3134話

 レイは妖精郷に行くと決めたが、だからといってすぐに行動に移す訳にはいかない。

 今のこの状況においてそのような真似をするということは、当然ながら野営地の責任者たるフラットや、研究者達を纏めているオイゲンに話を通す必要があった。

 本来なら、わざわざそのような真似をしなくてもいいのだが。

 だが、レイがいない時に穢れが現れたりした時の対処について話しておく必要があるし、それ以外にも穢れの研究について何らかの進展があった場合……もしくは明確に進展があると予想出来る場合について、オイゲンと話しておいた方がいいのは間違いない。


「妖精郷に? いや、だが……もしレイがいない時、穢れが現れたらどうすればいい? 一応穢れへの対処方法については分かっているが、それはあくまでもレイがいるのを前提としての話だぞ?」


 フラットが心配そうにレイに尋ねる。

 だが、レイはそんなフラットに対して問題ないと言う。


「セトの飛行速度は知ってるだろう? ギルムからトレントの森までも数分程度だ。妖精郷からこの野営地まで、もっと短い時間で到着する。その数分くらいなら、特に問題はない筈だ」


 これが普通の……それこそ高ランクモンスターとの戦闘ということにでもなれば、数分というのは簡単に稼げる時間ではない。

 だが、相手が穢れであれば話は別だ。

 触れると致命的なダメージを受けるものの、それは触れなければ問題ないということを意味している。

 そして穢れの移動速度は、決して速くはない。

 普通に冒険者が遭遇しただけなら、それに対処するのは難しくはないのだ。

 ……どこかの恋人同士のように、逢い引きの最中にいきなり穢れに襲われるといったようなことになった場合は、対処するのが難しくなるかもしれないが。

 フラットは最終的にレイの言葉に押しきられるようにして、頷く。

 レイがいないということで不安がない訳でもなかったが、それでも妖精郷にいる長に呼ばれていると言われれば、それが穢れに関係する何かだというのは容易に想像出来る。

 だからこそ、穢れとの戦いにおいて対処が確立し、レイがいなくてもある程度どうにかなるこの状況で、長が呼んでいる件をどうにかしたいと思うのはおかしな話ではなかった。

 そうしてフラットに話を通すと、次に向かうのはオイゲンだ。


「……あれ? オイゲン、こっちにいるのかと思ったけど違ったのか」


 湖の側の炎獄にやって来たレイだったが、そこに目的の人物がいないことに気が付く。

 なお、炎獄の周辺には研究者と助手がいて、その周囲には護衛達が周囲を警戒している。

 その中の数人がレイに向かって睨み付けるような視線を向けてきたが……それが野営地で騒動を起こし、他の護衛達に取り押さえられた者達だと気が付いたレイは、微かに眉を顰める。

 問題を起こした者達をそのまま護衛として使っているのは問題ではないかと。

 そう思ったのだ。

 実際、今もこうしてレイを睨んできているのを見れば、反省していないのは間違いない。


(こういう連中を護衛にしておいて、本当にいいのか? というか、今更の話だが何で俺が睨まれるんだ? 俺を睨んでる連中と揉めたのは野営地にいる冒険者達の筈なんだが)


 レイが自分から喧嘩を売ったような相手ではない以上、何故ここまで自分に敵対的なのかがレイには分からない。

 レイを睨んでいる者達にしてみれば、レイは野営地にいる冒険者達の中でもリーダー格といった認識だ。

 つまり、自分達と敵対した相手のボス的な存在と認識してるのだろう。

 実際には野営地のボスとも言うべき存在は、レイではなくフラットなのだが。


「あ、レイさん。オイゲンさんに用事ですか? オイゲンさんなら、新しい炎獄の方を見に行ってますよ」


 炎獄の中で、朝に見た時よりも更に小さくなっている黒い円球を観察していた研究者が、レイの存在に気が付いてそう言ってくる。


「そうか。やっぱり向こうに行ってたのか。分かった」


 レイもここで自分に敵対的な視線を向けてくる相手と絡むような真似はしたくないので、素直にその研究者の言葉に従ってその場を後にする。


「ふん」


 そんなレイの横では、何故かニールセンが面白くなさそうに鼻を鳴らしていた。

 ニールセンにしてみれば、研究者達の中には自分に嫌な視線を向けてくる者が多く、同時にレイに向かって敵意を剥き出しにしている護衛もいる。

 それらがニールセンにとっては面白くなかったのだろう。

 もっとも、レイにしてみればそういう相手の扱いはそれなりに慣れているのだが。

 自分に向かって絡んで来たら、相応の対処をすればいいだけだと。


「ほら、ニールセン。もう一方の方に行くぞ」

「分かってるわよ。別に不満はないから、気にしないで」


 不満はないと口にしているものの、実際には不満があるのは見れば誰でも理解出来るだろう。

 そこまで気にする必要はないんだが。

 そんな風に思いつつ、レイはセトとニールセンを引き連れてオイゲンのいる場所に向かう。

 幸い、ニールセンは湖の側から離れればそれだけでそれなりに機嫌が良くなったので、レイとしてもそこまで面倒には思わなかったのだが。


「あ、レイ。これからどこに行くの? よかったら、ちょっと話をしない?」

「悪いな、今はちょっとオイゲンに用事があってそれどころじゃないんだ」


 誘ってくる女の冒険者にそう返し、野営地を突っ切っていく。

 それ以外にも、途中で何人かがレイやセト、ニールセンに声を掛けるといった真似をしていたが、全員がそれに応じるといったことはなかった。

 ニールセンだけは、焼き菓子があると言われてそちらに向かいそうになっていたが。

 そのようにしながら、レイ達は新しい炎獄によってサイコロと円球の二種類の穢れを捕らえた場所に到着する。

 新しい炎獄、しかも二種類の穢れがいるというだけあって、興味を惹かれた者が多かったのだろう。

 湖の側の炎獄でいつ穢れが死ぬのかに強い興味を持っている者も相応に多かったのだが。


「オイゲン、ちょっといいか?」

「レイ? 一体どうした?」


 懲りることなく、何度も炎獄に体当たりをしているサイコロと円球を観察していたオイゲンだったが、レイの言葉を聞くと視線を向けてくる。

 その表情に一瞬だけ面倒臭そうな色が浮かんだのは、それだけ新しい観察対象に意識を向けていたからだろう。

 もっとも、レイの相手をそのような状況でやるのは不味いと即座に判断し、オイゲンは普段通りの様子でレイと接するが。


「長から呼び出しがあってな。ちょっと妖精郷に行ってくる。野営地は離れるが、何かあったらすぐに戻ってくるから心配はしなくてもいい」


 レイの口から出た妖精郷という言葉に、それを聞いていたオイゲン……ではなく、他の研究者が微妙に反応する。

 研究者にしてみれば、穢れにも興味があるが、それと同じくらい妖精郷にも興味があるのだろう。

 とはいえ、レイはこの状況で研究者達を妖精郷に連れて行かないというのは明言している。

 もし妖精郷に行きたいのなら、穢れの研究で結果を出してダスカーに認められ、王都からやって来た相手を妖精郷に案内する時に一緒に行くしかないと、そう言ってはあるのだ。

 妖精郷に興味のある研究者も、そんなレイの意見については理解しているのだろう。

 だが、それを知った上でレイが妖精郷に行くのが羨ましいと思ってしまうのは止められない。

 妖精に興味を持っている研究者にとって、妖精郷というのは何が何でも行ってみたいと思っているところなのだ。

 それこそ、金を払えばいいのなら財産を全て譲渡してでも……と、そんな風に思うくらいには。

 そうまでしても自分達は妖精郷に行けないのに、レイだけは何の代償もなく妖精郷に行けるのだから。

 それに嫉妬をするなと言う方が無理だろう。

 とはいえ、レイが妖精郷に自由に出入り出来るようになったのは、妖精郷を救ったという経緯があるからだ。

 欲に駆られた高ランク冒険者が妖精郷の存在を知ってそこを自分の好きなようにしようとしたり、妖精がマジックアイテムを作る上で足りない素材を多数渡したりといったように。

 ましてや、今のレイは穢れの件で長と綿密に協力しているのだ。

 そんなレイが妖精郷に自由に出入り出来るのは当然だろう。


「ふむ、妖精郷にか。レイがそう言うのなら、それは必要なことなのだろう。少し心配はあるが、レイの好きなようにすればいいのではないか?」

「助かる。フラットにも言ってきたが、もし穢れが現れたらセトに乗ればすぐに駆けつけられるから、そこまでの心配はいらない」


 そう言うとオイゲンは頷く。

 自分達に危険がないのなら、レイが妖精郷に行くのを止めるつもりはないのだろう。

 実際にセトが空を飛んだ時にどれだけの速度を出せるのか、知ってるからこその態度だった。

 また、それとは別にオイゲンが妖精よりも穢れに強い興味を抱いているからというのも、この場合は大きいのかもしれないが。

 結局何人かの研究者は妖精郷に行くレイに羨ましそうな視線を向けていたが、オイゲンが特に気にしていないこともあり、レイもその視線は受け流してオイゲンとの会話を終えるのだった。






「グルルルルゥ!」


 セトが嬉しそうに喉を慣らしながら、翼を羽ばたかせる。

 そんなセトの背にはレイが乗り、レイの右肩にはニールセンが乗っていた。

 セトの鳴き声を聞きつつ、レイは視線を下に向ける。

 地上にあるトレントの森が、かなりの速さで流れていく。

 セトが一体どれだけの速度を持っているのか、それを見事なまでに示していた。

 セトにしてみれば、特に急いでいるつもりはないのだろう。

 しかし、もし何も知らない者がそんなセトの飛ぶ姿を見れば、その速さに目を見開いてもおかしくはない。

 そして……それだけセトが素早いということは、野営地から妖精郷まであっという間に到着することを意味していた。


「グルゥ……」


 野営地から飛び立って、一分かそこら。

 その程度で、セトの空の散歩は終わってしまう。

 残念そうに喉を鳴らすセト。

 レイはそんなセトを慰めるように軽く撫でてやる。

 すると、セトはレイから撫でられたことであっさりと機嫌を直すと、地上に向かって降下していく。

 そこは妖精郷からそう離れていない場所。

 直接妖精郷に降りるといった真似は、霧の音による結界が張られている以上、そう簡単に出来ることではない。

 セトがやろうと思えば出来るだろうが、実際にそのような真似をした場合、一体どうなるのか。

 それはセトにも分からないので、今この状況で無理をする必要もないとセトも理解しているのだろう。

 殆ど音を立てず地面に着地するセト。

 レイはそんなセトの背から降りると、周囲の様子を確認する。


(特に妙なところはない、か)


 長が急に妖精郷に来て欲しいと連絡をしてきたことから、もしかしたら……本当にもしかしたらだが、穢れが妖精郷の近くに現れたのではないかと思ったのだ。

 もしくは穢れではなくても、妖精達では手に負えないような強力なモンスターが。

 だが、こうして見たところでは特に何かがあったという訳でもない。


(そうなると、やっぱり穢れに関する何らかの新しい情報を入手したとか、そんな感じか? 勿論、それはそれで嬉しいし、非常に助かるのは間違いないけど)


 今の状況では、穢れについての情報は多ければ多い程にいい。

 そういう意味では、今回こうして長から連絡を貰ったというのは悪い話ではない……と、自分に言い聞かせる。

 そう思いつつも、レイが期待したようなこととは全く違うような……それこそ、具体的には何か至急にやらないといけないことがあって呼び出されたのではないか。

 そんな可能性を少しだけ思い浮かべてしまう。

 そうして考えながら進んでいくと、やがて周囲が霧によって覆われた場所に出た。

 本来なら、この霧の一帯はそう簡単に突破出来る場所ではないのだが……レイの場合は、ニールセンが一緒にいるし、何より長から呼ばれてここにやって来たのだ。

 そうである以上、この霧の空間で迷うようなことはないし、何よりも霧の空間の中にいる狼達に襲われるといった心配もいらない。

 狼達も、敵対するのなら自分達よりも圧倒的な強者であるレイやセトであろうとも攻撃をするが、敵対をしなくてもいいのなら、わざわざ攻撃をするといった必要もない。

 だからこそ、レイ達は特に何かに邪魔をされるようなこともなく霧の空間を抜けた。

 霧の空間から出れば、目の前に広がっているのはレイにとっても既に見覚えのある光景……つまり、そこはもう妖精郷だった。

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