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     この度は自主企画に御参加下さり、誠にありがとうございました。
     武蔵国造に関する騒動は古代通史で少し聞き覚えがあった程度なので、手元の資料で確認する良い機会になりました。

     自分の調べた限りだと以下の様な感じでした。

    原文(国史大系より)
    『日本書紀』巻十八安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月是月
    「武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造。〈使主。皆名小杵。也。〉經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求授於上毛野君小熊、而謀殺使主。使主覺之走出。詣京言状朝庭。臨斷以使主爲國造。而誅小杵國造使主悚憙交懷。不能默已。謹爲國家奉置横渟。橘花多氷。倉樔。四處屯倉。」

    以下、『日本書紀』㈢ 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 223ページより
    ・横渟=和名類聚抄の武蔵国横見郡(埼玉県比企郡吉見村・東村山市)
    ・橘花=和名類聚抄の武蔵国橘樹郷(神奈川県川崎市住吉、横浜市日吉付近か)
    ・多氷=集解に武蔵国久良郡大井郷とするが疑わしい。日本書紀通証・日本書紀通釈は氷は末の誤記で多摩郡であろうとす。
    ・倉樔=日本書紀通証・日本書紀通釈は樔は樹の誤で、和名類聚抄の武蔵国久良〈久良岐〉郡、(今、横浜)かとする。


     武蔵国造の地位を巡る争いで、笠原小杵が上毛野君小熊を頼って、笠原直使主を殺そうとして、難を逃れた使主が都でその事を告げて、小杵を殺した。その事に感謝して小杵が国の為に四か所に屯倉(皇族の直轄領)を置いたという筋ですね。

     武蔵国は稲荷山古墳出土鉄剣銘文に「ワカタケ(ル?)」という人名が刻まれている事と、同名が記載されていると解されている江田船山古墳出土鉄刀銘文と併せて雄略天皇の時代には既に北九州から関東まで大和王権の支配は広がっていたと言われていますね。

     また、『宋書』倭国伝の「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」は『隋書』倭国伝の「軍尼一百二十人」とほぼ等しく、「軍尼」は「国造」の事であると言う説もあるので、雄略朝の頃には推古朝とほぼ同じ支配領域があったとも解釈出来なくはありません。(上田正昭先生は隋書の「軍尼」は空想豊かな作文と言った事を仰られてましたが)

     ただ、大野晋氏が唱えるように稲荷山古墳出土鉄剣銘文を武蔵国造の反乱にかけて、辛亥年を通説の471年ではなく531年とすると、笠原氏に数年間国造の後継者争いなどが続いていたとすれば、実際に巨大豪族と大和王権の間でイニシアティブ争いがあったかも知れませんね。

     私事ですが、出雲振根と入根の争いについて調べていたりしたので、構造が似ているなと思いました。

    作者からの返信

    自主企画に参加させていただきました。コメントありがとうございます。

    麗玲さまご指摘のその部分の「その乱の後に屯倉を作った」という記述を、その乱の前には皇族の直轄地がなかった、と解釈してみたのです。

    すなわち「それまでなかったから作った」→それまでは大和政権による統治が不十分だった、という解釈の流れです。

    また稲荷山古墳群を作った豪族・使主と多摩川台古墳群を作った小杵の一族は別の系統で、小熊も小杵と組んで使主を攻めたことから、この辺り、関東平野には一筋縄ではいかない「群雄割拠」の面が当時あったのではないかと考えております。

    大和政権はピンポイントで土地の豪族を従えてはいても、土地の豪族すべてを掌握して文化を吸収同化させるためには、もう少し時間がかかったのかな、と。

    日本書紀は大和政権側からの記述なので、おそらく、その土地の細かいことはすっ飛ばし、定型的な文章でいかにも各地の制圧がスムーズに行われたように書かれているのではないかと存じます。なんというか、フェアな「歴史書」ではない、というか。

    私はそんな典型的な文章の中に閉じ込められてしまった制圧された側の人々の文化や歴史に興味をもっており、また多摩川台遺跡にも興味があって、こちらを小説(?)の題材としてみた、という経緯があります。猫なのですが。

    詳細に内容を検討していただき大変勉強になりました。
    読んでいただいて、ありがとうございました!

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