Eternity Of Moment -ReWrite-

蒼桐大紀

その一「少し不穏な低軌道観測会」

 風がすっかり秋に変わった頃。

 東京の片隅、北谷端きたやばた商店街の一角、深山みやま模型店。


 秋の日は釣瓶つるべ落としと言うように、十月も半ばになれば太陽が傾くと間を置かずして宵闇が訪れる。北谷端通り商店街の数少ない〝開いているお店〟深山模型店の周囲でも、街灯が道を照らしはじめていた。


 午後六時二十九分。


 空にはほんの少し細った真円の月が浮かび、うっすらと雲がたなびいている。そんな空の下。地上三階建ての鉄筋コンクリートの屋上に、小さな光が灯っていた。


「きすかさん、こっちは無理みたい」


 高崎舞羽まいはは、声の高さに気をつけながら呼び掛けた。場所が屋上ということもあるが、自分の声は良く通るので響いてしまうのだ。


 しかし、返事がない。


 舞羽は短いが径の太い天体望遠鏡から顔を上げ、周囲を見回した。

 紅いリボンでまとめたポニーテールが、動きをに合わせてひらりと影を描き、幼さの残るすっきりとした面差しが足元のライトに照らし出される。

 年の頃は二十代半ば——なのだが、五歳はサバが読めそうな見かけである。もっとも、舞羽本人は年相応に見られないことを気にしていた。


「舞羽ちゃん、こっちこっち」

「こっちって? うわっ、なんてとこにいるんですか」


 声を掛けた相手、千住せんじゅきすかは舞羽の足元にいた。


「ん、三脚が傾いていたから修正してたの」

「ちょっ、そんなとこくぐらないでー」


 きすかは立ち上がると、片手に持っていたiPadを胸元に引き寄せつつ、


「舞羽ちゃん。ここ、結構反響するからボリューム落として」


 そう言ってまなじりを下げた。三白眼気味ではあるものの瞳が大きいためか、不機嫌と言うより眠たげな顔になる。


「んもう、今日はスカートじゃないからいいですけど」

「というより、仕事着じゃないそれ」

「仕事上がりなんだからしょうがないじゃないですか。そう言うきすかさんだって、仕事着みたいな格好ですよ」


 ストレートの長い髪を無造作に束ね、無地の長袖にオーバーオールという格好は、小柄なきすかの童顔を強調している。ただ、きすかはそういったことにまったく頓着しておらず、いまも泰然とした態度を崩さなかった。

 そのためか、二十歳くらいに見られることもあるし、二十代後半かそれ以上年長に見られることもあった。年齢不詳を地で行っているタイプとでも言えるだろうか。


「いま調べてみたんだけど、時間的にもう通り過ぎちゃったみたいなのだわ。やっぱり、今日東京から見るのは難しかったかも」

「んー、見えるとしたら肉眼でも見えるはずですからね」


 舞羽は濃い緑のエプロンの裾を払って、空を見上げた。


 高度約四〇〇キロメートル上空、軌道速度秒速七.七キロメートル、軌道傾斜角五一.六度、約九十分で地球を一周し、一日で十六周する国際宇宙ステーションI S Sは、タイミングが合えば比較的容易に日本各地から肉眼で見ることができる。


「でも、明日ならばっちり見えるみたいだから」

「出直しますか」

「うい。じゃあ、今夜は撤収ということで」




 東京都心に接する立地ながら、北谷端通り商店街周辺の夜は意外と暗い。夜遅くまで営業する店がなく、商店の数が少ないからである。


 商店街という名も過去の名残でしかなく、商店街と言うより住宅街の様相を呈しいた。あたりを照らす街灯よりも、遠く南西にそびえ立つ高層ビル群と北側にまたがる架線と高架道路の光の方がまぶしく感じられる。


 深山模型店がある通りは背の高い街路樹が生い茂っているため、上空に漏れる街灯の光がさえぎられる。地上三階の高さにある店の屋上は、ここは天体観測にはうってつけの場所だった。


 転落防止用の柵に囲まれた屋上は、通りに向かって右側に太陽光発電用のソーラーパネルが占有しており、左側に踊り場を囲った建屋があった。建屋の近くには物干し台が寄せてあり、屋上のほぼ中央に舞羽ときすかはいた。


「でも、ちょっと意外だったかも」


 舞羽が望遠鏡をケースに収めながら、小首をかしげた。


「きすかさんって宇宙開発にそんなに興味ありましたっけ?」

「特には。でも、シュミカセを持ってるくらいには星は好きよ」


 三脚を折り畳みつつ、きすかは答える。


 シュミカセとは、反射式と屈折式を組み合わせたシュミットカセグレン式望遠鏡の略称である。天体望遠鏡の中では比較的手ごろな価格で手に入る機種が多いことから、愛好家から学校の天文部など幅広い層に使われている天体望遠鏡だった。


「舞羽ちゃんがエンデバーを作っていたこともあるし、今回は変わったものも見られるかなあという算段もあったり」

「それ、ここで見えたら恐いんですけど」


 舞羽は自分の方に向けられたiPadを片手で押さえ、きすかにやや厳しい目を向けた。


 iPadにはインターネットの時事ニュースが表示されている。見出しには『ロシアのコスモス衛星、地球落下か?』とあった。円筒の胴体に六枚一セットの太陽電池パネルが四つ連結された人工衛星の写真が『早期警戒型のコスモス衛星(参考写真)』というキャプションとともに掲載されている。


 記事によれば、『コスモス衛星は一九八〇年代末期に打ち上げられた人工衛星である』と報じていて、続けて『ロシア当局は、運用を停止している衛星の一つであり、原子炉搭載型のものではない。現在再突入軌道に進入しつつあるが、衛星は落下中に完全に燃え尽き地上への破片による被害はない』とあった。


「これ、どこまで信じていいと思う?」

「原子炉を搭載していないって部分くらい?」

「あ、そこは信じているんだ」

「さすがにそこは隠さないと思うんですよね。ただ、記録はバイコヌールにあったとしても、ちょっとあやしいかな、とも……。時期も八十年代末期ですし」

「九一年に崩壊しちゃったからね、ソ連」


 ロシアの技術について調べていくと、当たり前だがソビエト連邦時代の記録につながる。くだんのコスモス衛星にしても、打ち上げミッションの名前をそのまま引き継いでおり、軍事用から研究用など多岐に渡っていた。

 バイコヌールとは、カザフスタン共和国にあるロシアのバイコヌール宇宙基地のことである。ISSと地上との間を宇宙飛行士が行き来するソユーズ宇宙船を含め、ソ連時代からロシアの有人宇宙船(人工衛星)はすべてここから打ち上げられていた。


「まあ、それはそれとして、まさかソユーズが現役続けてスペースシャトルがなくなるなんて想像もしてなかったのだわ」


 きすかの言葉に、舞羽は同意した。


「キットを作っているときに調べてみたんですが、実際に宇宙船として運用されていた期間はたった二十年で、ソユーズは改良を重ねているとはいっても初飛行から五十年近くになるんですよ。二重にびっくりでした」


 舞羽は深山模型店の住み込み店員であると同時に、個人で模型製作を請け負う模型製作者でもあった。

 模型製作に際して、モデルになった本物の資料を当たることはごく自然な行為なのだが、関連知識を抑えているあたりに、彼女の旺盛な好奇心がうかがえる。


「ところで、エンデバーを作ったのは指定だったの?」

「はい。日本人に一番馴染みのあるオービタだからということでした。私はひとによると思うんですけど、どれか一機選べと言われると……うーん、やっぱりエンデバーかな」


 オービタは、スペースシャトルを構成する飛行機の形をした部分のことであり、エンデバーは現存する三機のオービタうちの一機である。現在は三機とも博物館にあり、二度と飛ぶことはない。


 運用側にさまざまな問題があったとはいえ、スペースシャトルとは短命に終わった宇宙船なのだった。

 結果的に、〝枯れた〟技術とされているソユーズが継続して運用されているのは、皮肉としか言いようがない。しかし——


「スペースX、どう思う?」

「期待はしたいですけど、まだなんとも言えないですね」


 きすかが口にしたスペースXとは、アメリカのベンチャー企業の名前だった。二〇一六年十月現在、民間企業ながら人工衛星打ち上げの実績を持ち、ISSへの物資搬入も成功させている。すでに有人型のドラゴン宇宙船運用についての契約をアメリカ航空宇宙局N A S Aと交わしており、スペースシャトルに代わる役割を期待されていた。


「あ、明日は私一人だから、先に上がって用意していてください」

「舞羽ちゃん、それ見逃すフラグじゃ……」

「んー、でも明日は五時に閉めることになっていますし」


 深山模型店は、明日から店主の深山源三朗げんざぶろうが留守にするため閉店時間を繰り上げていた。そうした融通が利くのは個人経営の利点で、細かい気を使わなくて良いのは、舞羽の母方の実家だからだ。


「予想情報だと明日は午後五時半過ぎだから、大丈夫ですよ」


 舞羽はぴっと親指を立てて見せる。

 そういう仕草が幼い印象を助長しているのだが、本人は無自覚だった。きすかは可愛いと思っているので、いつも黙って見ている。ときどき、それをネタにからかうこともあるのだが、それもその反応が楽しいからだった。


「そんじゃ、灯り消すわよ」

「はい、こっちもオッケーです。引き上げましょう」


 そんなきすかの心中を知る由もない舞羽は、華奢きゃしゃな見かけによらず天体望遠鏡のケースを軽々と抱え上げた。



     ◇  ◆  ◇



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