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暮れと生活

 地平線に太陽が沈んで行って、肌寒い風が吹いて、もう秋なのだと思った。

10月はフランスでのサマータイム最後の月だ。遮るものがない田舎町は少し強い風がびゅうっと吹き抜けることがあって、これを感じると冬すらもすぐそこにいるような気がしてくる。少し前にしまい込んだ夏服がもう、懐かしかった。


「さむくなってきましたね」

 思ったままを口にすれば、隣を歩く暦さんは「そうだね」と一言呟いた。低い音の響きは風のさざめきに攫われてしまいそうで、それでも俺にとっては一番聞き取りやすい音だった。

 夕食の買い出しを終えて家路についている。

一番近くの町では小さなマーケットが通り沿いにやっていて、そこに軒を連ねる店主たちともそろそろ顔見知りになった頃だ。みんな穏やかで良い人たちで、今日はトマトをおまけしてもらった。日本では見ない不格好なトマト。でもみずみずしくておいしいことはじゅうぶん分かっている。

 がさりと暦さんが紙袋を抱え直す。買い物の時の荷物持ちは暦さんの仕事。俺も持ちますよっていうけど、「何を買うかとか、料理するとか。そういうのは君に任せているから、これは私の仕事」とは暦さんの談だ。

「これからもっと寒くなるのかな」

「そうなんでしょうね。ここら辺は風が強いらしいですから、体感的にも寒いんじゃないかと」

「冬ごもりの準備をしなくちゃだね」

 ふふ、とささやかに笑う。視線をあげれば、少し先に家が見えた。

俺たちの家は町から幾ばくか離れていて、緩やかな丘の上にぽつんと存在している。犬と猫が待っているからと言って電気をつけっぱなしにして出てきたから、優しい橙の明かりが窓からぼんやりと見えた。

家の裏手には一本大きな木が植わっていて、俺たちはまだその木の名前を知らない。庭先を彩っていた花たちはもう元気をなくしていて、これから雪解けの季節を待つことになる。

 黄色や白の野花が芝に埋もれつつも小さく周囲を彩っていて、それが夕日の光を受けて小さく輝いている。名前の無い草花たちは強かに生きているらしかった。

「…、」

 暦さんの右手がするりと俺の左手に絡む。穏やかな熱がじんわりと染み込んでくる。彼の大きな指先は遊ぶように指輪に触れて、それから掌全体でぐるりと手を包み込む。指同士を絡めて、熱を分けてもらう。

「暦さんの手、あったかい」

 思わず呟いて彼を見上げたら、暦さんは穏やかに微笑んだ。あ、と思う。琥珀色。それこそ夕暮れの太陽みたいに、熟れた金色の輝き。暖かさを孕む視線。

「君がくれたんだよ」

 囁き落とされた音はいじらしいくらいに静かで満ち足りていた。一瞬、歩みが止まる。彼に見つめられると周囲が透明になっていって、いつでも澄んだ気持ちでいられた。好きという気持ちは、他の何事もを些細なことにして、洗い流してくれる。俺は彼に見つめられると好きで満たされる。たったそれだけが魔法のような出来事だった。

「君が私を生かしてる」

 ぎゅう、と握り込まれた指先の熱が嬉しかった。暦さんの瞳は人間の瞳。今までをずっとずっと、踏みしめて、全ての理不尽を耐えて、時に折れて、それでも結局は生きてきた人の目。俺はそれがずるいとも羨ましいとも思う。もしかしたらもっと最初は、妬ましかったのかもしれない。人は当たり前の顔をして生きるけれど、その一瞬一瞬が全て尊いとは思っていない様子だったから。

死にたいと呟いて生きる人たちは、生きたことがあるからそういう風に思えるんだ。俺はその死にたいと願う姿すら輝かしく見えた。

 でもその、この気持ちも、一番最初に知った人間が貴方だったからそう思えるのかもしれない。こんな風にかしゃりと音を立てて壊れてしまいそうな笑い方をしているのが俺の一番だいじなひとだった。

 手を握り返す。彼の影が俺に落ちている。少しの背伸びは距離をゼロにするためのものだ。

「…これからもちゃんと生かしますよ。毎日、まいにち。朝も、昼も、晩も。ときどき、よなかにも」

 最後の言葉は少し笑みを孕んだ。彼を上目に見上げたら、満足そうな笑顔がある。彼は俺より背が高いのに、わざと掬い上げるようにしてもう一度唇が触れ合った。

「ひとまずは今日の晩だね」

「煮込みハンバーグです。あとトマトをもらったので、ミネストローネ」

 これだけでぱっと彼の表情が華やぐんだから、食事も立派な魔法だろう。

また歩み出す。「食後のデザートはどうしよう」と言ったら、暦さんは「賭けようか」と言った。

「家に帰って、一番に出迎えるのがどの子か当てた人の提案を採用しよう。私は犬にアイス」

「え、じゃあ俺は…お転婆なあの子にカタラーナ」

 暦さんは俺のチョイスに「手間じゃない?」と首を傾げる。「料理と一緒に作り始めちゃえば、たぶん食後にできるんじゃないかと」と答えて頷けば、彼は納得したようにしていた。

「ああ、でも、あの子が出てきたらどうする?」

「その時は…両方食べましょう」

 暦さんは笑った。肩がとんと触れ合って、「どうなってもたのしみだね」なんて笑って、寄り添った熱が心臓の奥の奥まで染み込んでくるみたいだった。


 結局、賭けはどっちも当たらなかった。

二人で顔を見合わせて笑って、夕食の時間が来ようとしている。

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