、老執事が現れる。
「陛下、お部屋の準備が整いましてございます」
「解りました」
そう言って、老執事にいざなわれる様に、皇帝はエメリヒは専用のテントへと姿を消す。
「さあ、わたくしたちも参りましょう。手前のテントはもう全てが満室です。少し歩かないと、空きのテントは見つかりそうにありませんね」
ウォルフィントンがそう言うと、シャンタル・ドゥシエラと一緒に、空きテントを探し始める。
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