幻想スクラップ【短編集】
八夜 灰
短編
プラトニックリリック
歌うのが、僕の人生だ。
ギターを弾いて、言の葉を紡いで、人生を嘆く。父に投げ出された僕にはそんな生き方しかわからない。
ある日父は僕に言った。
「すまん。父さんにはこれしかできない」
当時の僕の手には余るくらいの大きいギターを手渡して。
父さんは借金があった。僕を産んで、僕を連れて家に帰った途端にいなくなった母さんの代わりに僕を育てるために。
何も残してくれなかった母さんよりは、"育ててくれた"という今までがある父さんのことは何倍も好きだった。
だから当時の僕は父さんの言葉に泣いた。
「父さん、これからは一緒にいれない」
そして僕は一人になった。
借金を返すために何もかもを売って、父さんは自分自身をも売った。僕との縁は、僕のことを売らなければならなくなる前に切ったらしい。
父さんを父さんだと呼んで過ごしていた最後の方の少しの時期は、赤の他人を父さんと呼んで過ごしていたのだ。
人間として存在するその価値と、人体としての価値。それを足して、足りて、生きているのかはわからない。僕にはもう関係のないことだ。
そうやって、僕は、父と家を失くした。あるものはギターだけで、父と一緒に練習した思い出だけは忘れずにいられている。
人のまばらなレンガ道で、路地裏のいり口のすぐ隣で。僕は、歌を歌って生きている。
◇
実は、生きるのがかなり下手だ。
わかりきっていたことを今になって改めて実感する。
変わらない服を着て、薄汚いギターを手に歌う人に与えられる慈悲なんて目に見えないくらい小さなものだ。貰えるだけまし、とは言えるけれど、その小さな慈悲が向けられる相手である家無しは案外色んなところに座り込んでいて。
僕が歌を歌うのは、少しでも自分に意識を向けさせたいからだったんだろう。
それでもいつかこういう日が来る。
立ち上がる気力も起き上がる気力もどこにもない。一週間、歌っても恵んではもらえなかったから何も食べていない。
諦めも、ついたところだ。
アスファルトに座り込んで、背中を壁に預けていた僕。次第に意識が朦朧として、耳鳴りがして、寄りかかっていたはずの壁は背中になく、アスファルトに寝そべっている。
地面の冷たさが寒気を助長する。
人生への後悔は何もない。あれをやりたかった、なんて思うこともない。ただ、ここまで生きられたことを父に感謝した。
人生への文句は少しある。でも言ったところで意味がないこともわかっている。
死に向かって自ら全力疾走しているのに、考えられていることがなんだかおかしく思えてきた。
死にたくない、と泣き喚くべきなのだろうか。
馬鹿馬鹿しくて少し笑えた。
ふと、目の前に影がさす。
もともと影に覆われた建物の間の狭い道だけれど、もっと黒になった、というか。
なにがあるのかはわからない。音もつい先程から拾えなくなってきたところだ。
影の主が、僕の視界に入った。
近づいてしゃがんでいるようだ。
「どうされたのですか」
だろうか。
死に際に覚えのない執着が顔を出してそう思わせているのだろうか。
ぼんやりとした視界の中で、風に揺れる長い髪を見た気がした。多分、きっと女の人だ。同情か見せかけかの優しさを持った女性。
女性の口が何度か動く。
何かを言っているのだろうか。耳鳴りに阻まれて届かないその声を聞きたい。
女性の手が、僕に触れた。
拒む気力がないことを酷く恨んだ。
すぐに去っていった。
触れて嫌になったのだろうか。まあ、このまま死なせてくれて構わない。
死ぬ前にあんな美人に触れられた、なんてあの世への土産話になりそうだ。生きるために争って、譲り合った仲間でも何でもない家無しは、顔のいい男か女の話を好むから。
なんて考えていたら、また目の前が暗くなった。
いよいよかとも思ったけどそうじゃない。
また、あの人だ。
一度去っていったはずの女性が再度僕の前に現れた。何をしに来たのだろうかと思っても、出てくる言葉は声にならない。
「──これ、食べてください」
その言葉だけははっきりと聞こえた。
拒絶はせずとも、求めていないはずの救済を自分自身が受け取っていた。
きれいなカップに二切れのパン。
アスファルトの地面に膝をついた女性が、僕にそれを差し出している。
幻覚だとしたら土産話として最高なくらいの光景だが、これはどうやら現実らしい。
「起きないと……」
女性は僕に手を伸ばした。
上体を抱えられ、僕はまた壁に背中をつけることになる。
そうして、女性は僕にカップを近づける。
これ以上は、返せない。
動く気配のなかった手が動いて、カップを掴んだ。ゆっくりとだけれどカップに口をつけて、中のスープを少しだけ含む。
塩っ気の強めな温かいスープだった。
「パンも、ありますから」
つけて食べると美味しいですよ。と女性は言う。
僕はこのあと、どうされるのだろうか。食わせてやったんだからとおかしな目にあうのだろうか。
どうでもいいや。とパンを受け取った。
僕がもらったそれを食べている間、女性はずっと僕のことを見ていた。
「……どうして、くれたんですか」
僕はその目を見られないまま、そう言った。
「見捨てて死なせてしまうことでなく、生きるために差し出すことが私の生き方なんです」
段々とはっきりしてきた視界で服装を見て理解する。この人はシスターで、きっとここは教会の近くだ。それくらいの土地勘と知識は僕も持っていた。
自身の生き方に逆らわないために家無しに食べ物を渡したという女性は、ゆっくりと立ち上がった。
「カップは、ここに置いていってくださいね」
最後まで足元しか見れていなかった。影がだんだん遠ざかって、足音がしなくなった頃に僕はようやく顔をあげた。
どんな人だったのだろう。何を返せばいいのだろう。
ポケットに手を突っ込んでみても、何も買えやしないくらいの小さなお金しか入っていない。今を逃せば返せる機会はもうないというのに。
こういうときに家無し文無しは困る。
礼は言えよ。なるべく返せよ。という父の教えが僕の支えで、僕の生き方だ。そうしないと命はあっても死んでしまう気がした。
またここに来れば会えるだろうか。
教会の近くで欲しがる人はいない。キレイな場所だとみんなそう思っているから。だから、ここにいれば教会のシスターたちの中で話題になって、来てくれるかもしれない。
あいにく僕は神様に救いを求めていない。神様に罰を求めていない。生を、死を求めていない。信じていない。
教会がキレイな場所だというのはわかるけど、近づかないでおこうとは思わない。どうでもいいから。
そうだ、ここで歌うのはどうだろう。
名案だ。
もらったスープとパンを平らげ、カップをその場においた僕はゆっくりと壁に寄りかかるように立ち上がった。
こんな所で乞食をして、人が寄り付きにくくなったら困るのは教会だ。心の寄りどころはいつでもキレイで、近づきやすい環境であるべきだ。
隣に置いてあったギターを背負う。
今日からは、返すために歌を歌うことにしよう。
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