[1-1] 震える翼
薄曇りの春空。
敵機哨戒を兼ねた練習飛行に出たのは、午後一時を回ってしばらくしてからのことだった。
いつものように整備兵から飛行機の状態の報告を受け、練習生の清水一等飛行兵には飛行前の点検を命じた。季節は四月となってずいぶんと気温も上がり、発動機の暖機調整も真冬のようには手間が掛からない。
定刻を迎え、爆音とともに滑り出すように走り出して翼で風を切る。
艦上戦闘機だというのに、もう二度と空母から飛び立つことはないその二機の機体は、舞い上がる砂埃を浴びて、うっすらと化粧をした婦人のように控えめな光沢を空に浮かび上がらせた。
私の左後ろを清水一飛が飛んでいる。
清水一飛も私と同じ兵科転向組みだ。元は巡洋艦に乗り込んで機銃を撃っていた。父上も軍人で海軍兵曹長だったそうだが、肺を悪くして退役し、現在は田舎で百姓をしているらしい。
我々は程なくして海を渡り、やや低めに垂れこめた雲の間から見慣れた風景の上空へ進入した。
私はこの風景が好きだ。
眼下に広がるこの街は、陸軍の街。
街なかを歩くには海軍軍人である我々は少々肩身の狭い思いをしなければならないが、翼の下に眺めるにはとても美しく、そして頼もしい。
勇壮な石垣が力強く天守を護る城のすぐ南に、陸軍の師団司令部、兵器庫、練兵場などが厳然と広がっているのが見えた。
中でも目を引くのは、帝國でも有数の巨大な
昨年六月の空襲ではこの工廠が狙われ、周辺の市街地も巻き込まれて多大な被害を受けた。
戦況は
一か月ほど前には東京が大空襲に見舞われて壊滅的な被害を受け、現在は沖縄に米軍が上陸している。
このままでは米軍の陸上部隊が本土に上陸してくるのも、もう時間の問題だろう。そうすればこの街もあっという間に戦場だ。
聞けば、飛行機と油の枯渇は著しく、ついに戦闘機搭乗員を養成する我々のような教育隊も実戦部隊化されることとなり、先月再編されたばかりの我が隊も、その一部が今月中にこの街近くの航空基地に実戦配置されることが決まった。
私はこの街の生まれだ。
しがない建具屋の
十八歳の年、私は中学校を卒業して海軍に志願した。
当初は駆逐艦に乗り水雷屋を志したが、志願四年目、現役を終える一年前に米国との戦争が始まり、一念発起して水兵から飛行機乗りに転向した。
同期からは、「船乗りが空を飛んでどうする」だとか、「煙となんとかは高いところへ上りたがる」だとか散々な嘲りを受けたが、かねてからイギリスの作家H・G・ウエルズや、日本の
そして、それはいま正解だったと確信している。
おかげで今日、数々の
しかし、この眼下の故郷に私の家族はもう居ない。
疎開を嫌がり、兵器工廠のすぐ近くで店を続けていた私の実家は、昨年の空襲で爆撃を受けて失われ、避難する途上の私の父母も戦火に焼かれてこの世を去った。
既に兄弟を失くしていた私は、これで天涯孤独となったのだ。
ただ、幸いにも幼馴染みが居てくれるので、実際のところは本当の孤独ではない。
私の無二の幼馴染みは、志保というふたつ年下の娘だ。小さなときから家が隣同士で、ずっと一緒に過ごしてきた。
米国との戦争が始まる前に志保から結婚を申し込まれたが、戦争が終わるまで待てと断った。
女のほうから求婚するなど、よほど思い詰めてのことだろうとは思ったが、いつ果てるともしれぬ軍人亭主を、独り寂しく待つ身にはしたくなかったのだ。
運良く空襲被害を免れた志保の一家は、この街よりもっと西の、製鉄の街を囲む海端の農村へと移った。やや離れているとはいえ、製鉄所は空襲の標的となるのだから、その近隣の農村とて気は休まらない。
工廠を通り過ぎたところで大きく左旋回をして、もう見納めになるかも知れないこの街の姿を目に焼き付けようと、風防を開けて下を覗いた。
本来、本州に拠点を置く我々がこの街の上空を飛行することはないが、今日は昨年陸軍が海端に
この古い零式艦上戦闘機は、お世辞にも頼もしいとは言い難い。時折、ドドッ、ドドッと発動機が不整な息を吐き、その度にエンジンストールして墜落するのではと少々不安に思う。
しかしまぁ、たとえどこへ落ちたとしても、ここは日本だ。
ほとんどの戦場が海の上で、運良く陸に落ちて命拾いしても、結局は米軍の銃口から逃れられない南方戦線の兵たちからすれば、我々の不安など
さてと気を持ち直して計器に目をやると、燃料計がそろそろ帰投せよと促していた。清水一飛に手で合図する。
『基地ヘ戻ル、我ニ続ケ』
その時だった。
突然、澄み渡る空。
いままでこの街の上空をくすませていた雲が一瞬で消え去り、目が覚めるほどの青々とした空が眼前に開けた。
こんなに美しい青空を見たのは、生まれて初めてだ。
同時に、ぞわわと悪寒が背中を這い上がる。
どうしたというのだ。
落ち着こうと息を吸って刮目し、操縦桿を握る右手に力を込めた瞬間……。
今度は、何かが足に触れた。
手か?
己の感覚を疑う。
いや、間違いない。
いま方向舵を踏んでいる私の両足は、何者かの手に掴まれている。
戦慄が走った。
私は両足を突っ張って方向舵を踏み付けると、座席に力いっぱい背中を押し付けた。
水平儀がくるくると回っている。
しかし、機体は回転していない。
計器だけがおかしいのかと外へ目をやると、抜けるような青空を背景に、清水一飛の零戦がグラグラと揺れていた。
まるで空母への着艦に失敗して飛行甲板に車輪を叩き付けたときのように、翼の端を大きく上下に震わせている。
風防の中には、必死に何かを訴える清水一飛の顔。
私に向かって何かを叫んでいる。
その手前、私の零戦の翼も大きく上下に振動していた。
機体が横滑りし始めたのを感じて、私は咄嗟に前を見た。
唖然とする。
距離にして、約一〇〇〇メートル。
先ほどまでは何もなかった空のその先に、それは忽然と現れた。
光る雲。
いや、光を放つ雲のように見える、『何か』だ。
前方の空間、我々より若干低い前方のそこに、その『何か』は、周囲の青空を真っ白に飲み込みながら、真っ直ぐ私のほうへ進んできているように見える。
なんなのだ。
私の目は、駆逐艦から数千メートル先の潜水艦の潜望鏡を発見できる、水雷屋仕込みの自慢の目だ。
その目が、その『何か』を全く判別できない。
宙に白い穴が開いているようにも、なにか小さな光る点が無数に集まっているようにも見え、あるいは、ふわふわとした光る雲であるようにも見える。
もう一度さっと清水一飛に目をやり、手信号で『散開』を指示した。
いま相手から撃たれれば、我々はひとたまりもない。
清水一飛の練習用零戦は実弾を積んでいない。
教官用の私の機体にのみ、辛うじて右側の七・七ミリ機銃に二十五発の実弾が装填されているが、この状態では全く反撃できない。
即座に方向舵を蹴り飛ばし、腹に力を入れて両腕で操縦桿を倒した。
教本どおりの小さな弧。
その描かれた弧に続いて、私の零戦が急降下体制に入ったその時、水流が絡み付くようなねっとりとした感覚が私を捕らえた。
高度が足りない。
眼前に迫る街並み。
その瞬間、突然、空が光を放った。
爆発かと見紛うほどの、強烈な散光。
目がくらむ。
思い切り操縦桿を引く。
そして、声にならない声を上げて砕けんばかりに歯を食いしばった瞬間、突然、ピシッと薄いガラスがひび割れるような音がして、私の耳には何の音も届かなくなったのだ。
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