離れても好きな人

砂鳥はと子

第1話 カバン

 今日は地元から姉が出張で東京まで出て来るので、仕事終わりに待ち合せて夕飯を食べることになっていた。


 電車を乗り継ぎ、待ち合わせ駅まで向かう。改札を通って駅舎を出ると、壁にもたれて暇そうにスマホをいじる姉を見つけた。


「姉さん!」


 傍まで駆け寄ると気づいた姉が顔を上げた。私とよく似た瞳が笑みの形に変わる。


紗月さつき!」


「ごめん、待たせた?」


「全然。私もついさっき来たばかりだから」 


「そうなんだ。早速だけど、お店に行く?」


「久しぶりに東京まで来てくたくただから、早く何か食べたい〜」


 私は姉さんを連れて、駅からほど近い場所にある蕎麦屋に入った。姉さんが蕎麦を食べたいと言うので、以前会社の先輩と来たことがあるお店を選んだ。来たことがあるお店の方が心配がないし、何よりそこのお店は味がよかった。


 姉さんとお店に入り、奥の席に案内される。店内は半分以上席が埋まっていて、なかなか盛況のようだ。しかしうるさくするような客がいないので、琴の音のBGMが静かに流れている。


 私はかき揚げ蕎麦、姉は天ぷら蕎麦を頼み、出されたお冷で一息つく。


「ところで紗月、まだそのカバン使ってるの?」


 姉さんはおしぼりで手を拭きながら、私の飴色の通勤カバンを指す。年季の入った、少しくたびれたカバンを。


「なかなか新しいものに変えられなくて」


「まだ、あの先輩に未練があるんだ」


「これ使ってるってことで察してよ」


「本当、紗月は昔から諦めが悪いんだから」


 呆れたように笑う姉に私も苦笑を返すしかない。




 このカバンは私がまだ社会人になったばかりの頃に職場の先輩だった、佳那子かなこさんにもらったものだった。


 佳那子さんが引っ越すので、色々と物を処分することになり、捨てるのはもったいないからと貰い手を探していた。その一つがこのカバンで、ほとんど使ってなかったらしいそれは、キズやよれもなく、ほぼ新品だった。


 私は通勤カバンは買ったばかりのものがあったけれど、佳那子さんのものが欲しくて、お願いしていただいたものだ。


 私の片想いの相手、佳那子さんの物が手に入って、当時の私はかなり浮かれていた。今思い出すと、少し気恥ずかしい。


 新社会人だった私に、手取り足取り仕事を教えてくれた佳那子さん。彼女がいるだけで周りの雰囲気がいつも和やかで温かだった。 


 話下手な私に呆れるでもなく、見捨てるでもなく、気にかけてくれた佳那子さん。


 好きになるのに時間はかからなかった。


 心根も素敵な佳那子さんはもちろん見た目も素敵で、黒天鵞絨を思わせる艷やかな髪と愛嬌のある猫目を今でもありありと脳裏に浮かべることができる。


 そんな佳那子さんと私の思いが通じ合うことはなく、それどころか、私が入社三年目に退職してしまった。


 いつまでも同じ場所で働けると思い込んでいただけに、佳那子さんがいなくなった時はショックで、仕事はミスばかり。


 同僚たちも何かあったのではないかと心配してくれた。


 二年かけて何とか立ち直って、気づけばあれから四年も経過している。


 このカバンももう七年は使っているのだから、それなりに見栄えもくたびれてきた。



「紗月もそろそろ忘れて新しい彼女作ったらいいのに」


「あの人がいなくなって、吹っ切るために何人か付き合ったけど、長続きしなかったのは姉さんも知ってるでしょ?」


「それはそうだけど、死ぬまで先輩に片想いし続けるつもり?」


「さすがにそこまでは考えてないよ。私だって人並みに幸せになりたいし。でもあの人は急にいなくなったから、忘れようにも忘れられなくて⋯⋯」 


 私たちの間に沈黙が横たわる。


 姉さんも私が佳那子さんに未練たらたらなのを分かっているから、それ以上何も言いようがないのだろう。


「お待たせいたしました」


 若い女性店員が蕎麦を運んで来た。ふわふわと湯気が上がり、美味しそうな出汁の香りが鼻を通り抜ける。


「食べようか」


 という姉さんの言葉に頷き、私たちは黙々と蕎麦をすする。目の前の姉さんは上手に音を立ててすするのだが、実に美味しそうだ。私はすするのが苦手なので、残念ながらあの蕎麦をすする時の音は出ない。


「はぁ〜お腹いっぱい」


 器が空になり、姉さんが満足そうにしているので、ここのお店を選んで正解だった。これもまた、ここを教えてくれた佳那子さんのおかげと言える。


「ところで紗月、そのカバンをくれた人の名前何だっけ? えーと、カナエさんだっけ、ナナコさんだっけ?」


「違うよ。佳那子さんだよ」


「ああ、カナコさんね。名字は何だっけ?」


清水しみず。清水佳那子」


「⋯⋯⋯言われてみればそんな名前だった気がするね。今はどうしてるの、カナコさん。連絡は取れなくなったんだよね、確か」


「そう。電話番号もメアドも変えたみたいで、新しい連絡先は知らない」


 佳那子さんが退社してからしばらくして、私は勇気を出して電話をしてみた。けれど何回かけても佳那子さんが出ることはなかった。もしかして私と話したくなくてわざと出ないのかと思ったけれど、佳那子さんがそんなことをする理由も見当たらない。


何より優しい佳那子さんがそんなことをするはずがない。メールはアドレスが変わっていて送ることはできなかった。


 その時に私は、きっと佳那子さんとの縁がなくなったのだと思った。


「それじゃカナコさんがどこでどうしてるかは知らないわけね⋯⋯。同じ会社の人で連絡先知ってる人はいなかったの?」


「残念だけど、佳那子さんって気さくな雰囲気だけど、社内の人とはそんなに親密に付き合ってなかったみたいで」


「へぇ。プライベートと仕事は分けるタイプの人だったんだね」


「そうみたい」


 何となくしんみりした空気になってしまい、私たちは会計を済まして店を出た。


 駅に向かう道の途中で小さな雑貨屋さんが目に入り、姉さんが寄って行こうというので入ってみた。しょんぼりしてしまった私を元気づけるためなのか、姉さんが可愛い白熊のイラスト入りの缶ケースとアロマキャンドルを買ってくれた。


 雑貨店を出た後、姉さんは仕事のことでも考えているのか、始終黙考していた。慣れない出張で考えることも多いだろうと、私は黙って隣りを歩く。

 駅舎に入る。帰る場所は別々。私は自分のアパートに。姉さんはホテルに。


 ホームに向かう階段前で別れを告げる。


「久々に紗月と会えて少しだけど話せたし、やっぱり顔を合わせるのはいいものね」


「うん。私も姉さんに久しぶりに会えて話せて何か安心した。向こうに帰るのは明日だっけ? どうせなら家に泊まっていけばよかったのに」


「一応、仕事で来てるから相方をほっぽっておくわけにも行かなくてね。次は普通に遊びに来るからさ。ところで紗月、名刺持ってる?」 


「名刺? 私のやつ?」


「そう、紗月の名刺。持ってたら一枚くれない?」

 何で名刺を、と思いつつ私は名刺を取り出して一枚渡した。


「へー、おしゃれなデザインじゃん」


「そうでしょ。佳那子さんが教えてくれた印刷所で作ってもらったの」


「カナコさん、様々だね」


「カバンも蕎麦屋も名刺もね」


 離れていても、まだ佳那子さんの気配は少しだけ残っている。それが嬉しくもあるし、切なくもあるけれど。


「私も名刺作り直そうかな。これいい参考になりそうだからもらっていくね」


 私たちはいつかの再会を約束し、それぞれ向かうべき階段に別れた。




 

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