悪役令嬢は名を名乗る。
「お母さーん、お姉ちゃんがまた変になってる。」
ドアの向こうで、「またぁ?」と声が聞こえる。そして、先ほどと同じように取っ手が斜めに下がり扉が開くと、そこから少し茶色がかった、それでも明らかに魔力保持者である見た目をした壮年の女性が現れた。
「また変な本、読んだんでしょ。あなた、すぐ感化されるんだから、やめなさいって言ったのに。」
手をエプロンで拭きながら、出て来た彼女はこの家のメイドだろうか? しかし、そのエプロンは妙にシンプルで、呆れたような表情をしたその顔は、少年ととても似ている気がした。
闇色を持つ女性と少年。それでも、女性と子供ということに少し勇気をもらったエリザベスは、ふとあることを思いつく。
(この二人は、強い魔力を誇る魔術師にも関わらず、何も知らないというの?もしかしたら、誘拐犯に自分を匿っておくように言われただけの、何も知らない者たちなのかもしれない。)
壮年の女性は、何も気にしていないかのように、エリザベスたちが下りて来た階段とは反対側にある囲まれた場所へと移動していく。水の音がする。どうやら何かを洗っているようだった。井戸でもあるのかしらと、エリザベスは少し覗き込むようにしてみるが、その手元は全く見えないし、井戸から水を汲んだような音は全く聞こえなかった。
(水の、魔法…かしら。)
二人の反応からして、危害を加える様な雰囲気は全くない。そう判断したエリザベスは、説得を試みることにした。
「あなた達、先ほどから何を言っているのかよくわからないのだけれど、でももし
そう言われた少年は、「はぁ?」という言葉と共に面倒くさそうな顔をして、エリザベスを一瞥しただけだった。少年が、大きな溜息をつく。
これでは埒が明かないとばかりに、エリザベスはキュッと背筋を伸ばす。貴族としての尊厳を思い出し、それを誇示するようにして言った。
「私は、エリザベス・ヴァリエール。ヴァリエール公爵家の第一公女です。」
そう言い切ったところで、少年が「ああ、あれね。」と妙に納得したように呟いて、困ったように笑った。明らかにヴァリエールの名を知っている様子に、少しホッとしたエリザベスだったが、少年はそんなエリザベスには気が付かずに言葉を続けた。
「あれ、面白かったでしょ? でもさぁ、エリザベスはさぁ、可哀想だったよね。絶対、ただのツンデレなのに。」
(つん、でれ?)
エリザベスは、またしても聞き慣れない言葉を耳にして首を傾げる。乱暴な言葉遣いに、思わず渋い顔をしてしまいそうになるが、貴族らしく感情の読めない笑顔を顔に張り付けた。公爵家の人間だと名乗ったというのに変わらないその態度に苛立つものはあったが、貴族としての作法を知らないのならば、仕方の無いことなのかもしれない。———と、エリザベスは心の中で小さく溜息をついた。
特に、強い力を持つ魔術師は、国から隔離され、貴族社会とは別の世界に生きていると言っても過言ではない。自分の名前を不敬にも呼び捨てされた事もわかってはいたが、だからと言ってそれを注意する必要も無い世界に生きる人たちなのだろうと自らを納得させた。
「あれの外伝もあるけど、読む?」
先ほどとは打って変わって、嬉しそうに話す少年。妙に人懐っこいそれに、幼少の頃の妹マーガレットを思い出す。幼い頃はいつだって一緒に遊んでいたのに、いつの間にこれほどまでに拗れてしまったのか。
「ある意味、外伝のほうが本命なんじゃね?って感じだし。」
彼の頭の中で、話が勝手に進んでいっているのはわかっていたが、言っている内容がさっぱり頭に入ってこない。それは、貴族の言葉とはかけ離れたものだからか、魔術師ならではの言葉回しだからなのかはエリザベスにはわからなかった。
公爵令嬢であるが故、隔離された魔術師にお目にかかることなど一度も無かった。人づてに聞いた話ばかりで判断してしまっては、きっと良くないとエリザベスは小さく頷き、魔術師の世界では自分もただの一人の人間であるのだと考えることにした。
それならば、知らないことは知らないと、素直に認めてしまえば良い。弱点を見せないがために虚勢を張り続けなければならない貴族社会とは、きっと無縁の場所だろうから。
「申し訳ないのですが、先ほどからあなた様の言っていることの意味が、私には全然わからないのです。あなた様方は、私を監禁するためにここにいらっしゃるのではないのですか?」
少年は少し驚いたような顔をしてから、再び怪訝そうな顔をした。嬉しそうだった表情が消えてしまって、エリザベスは少し悲しい気持ちになる。素直になってしまえば、今の状況がひどく不安なものであることに気が付き、自分を抱きしめるように自らの腕を抱えるようにした。
「お姉ちゃん、いい加減にしないと怒るよ。」
少年がぎろりと睨みつける。思わずビクリとするエリザベス。そうだ、少年は強大な力を持つ魔術師なのだから、自分の命など一捻りだろうとエリザベスはぎゅっと自らの腕を掴む手に力を入れた。
「ご、ごめんなさい。でも、本当に、本当にわからないのです。嘘はついておりません。女神であるアウローラ神に誓って。」
涙が出そうになって、少年から目を逸らした。貴族としての矜持を取り払ってしまえば、こんなに自分は臆病だったのだろうかと、エリザベスは自分の足元に目を落とす。そこで、貴族女性とは思えぬ格好が目に入り、思わず唖然とする。
「ひ、ひゃぁ!」
思わず出た悲鳴と共に、エリザベスはその場にしゃがみこんだ。見えたのは自分の素足。少年とはいえ、男性に素足を見せるなどありえないことだ。なぜ気が付かなかったのか。どうやら焦っていないつもりでも、随分と混乱していたらしい。しかも、どうしてこんな格好をさせられているのか、誰かが着替えさせたのか。エリザベスの頭はますます混乱するばかりだ。
「も、申し訳ございません。偉大なる魔術師様に、こんな、は、はしたない恰好をお見せいたしまして。」
そう言ってうずくまり、足元を隠すようにすれば、少年の足が近づいてくるのが見えた。
万事休す。
エリザベスが覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じた時だった。
「ねえ、あなたの妹の名前は?」
そんな質問が頭の上から降ってきて、おそるおそる顔を上げる。きっと涙目でひどい顔をしているに違いない。それでも、ここで答えなければこの命もここまでかもしれないと、ぎゅっと一度唇を引き結び、それから口を開いた。
「ま、マーガレット・ヴァリエールです。」
「じゃあさ、あなたの国の偉大なる魔術師の名前は?」
少年から続けざまに投げられた質問に、エリザベスは目を瞬く。知っている魔術師と言えば、一人しかいない。
「ザクセン卿…のことですか? 先日、その能力の高さからザクセン辺境伯家の養子に迎えられて、我が国の筆頭魔術師に就任されたという、ラウル・ザクセン様?」
そう答えると、少年は「あちゃぁ。」と言って、右手で蟀谷のあたりを押した。そして、振り返り壮年女性の方を見ると、こちらのやりとりを見ていたらしい彼女に向かって、言った。
「お母さん、これ、本物だわ。」
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