昼夜微睡む

 ――まだ夢を見ているうちに、早く。

   選んで。

   太陽を壊すか。それとも月か。



 九月。残暑という言葉を忘れた中で始まった新学期。

 未だに熱い太陽の視線が窓から入り込みじりじりと気温が上がってくる中で、朗々とした低い男の声が教室の中に響き渡る。高校一年生の一クラスで行われているのは、数学。二次曲線と不等式の関係性に多くの生徒たちが頭を悩ませている。

 その窓際最後列で、頬杖をついている一人の少女。肩口で切られた豊かな黒髪を涼やかな風に揺らした彼女の顔は真っ直ぐ黒板を向いていたが、惜しくもその目は閉ざされていた。ノートの上に落ちたシャープペンシル。罫線を無視した数式。ミミズのような字は彼女の抵抗を物語るが、心地良い声で呟かれる呪文に根負けしてしまったらしい。頭を支えた手の中で、首がかくかくと揺れている。


「おい」


 講義が途切れたのに気が付かず、少女はまだ船を漕ぐ。


「こら、境かすみ!」


 短く叱りつける声に、彼女の肩がびくりと震えた。


「目を覚ませ! 夢を見ている場合じゃないぞ!」

「はい! すみません!」


 一瞬で覚醒した彼女は、周囲の目線を集める中でしゃん、と背を伸ばし、上擦った声で謝罪する。少女かすみが起きたことに満足したのか、それ以上咎めることもなく、中年の教師は分厚い眼鏡を押し上げて黒板に向き直った。

 ふぅ、とかすみは背中の力を抜いた。猫背のままシャープペンシルを拾い上げた後、ノート黒板を見比べて、慌てて不足分を書き足した。羞恥と焦りのお陰で残りの時間をなんとか乗り切り、終業のチャイムにほっとため息を吐く。


「かすみぃ、どうした? 寝不足?」


 にやにやと笑みを浮かべて来る友人に、机の上に突っ伏していたかすみは照れを含んだ苦笑いを浮かべた。


「そー。昨日、動画に夢中になっちゃってさ」

「駄目じゃん、夜更ししちゃあ。夏休み、まだ抜けてないのかなぁ?」

「うぅ……そうかも〜」


 うりうりとこめかみを小突かれるのを払い除けつつ、かすみは起き上がってため息を吐く。日差しを受けて身体中が火照っており、暑さによる気怠さもあって、少し気を抜いただけで眠気がまた襲ってくる。次の授業もヤバいかもなぁ、と思いつつ、机の中から出した教科書は、世界史。またしても夢の中へまっしぐらコースである。

 休憩時間はたった十分。話をしていた友人も少ししたら席に戻ってしまい、退屈になったかすみは窓の外に目を向けた。

 体育の授業が始まるのか、騒がしくなったグラウンド。教師の入室に、ぴたりと静まり返った教室内。日直の声に従って立ち上がり、一礼したところで、


 ――世界が停滞した。


「……え?」


 頭を上げた視線の先の光景に瞠目する。クラスメイトたちは頭を下げたまま、初老の世界史の教師は教科書を開きかけた体勢で、みんな固まっていた。まるで、ビデオの一時停止ポーズ画面。空気の停滞まで感じられる中で、かすみは視線を泳がせた。静寂の中で、かすみの僅かな動作の音さえもいやに大きく聞こえる。


「なに、これ……」


 戸惑う彼女の耳に、羽ばたきの音が飛び込んだ。弾かれるように音の方へ目を向けると、机の上に一羽の小鳥が止まっていた。掌ほどの大きさ。体の上面は褐色で、下側は白い。黒くて丸い瞳が、真っ直ぐにかすみを見上げている。


『この世界は今、揺らぎつつあるわ』


 鶯のような美しい囀りに被さって、頭の中に声が響いた。


「え……? 鳥が喋った?」

『夜が昼を、昼が夜を、侵しつつあるの』


 かすみの戸惑いを無視して、小鳥は必死にかすみに語りかける。


『このままでは、昼夜が混濁してしまう』

「それ、何か問題なの?」


 良く解らないなりに話は聴かなくてはいけないような気がして、かすみが小鳥に尋ねると、


『問題よ』


 小鳥の声に応えるように、突如夜が来た。

 冷え込んだ空気。画面を切り替えるように、一瞬で暗転した視界。窓から入り込む満月の光が、人形のように立ち尽くす生徒たちを不気味に浮き上がらせる。

 かたり、と教室の外から音がして、思わず振り向いた。風通しのために開け放たれた入口に、黒い人影が立っている。判然としないその闇の塊に、かすみは怖気を震わせた。

 影が、のそりのそり、と教室内に入ってくる。真っ直ぐにかすみへと迫ってくる。引き攣る喉。後退する足。窓際まで追い詰められて、目が逃げ場所を探し始める。クラスメイトたちは相変わらず、頭を垂れたままだった。

 どうしよう、と脳内で悲鳴を上げた途端、画面がまた切り替わった。明かりの付いた視界。立ち消えた影。湿気混じりの熱い空気がかすみを取り囲む。危機が去ったことに安堵しつつ、冷たい汗で貼り付いたシャツが現実を直視させた。


『わかった?』


 小鳥の問い掛けに、かすみは絡繰のように何度も首を縦に振る。事情は全く理解できていないが、危機的状況であることだけは痛感させられた。


「どうすればいいの?」


 ようやく声を発することができたかすみに、小鳥は告げる。


『探して。そして選んで。太陽を壊すか、それとも月か』

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