第3話 本名
両親が持っている本には美しい月の写真がたくさん載っていること、いつかその月を見てみたいと思っていること、地上の世界に興味があること。――夜な夜なルシオンの元に通っては、そんなことを話した。ルシオンは僕を追い返すこともせず、黙って話を聞いていた。腰には銃を挿している。手錠もぶら下げている。モスグリーンの隊服を着て、頭には同じ色の帽子を被っている。鋭い目は鍔に隠れて半分しか見えない。見た目は恐いけれど、僕はルシオンに近付くことが平気だった。
半分、身元調査の意味もあったんだろう。ルシオンは僕の家族構成や、夜に出歩く理由を訊いた。
「保護者不在の子供が夜遊びをすることはそんなに珍しいことじゃない」
事情を知ると、ルシオンは吐き捨てるようにそう言った。
「どうせ親は知らないんだろう。お前がこんなことをしていること」
僕はどきりとした。
親に連絡するんですかと訊ねると、ルシオンは涼しい顔をして、する必要がないからしない、と答えた。彼の腰で、銃がかちゃりと音を立てた。意味ありげな警告音のように聞こえて、胸がひやりとした。
プセマローゼの人たちは、幼少の頃には幼名を持ち、学生の頃には学生名を持ち、仕事を始めたら仕事名持つ。自分の本名は成人を迎える時に初めて知るが、他者には明かさない。大人たちからもそういうふうに戒めを受けるので、本名の話は半ばタブーになっている。
ルシオンという名前は本名ではないし、エトラという名前も本名ではない。顔には仮面を被りながら、会話で胸中を探る。
僕はルシオンに訊ねた。成人して初めて本名を知った時、どう思ったかと。
「別に何とも思わない。そんなものかと思っただけだ」
ルシオンはそう答えた。
この人の本名を知ったら心身の垣根も溶けてなくなりそうな気がしたけれど、それが僕の望みなのかと訊かれると決してそうではないし、ルシオンも毅然と拒絶するだろう。僕は他者と一つになりたいわけではない。
ある夜、僕は父さんの天体写真の本を抱えてルシオンの元へ向かった。
ページいっぱい、金色の光を放つ巨大な月の写真を彼に見せた。
ルシオンの細い翠眼が、濃くなったり薄くなったりして、水の面のような流動的な輝きを抱いていた。天体写真に興味があるのかないのかは分からないけれど、僕の見せた写真を、ルシオンはじっと眺めた。
地下街の天井には、月なんてない。
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