プロローグ 第二話 過日の残滓/ジュスタ・スクワール 三年前 時の残滓
フリドリフ民主王国ダンヴィル郡内でも、ベディル山の裾野を登れば登るほどに、住宅はより豪華に、そして一段と大規模な建物となっていく。
その中でもブラシュン地区には、フリドリフ民主王国の中でも選ばれた富豪の邸宅、と言うより寧ろ”城”と言っても過言では無い規模にして豪奢な創りの豪邸が何邸も立ち並ぶ、広大な一画がある。
その一画の中でも一際大きな白亜の大豪邸、バザバドル侯爵邸の何処かの一室。
灰色にドス黒く薄汚れた浅葱色のショートパンツに、継ぎ接ぎだらけの真っ黒にスス汚れた七分袖のシャツ一枚だけ着た十四歳の少女、ジュスタ・スクワールはその時・・・”踏み抜いた”。
煙突のように薄汚れた、通気口のような真っ暗な管から転げ落ちると、屋敷内に有ったはずの彼女の小さな身体は、屋敷外の一角、深く掘り下げられた穴の底に投げ捨てられる。
「うくぅ・・・」
予期しない咄嗟の出来事に、身を躱す事が出来ず、受け身を取る事も叶わず、背中から地面に落下したジュスタは、鈍い痛みに小さく呻き声を出す。
何処から出てきたのだろうか、ジュスタの身長のゆうに二倍はある大きな猛犬が七頭、鋭い牙を剥き出し涎を垂らしながら、唸り声を上げてジュスタの傍にゆっくりと躙り寄る。
本日の餌は・・・否、食後のデザートはジュスタ、一匹の少女である。
相当に訓練が行き届いているらしく、即座にジュスタを取り囲み、彼女の退路を断つと、ジワジワとその輪を縮めていく。
背中の痛みを堪えながら素早く起き上がると、ジュスタは周囲を見渡すが、穴の深さは相当に深く、穴は金網で蓋がしてある。
それでもジュスタは落ち着いて、腰にぶら下げた小さな頭陀袋から短い刃渡りの片刃剣を二本、取り出すと両手に構える。
犬の唸り声で気付いたのだろう、邸内から大勢の、大剣を構えた男達が出てきて、松明を翳して穴の底を覗き込む。
「狐が掛かったぞっ!」
「狐、かぁ?ありゃあ・・・いや鼠だろ? 随分と薄汚え鼠、あの子達に食わせて、腹壊さねえか?」
金網がはめ込まれた穴の上で男達が愉快そうに声を荒げる。
「ほんと、汚ねえ鼠だなあ、こりゃぁ、口直しに後で美味いもん、最上級のサーロインステーキ食わしてやらなきゃな!」
「ハイド!」
だが、ジュスタはそのような言葉には一切耳を貸さず、小さくそう呟くと、彼女の姿は空間に溶け込むように消える。
それでも、七頭の猛犬には臭いで判るのだろう、その目は確実にジュスタの位置を捉えている。
「掛かれぇ!食い殺せっ!」
男性の一人の号令に合わせるように、七頭の猛犬は一斉に、ジュスタの首根っこ目掛けて高く跳び上がる。
しかし、羽を持たぬ限り、跳び上がったモノの動きは綺麗な放物線を描いて一直線、その動きは至極単純である。
ましてや、姿の見えぬ相手に対して、臭いだけを頼りに跳び掛かってきた犬に、ジュスタが繰り出す小剣の鋭く素早く流れるような動きは、見える由も無い。
ジュスタは身体の位置を少しだけずらすと、空中に幾筋もの、小剣の刃の流線を描く。
深く斬り付けると、刃が毀れ、使い物にならなくなる。
よってほんの少し、細く傷が付く程度に斬り付ける。
しかも、刃には世界最凶、ザラザン蛇から採れる猛毒を、魔術を駆使して潤沢に仕込ませてある。
猛犬七頭、ほぼ同時に、その眉間に微かな切り傷が入る。
それらの傷は細く短くとても浅い。
しかし、猛犬七頭は殆ど同時に、悲痛な悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちるように、へたり込み、しばし全身を痙攣させたあと、もう二度と動く事は無い。
「おい! どうした?」
猛犬七頭の悲痛な悲鳴と、いきなり物音一つしなくなった様子に気付いた男性達が三人、穴の底を覗くと地面に崩れ落ちた猛犬七頭の痛々しい姿だけが真っ暗な穴の底に、松明の明かりにボンヤリと照らされる。
「しっかりしろ! アイセプター・セブン!」
慌てふためいた一人が、穴の上に頑丈に嵌め込んでいた、分厚い金網を大急ぎで取り外す。
「おい! 止めろ! 中に見えない鼠・・・賊が居る!」
気付いた一人が慌てて金網を元に戻そうとしたが、もう遅い。
金網を取り外した、激しく後悔した表情の男と、金網を元に戻そうとした、焦った表情の男、そして見えない賊を穴から出すまいと身を挺して穴の上に覆い被さった、勢い込んだ表情の大柄な男。
彼ら三人の首元にはうっすらと五センチ足らずの細く小さな切り傷が入り、僅かに流れ出る血が、しかし間を置かず、その傷がみるみるうちに拡がって傷口は真っ青となり、間もなく、彼ら三人の眼は既に白目が裏返り、口からは泡を吹き、もう二度と動かない。
「郡内全ての自警団に連絡を!報償は言い値で受けると伝えろ!賊を絶対に逃がすな!」
騒ぎにようやく出てきたこの邸宅の主、ヴィクトローヴァ・バザバドルの命令に、男達は一斉に四方に駆け出していく。
◇ ◇ ◇
フリドリフ民主王国ダンヴィル郡内でも、ベディル山の裾野を降っていくほどに、住宅はより粗末となってゆく。
中でも、王国による一切の施策から見捨てられたようなアムンデル地区は王国内でも屈指の貧民街であり、地区一帯には、住宅或いは家とはとても呼べないような、腐った穴だらけの廃材の材木板で辛うじて四方と屋根を覆ったモノ、まさか其の中に人が住めるとはとても思えないような棲家、廃屋が肩を寄せ合うように、所狭しと立ち並ぶ。
それでも数百世帯、三百程度の命の生活が其処には有り、其処彼処から子供達の明るい声が響き、大人達の威勢の良い声が彼方此方にはある。
ジュスタは其れ等の廃屋の一つ、ジュスタ一人がやっと入れるような狭苦しい棲み家から這い出ると、異臭漂う細い路地を歩き出す。
暫くしてジュスタはこの辺りでは珍しい、綺麗な身なりの木造平屋建ての建物に入っていく。
「コレ、幾らになるん?」
部屋の一番奥で、床に敷かれた粗末な布切れの上に寝転んでいた、四十歳前後の、厚底眼鏡を掛けた人相の悪い女性に声を掛ける。
「ぅあん?」
その女性は面倒くさそうに身を起こすとし、布切れの上に胡座を掻いて座り込む。
「なーんだ、あんたかい。まあいいや、見せな?」
そう言った女性の目の奥で、何か不気味なモノが光ったように、ジュスタは感じ取った。
この時、ジュスタは自身の勘を信じ、直ちにその場から立ち去れば良かった。
しかし、もう何日もまともな食事をしていないジュスタには、この宝石を換金するしか、生き残る道は残されていなかった。
「ほぉ・・・コレはコレは・・・間違いなく『鴻星龍の涙』だね?大した逸品だ」
そう言うと、女主人はジュスタの目を射貫く勢いで見つめる。
「幾ら?金・・・頂戴?」
ジュスタは手を差し出す。
「来たよ」
ところが、女主人は其れには目もくれず、奥の部屋の方向に目を遣る。
「うそっ!」
ジュスタは咄嗟に飛び退こうとしたが、時は既に遅すぎた。
ジュスタの両手に、術式手錠がガチャリと嵌められ、その術式手錠と術式鎖で繋がった、全身を光り輝くフルプレートアーマーに身を包んだ、二十名以上の大柄な王国騎士の集団に取り囲まれる。
「悪いね、お嬢ちゃん・・・お得意さんを失うのは残念だけどさぁ・・・こっちにも、大人の事情ってモンが有ってさぁね」
そう言うと女主人は王国騎士の集団の中でも一際、豪奢な意匠、模様が刻み込まれた騎士・・・騎士団長の元に擦り寄ると、その豊かな両方の胸を押し当てるようにしてから、『鴻星龍の涙』と呼ばれる宝石を、その騎士に丁重に手渡す。
「協力、感謝する。コレは謝礼だ、受け取れ」
そう言って王国騎士は、この辺りでは珍しい、先ずお目に掛かることは出来ないような真っ白な大きめの袋に入った何かを手渡す。
「へぇ・・・金貨五枚、こりゃどうも、三年寝て暮らせそうだよ」
そう言うと、女主人は大事そうにその袋を奥の戸棚に仕舞い込む。
「ここんとこ、トンとご無沙汰だね・・・あっちの店にも来ておくれよ、団長さん」
そう言いながら女主人は色目を使って騎士団長を見遣る。
「連れて行け!」
だが、それには返事する事無く、騎士団長が命令を発令すると、ジュスタと術式鎖で繋がっている十二名の騎士が綺麗な隊列を組んで、ジュスタをその路地に引き摺り出す。
「うぅ・・・」
ジュスタは力任せにもがいてはみたが、もうどうにもならない。
彼女自身の姿を消そうとして、術式を呟いてみたが、どうやら術式手錠には其れを無効化する機能があるらしい。
「諦めろ、王国随一の魔術師軍団の手による手錠だ、連行しろ!」
そう言って騎士団長は歩き出す。
其れに従って騎士団も綺麗な隊列を組んで歩き出す。
引きずられるようにして、ジュスタもまた歩き出す。
ジュスタは後ろを振り返る。
「またのお越しを」
女主人は悪怯れた様子をまるで見せず、僅かに笑みを浮かべ、あたかも知らない人との別れの時と同じように、ジュスタに向かって手を振る。
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