咲かせたはずの彼岸花




「昨日、人を殺しました」



 パッと赤い花が舞って、ただそうにしか見えなくて、何が何だかわからなくて。

 女はそう話す。

 一人の男を前にして目じりを下げ口角を上げ首をこてんと傾けたその姿は女でなく少女のようで、しかしその長く緩やかにカーブを描く茶髪と薄いピンクに染まる唇が彼女を女だと語っていた。

 かわいいでは物足りず美しいだけでは納めきれないその朧気な不安感はきっと彼女だけのもので、ほかの誰にもまとえない雰囲気は目の前の男をまっすぐに見つめ続ける。


 真夜中のティータイムを見守るものは半端に欠けた月とまばらに飛ぶ鳥だけ。

 月も雲に目隠しをされるし、鳥は見向きもせずに飛んでいく。

 邪魔をするものが何もない真夜中に向かい合うのはこれで何度目になるだろうかというそれは思考せずに捨てた。


 男は慌てることも狼狽えることも問い詰めることもせず、ただいつもの様子でティーカップに手を伸ばす。

 ゆっくりとカップの淵に口をつけて恐る恐るそれを傾ける。彼にとって怯えるべきものは女の言葉でなく熱い入れたての紅茶だというように。一度澄んだ茶色が唇に触れて、小さく開かれた隙間から流れていった。

 こくり、と一口分だけの紅茶を味わって、男はカップを置きながら「ふふ」と小さな声で笑った。



「嘘、ですね」



 細められた目から見える瞳は暖炉の火のように暖かく優しい。

 ころん、と小さな石を転がすような声はその言葉だけを転がして微笑みに携えられた口元に閉じ込められている。自分から言いたいことはそれだけだと誰が言わなくともわかるくらいに優しげな言葉と雰囲気は女を包んだ。



「──はい、嘘です」



 女は口元に手を当てて小さく笑った。

 困ったように。けれど困惑も何もそこにはなくただ嬉しそうな微笑みがある。



「あなたには敵いませんね」



 ティーカップに手を伸ばす。

 澄んでいた茶色の海は白が混ざって底を隠してしまった。映っていた月もその姿を消す。空は映らなくなってしまったが、代わりに優という感情を心にしみわたらせてくるようだ。

 ほんのりと甘い紅茶が口の中に広がって身体の内側に甘く塗られていくような温かさが落ちていく。



「貴女は、嘘をつけるようなひとではありませんから」



 そう言ってまた熱い紅茶と向き合う男の言葉におちないために、思い込みのような塗装をするのだ。



「……今夜は、いいんですね」


「ええ」



 甘く、甘く、ただ甘いだけの愛情とあまりにも単純な恋慕。

 なれるための甘いミルクティーコーティングで満たして、満たされる準備をする。



「……かわいそうなひと」



 すみません、少し。

 と席を外した男の暖かい後ろ姿に、女はそうひとりごちた。







 ああ、誰の声かしら。


 他人事のように投げ出した思考は決して逢瀬がつまらないからじゃない。

 ただそうと思えるくらいに思考を切り離せてしまうのは冷静すぎる私がいるからだ。私が私であるそのすべてを担うような、そんな私が。

 彼のために彼を喜ばせたい私がいる事実は「誰の声か」と自問したその答えにはっきりと表れている。

 彼の手に、肌に、紡がれる音に。そして彼自身に与えられているそれは決して無意味ではない快感。彼のためにそれを求めるのは自分のため。自分が彼を愛していると知ってもらうための行為。


 そう。

 『愛している』と思ってもらうための行為だ。



「──フェリデ、さん」


「なあに」


「愛しています」



 返したい言葉があるのにそれを言わせてもらえなかったのは、彼が言葉でなく私そのものを求めているからだろうか。

 甘くコーティングした感情がそれを快ととらえて、私はそれから逃げられなくなる。

 ああ、はがれる前に言わせてほしかったのに。



「私も」



 って。



 普段から優しさの滲み出るあどけない表情をしているけれど、寝ている時はもっと子供のように幼くなる。寝返りを打って背を向けた彼は足を少しだけ曲げてうずくまっているかのような態勢で静かに寝息を立てている。

 寝ている彼は物音を立てても起きるどころか身動ぎ一つしない。よほど大きい音を立てるか彼自体を揺するかすれば勿論寝ぼけるところから目を覚ますところまで見せてくれるのだけど、隣で身体を起こしても、ベッドから抜け出してもそれくらいでは一切気付かない。


 扉を開けるきぃ、という音も誰も鳴かないこの時間には響いて聞こえる。

 ぱたん、と閉める音も暗闇が広がる廊下の先にじわりと広がった。


 夜、月が見えてから出会う私と彼の逢引は彼が起きる前に私が姿を消して終わる。『次』のメモを残して部屋を出てこの月明かりだけの薄暗い廊下を歩くことにも慣れたものだ。

 雪の降る季節が近づいているからと手袋をもらったのも最近のことだったか。両手を包むためのそれは今はまだ手に取っていないけれど、きっともうじき触れることになるだろう。



「……おい」



 彼の自宅の門を出たところで、ぶっきらぼうな声と言葉が投げられる。それは投げかけたのでなく投げ捨てたのよ。反応しなくてもいいものなのかしら。と思ってしまうのはきっと相手が愛する人ではないからだ。



「あら、眉間にしわが寄っていてよ?」


「アンタが遅いんだ。行くぞ」


「もう……」



 ああそうだ、と一人考えてみる。

 愛する人に貰った手袋の話を、仏頂面と不満を隠すこともなく不機嫌ですと言葉にせずとも語っている彼の背に投げかけたら私はどうなるだろうか。

 いや、私じゃなくて彼はどうなるのだろうのほうが正しい。



「ああ、そうだ」



 唐突に振り返った彼の顔は未だに不機嫌を訴えている。そのさえない表情のまま私の目の前に立った彼の顔を凝視した。要件を言われていないからどうしたらいいのかというため口を開きかけ。

 肩にふわりと布がかけられてそれの下に埋まって隠れてしまった後ろ髪を外に出す。

 ストールをかけられたと気づいたのは正面から私の背後にまで手を伸ばした彼がその行為を終えてからだった。



「行くぞ」



 きっととても恥ずかしいだろうこの行為を、そうと気付かない彼は平然と済ませて変わらない表情のまま歩き出した。

 生憎とこんなもので照れる私じゃあないのだけれど、言えば彼はきっと「思ってもないことを」と私の恥じらいを嘘だと見抜きながら照れるのだろう。



「ねえ、ラジア。護衛代わりのあなたが私の前を行くのはおかしいんじゃないかしら」


「護衛なんていらねえだろうがテメェ」


「ひどい人ね」



 足を止めて振り返ってくれた彼──ラジアとの距離は二メートルくらい。守られる側が後ろにいるのはおかしい、と私に容赦なく暴言を吐いたラジアもそれには納得したらしく、私が彼を追い抜くと同時に斜め一歩後ろを歩き始めた。



「……あの男はまだ気付いてねぇのか」


「えぇ。今日なんて"あなたは嘘をつけない"って言われたもの」


「へえ? どんな嘘ついたんだよ」


「昨日、人を殺したの。って」



 ざっ。

 後ろをついてきていた足音が地面に擦れたその少し大きな音を最後に止んでしまった。

 振り返れば少しあいた距離がそこにあって、今日始めにあったときよりももっと深く眉間にしわを寄せたラジアの顔が疎らに設置された街灯に照らし出される。



「性格悪いな、アンタ」


「あら。嘘をつかない誠実な女よ? 私は」



 彼の表情がもっと険しくなった。



「時間を与えて、身体を与えて、愛を与えて」



 私が愛している人に捧げているものを羅列するラジアを、私は表情一つ変えずに見つめ続けることができる。



「──そこまでやっといて、アイツへの愛は全部嘘なんだろ」



 そう。表情一つ変えずに。声色も、目つきも、口角も、立ち振舞も変えずに私はただ私の言葉を返すだけ。



「ええ。だって彼は誠実すぎるもの、面白くないわ」



 ラジアがそれまでの感情をすべて吐き捨てるように鼻で笑い飛ばして、どこか先程より澄んだ感情を浮かべてその口を開く。



「じゃあさっさと殺しちまえよ」


「イヤよ」


「ンでだよ」



 今度はまた顔を顰めて、不満そうに口を結んだ。ムッとした顔を浮かべるラジアは叱られた少年のように幼い。

 恋だとか愛だとか浮かれた情を笑い飛ばして、生だとか死だとか倫理的な情を適当に蹴り飛ばしているような男なのだけれど。

 それでも、ラジアはわかりやすいひとだ。恋も愛も、殺害も、自分の感情のままに背中を押して腕を捕まえ引き戻して、誰かの罪悪を自分のせいにさせようとする。そんな、優しい男だ。



「あの人は私を抱いてくれるもの。そうしたら、アナタ嫉妬するでしょう」



 だからこそ、こうして面白くもない男を愛して、誠実な男に私を捧げて、その迎えに来させているのだ。

 立ち止まったままの私達は人のいない道の真ん中で向かい合っている。観客は街灯と時々通り過ぎる風と、鳥。それと目隠しを外してもらった欠けた月。



「……クソアマ」



 そんな気分屋な彼らに見守られながらトゲだらけの愛を吐き落とした彼は、また私の先を歩き出す。

 さっきみたいに二メートルなんて距離はあかないけれど、今日一番の不機嫌を訴える彼の背中は私を遠ざけようとしている。来るなと拒絶している。



 そういえば前にもこんなことがあったような気がする。と、冴えた思考は過去のやり取りを掘り返していた。


 あれは確か久々にラジアの自宅を訪れたその日のことだったはずだ。

 いつも通りの仕事終わりに、ただなんとなく気が向いたからドアをノックした。事前連絡なんてものは"なんとなく"の前になんの強制力もない。

 そう、無言で、無断で、何も言わないままに訪れた。


 開いた扉。朝も夜も薄暗い廊下が続くその先は目の前に立つラジアの姿で見られなかった。

 文句を言われて、理由をただなんとなくだと答えて呆れられて。ため息のあとに言葉は何もかけられず、廊下を歩いていくラジアの背を追って部屋に入って、見慣れぬものを見た。


 赤い花。


 窓際の小さな棚の上に置かれた花瓶にさされた一輪だけのその花をみて、「あなたらしくないわね」と一言言って。


 その表情が酷く歪んだのをみた。




「赤いお花」


「は?」


「私があなたの部屋に行ったとき、あなたらしくないって言ったら今みたいな反応をしたわ。それで思い出したの」


「一生忘れとけンなもん」



 ラジアの声は頬を撫でる冷たい風と一緒に流れてきて、刺さる。

 寒いな、とかけられたストールを口元に寄せた。ラジアの対応も、いつも通りだけれど、どこか。



「造りものなのでしょう、あれ」


「ンなことどうでもいいだろ」


「なんていうお花なの? それだけは教えてくれなかったわ」


「話しかけんなクソアマ」



 子供の反抗期みたいだ。

 嫌だ嫌だと拒絶ばかり、反抗ばかりのその時期。ただそれよりはもっと複雑で扱いに難しいことをわかっている。


 けれどね、ラジア。

 私はアナタに優しくなれないわ。優しいだけの、甘ったるい濁った愛なんてくだらないもの。

 アナタに、私の愛を知ってほしいの。

 もう知っているだろうけど、そうじゃなくて。もっともっと、私自身の。だから。



「アナタが私を愛してくれたらそれでいいのよ? そしたら私は言ってあげる」



 ──昨日、あの人を殺したの。って。







[ラジア]"彼岸花"の種小名「ラジアータ」より

[フェリデ]"幸福"のポルトガル語「フェリシダーデ」より

[彼岸花]『あきらめ』

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