第28話 本当の気持ちを教えろ
過ちを拭い去るように頭にタオルを巻いていると、母が「ご飯食べてけば?」と顔を出した。
シーツを敷いたベッドの上で魚さんがこっくりと頷くと、母は餌を食べ終えたアナゴみたいに部屋から出て行った。
外も暗くなって、カーテンを締めた。窓ガラスに、部屋の無機質な白い壁と、魚さんの背中が反射していた。
「ついでにお風呂も入っていきなよ。風邪引いちゃうよ」
「んん」
くぐもった「うん」だった。
扉の向こうでカリカリと音がしたので扉を開けると、犬がちゃっちゃかとおもちゃみたいな動きで部屋に駆け込んできた。
「犬ちゃーあ」
魚さんが犬を抱き上げる。犬も嬉しそうに魚さんの肩までよじ登っていた。
母が用意してくれたご飯はまぐろ丼だった。うへぇ、うまそう。
リビングで家族と一緒に食べるのは気まずかったので、食器を私の部屋に持って行った。
「あ、こら犬!」
犬という名前の猫が、私のまぐろ丼に思いっきりかぶりつく。一度追い払っても、まだ諦めていないようで部屋の隅からこちらの様子を窺っていた。
「猫って本当に魚を食べるんだね」
「なんでも食うでしょ、うまそうなら」
放り投げるように言うと、魚さんはジッとこちらを見たまま、まぐろ丼を食べる。
魚さんは、何を考えているんだろう。
今、私を見て、この場所にいて、まぐろ丼を食って。袖で醤油を拭って。クリーニング出さなきゃ、とか考えてるのか。でもクリーニングに出すのはあくまで魚さんのお母さんで、魚さんはクリーニングに出すようお願いするだけだ。
時々自分が高校生であることがもどかしく感じることがある。子供とか大人とか、私にはまだよくわからないけど。
もし私がいつか制服を脱いだら、制服を着ている子のためにクリーニングまで走らなくちゃならない日が来るのだろうか。それを思うと、時の過ぎようが恨めしくなる。
まだ目の前に出されたまぐろ丼を食べるだけの生活をしていたいなぁ。
「なぬ」
私の視線に気付いたのか、魚さんが首を引っ込めたまま私を盗み見るように見た。
「魚さんのこと、まだ全然知らないなって」
「知ってるよ、わたしは魚で、猫さんは猫さん」
「名前と顔と、体しかしらない。あとは突拍子のない言動と行動ばっかりなのと、無表情なのと、目がまんまるなこと。あとは、体温が低くて、髪が黒いこと」
「いっぱい知ってるじゃないかー」
もっと知りたいよ。
出かかった言葉が、うぐぐっと喉で止まる。さっき食べたまぐろが、まだ私の胃を重くしているのだった。
本音と建て前は必要だし、自分を守るために作った皮膜をペリペリと剥いで「出てこい!」と恐喝するつもりもない。優しい嘘なんて適した言葉もあるくらいだし、包み隠さず生きていると摩耗するものだってきっとある。
母が私を思う気持ちなんて知りたくもないし、先生から見た私への評価なんてものも、今はどうだっていい。私のことを誰がなんと思っていようとそれは所詮他人の感情だし、私が興味を示さない限り、宇宙で起きた爆発くらいどうだっていいものだ。
「魚さんは、うわ、私のこと好きかな?」
うわってなんだうわって。
自分で聞いたくせに気味が悪かった。
「好きだぜ、当然だぜ」
魚さんのハードボイルドなサムズアップはちっともかっこよくなかったし、長く先細い親指に張り付いた薄いピンクの爪ばかりに目がいってしまう。
「転校の話なくなったとき嬉しかったなー」
仰向けになってバタ足しながら言う。足の振動に合わせて、声は震えていた。
ピンと立てたつま先は、なかなか私の方を向いてくれない。足首って思ったよりも、曲がらない。
「魚さんは、なんで髪染めたの?」
「へ」
空気が抜けるような声。
「染めたじゃん、だから先生に怒られてたんでしょ。もしかして、新しいクラスデビュー狙って失敗した感じ?」
「違う違う。実は鯉のぼりの夢を見て、起きたら鯉のぼりになってた」
「あは」
笑ってしまった。やっぱり、鯉のぼりだった。
空中にガッツポーズを投げると、魚さんはそれを不思議そうに見つめていた。
「でも、来年は受験とかも控えてるわけだしそろそろやめたほうがいいかもね。ヤンキーになるのは。先生に怒られるよ」
「怒られるとどうなるの?」
「魚さんに会えなくなる」
部屋の明かりが、パチパチと明滅していた。ああ、お母さんに蛍光灯替えて! って言わなきゃ。でも、部屋に入られるの嫌なんだよなぁ。
「じゃあ、やめる」
ほ、と魚さんと見る。
いや、ふ、だったかもしれないし、へ、だったかもしれない。
ともかく、ハ行のどれかしらを連想させるような動きだった。
「私のためってこと?」
「だって猫さんが寂しいって」
「言ってないよそこまでは。ただ、会えなくなるなーって」
知りたいというこの感情はきっと、好奇心ではない。それは私にも分かる。かといって、恋愛、とも違うのかもしれない。でも、手を伸ばしたり、つま先を立てたりするのはもっと近づきたいと思うからで。
押し寄せてくる季節の波から逃れるためでもあるのかもしれない。
「魚さんのホントの気持ち、知りたいよ」
手を取って正面から見合うと、魚さんは唇をキュッと締めて何かに耐えるようだった。
ぶわっと、鳥肌が立っていた。魚さんの肌がどんどんど逆立っていき、黒目は水槽の中を泳ぎ回るフナの赤ちゃんみたいに右往左往していた。
「い、言った!」
だけど、その手は振り払われてしまう。かなりの強度の拒絶だったので、私も私なりに、しっかりと傷ついていた。
「だから、言ったって!」
魚さんがわーきゃーと騒ぐ。
それに釣られて、犬がちゃかちゃかと部屋を走り回る。
何を考えているのかさっぱり分からない。人間も、そして動物も。
でも、こちらから見て分からないというだけで、常にあちらは感情をぶつけてきている。
うちの犬はトイレに行きたいときよく走り回る。それを知らない人が見たら落ち着きのない犬だなって思うかもしれないけど、知ってさえいれば。常にテレパシーのように送り続けられている感情の正体に気付くことができる。
扉を開け放つと、犬は一目散に部屋を出て行った。
振り返ると、魚さんは自分の手を太ももに挟んで、視線を床に投げていた。
そして頬は、まぐろみたいになっている。
ピンクのフラミンゴも、食べる餌によって色は変わるという。摂取したもので色を変えていくのは人間も同じみたいだった。
「最初に、言った」
「うん」
なんとなく、魚さんが頑張っているような気がしたので、私は見守るように、邪魔をしないように静かに相槌を打った。
「クラスで一番、猫さんが可愛いって」
「あ、うん。へぇ?」
言われた記憶はあった。
褒め言葉だけは一生忘れないように私の脳はできているのだ。
でも、答えにはなっていない。ツギハギの言葉を拾い集めて、元の形に正す必要があった。
「でっ、でもわたし・・・・・・あー」
口を開けて、いつもの餌を待つ鯉の顔になる。でもそれは、待っているんじゃなくて、言葉を探している素振りだったのかもしれなかった。
「接点ないから、猫さんと」
「まぁ、そうだね。鯉が降ってこなきゃ喋ってないだろうし」
「始業式の日初めて見て」
「うん」
「雷がピシャって落ちてきて」
「はい」
「でも席は遠いし、いっぱい友達いたから」
「そうね」
「でも、わたしは魚だから」
「あら」
魚さんがいきなり体を揺らし始めた。貧血かと思った次の瞬間には布団の中に頭を突っ込んだ。尻だけになった魚さんは、くぐもった声で私の名前を呼んだ。
「あの教室で魚になれるのはわたしだけなんだす」
「そうなんだすか」
魚さんが魚に憧れというものがあるのは分かった。そういう人は珍しいかもしれないけど、ハコフグの帽子を被ってテレビに出ている人もいるのだから、変ではないのだろう。
「苦手で、昔から。歯医者とか、痛いっていうと終わっちゃうから、別のこと言っちゃって、困らせて」
「は、歯医者ぁ?」
「ギュイーーーーーン!」
魚さんの体がどんどん布団に飲み込まれていく。締まりのある小さな尻が、チョウチンアンコウのあれみたいにゆらゆらと揺れている。あれって、なんていうんだろう。触覚?
「だからお母さんも心配してたんだけど、言葉がだめなら行動すればいいんだって思って」
「ほうほう」
「歯が溶け出してから歯医者に行くようにしました」
「たしかにそれなら、言わずとも痛いってあっちも分かるからね」
だけどそれは、解決策になっているのか?
「だから猫さんも・・・・・・ぶが」
飲み込まれすぎて、布団の反対から魚さんの頭が出てきた。
「たべてーって」
「たべてえの?」
「うん、たべてーって」
「まぐろ丼」
「そう、まぐろ丼」
「メガロドン!?」
「で、デカイ!」
抑揚のない声で魚さんが飛び上がる。
だけど顔はやっぱりまぐろ丼で、布団に入ったせいで乱れた髪が頬やら額やらに張り付いている。
「星って鳴くんだよ」
魚さんがカーテンを見て、急に哲学者になる。
「にゃーって?」
「キーンって。でも人間には聞こえないんだって」
「そうなんだ」
「うん、でも。ずっと鳴いてるんだって」
それは雄叫びや、遠吠えのようなものだろうか。それとも、見つけてーって、捨て猫みたいに鳴いてるのだろうか。そうだとしたら、ちょっと切ないな。
私たち人間は、聞こえない音で鳴いている星のもとまで辿り着くことができない。
「だ、だからっ、お願いします」
魚さんが、カーテンに向かって頭を下げる。
「そういうことなんです」
そして、振り返る。
正直、会話の意味も順序がめちゃくちゃで、魚さんが何を言いたいのか分からなかったけど。何かを伝えようとしているということだけは分かった。
魚さんももしかしたら、人間には聞こえない音というものを放っているのかもしれない。
おそるおそる近づいてくる魚さん。
私の肩に手を置いて、サーモンみたいな一切れを近づけてくる。わさびのないそれは、ゴムみたいにしょっぱいのに、何故か感触だけはゼリーみたいに柔らかかった。
「猫ー? 魚ちゃーん? お風呂沸いたから入っちゃってー!」
母の声がして、サーモンがすごい速さで逃げていく。
「わ、わたしが先に入るっ」
「遠慮ないな!」
ぴゅーっと魚さんが部屋を出て行く。
先どうぞって家主が譲る前に先に向かいやがった。
「うぅ」
まだサーモンの感触が残ってる。炙りではなかったな。とろサーモンに近いのかな。とろっとろしていた。胸焼けもするから、よほど脂っこかったのか。やっぱりとろサーモンだ。
「な、なんだよ」
嬉しいくせに、ともう一人の私が頬を突いてきた。
うるさいと撥ねのけて私も部屋を出たけど、階段を降りる足取りが浮き足立って仕方がなかった。
すでに浴室の扉は閉まっていた。一緒に入るのはさすがに恥ずかしいので私はリビングで魚さんがあがるのを待つことにした。
風呂上がりの魚さんが見たいとか、そういうことでもあった。
とはいっても、リビングというものは案外暇なものだ。
母は隣の寝室でストレッチに夢中みたいだし、父は残業らしくまだ帰ってきていない。テレビはお気に入りのチャンネルが昭和の歌番組に占拠されている。
「おーい犬、遊ぶかー」
ちょうどカーテンの端っこに猫パンチをお見舞いしている犬が目に入ったので声をかけてみる。
だけど犬は私には目もくれない。
ちょっと脚で小突いてやっても、近くで寝っ転がってやっても、犬、もとい猫、もとい動物っていうのは夢中になると周りが見えなくなるらしい。
こういうとき、自分を見て貰うにはどうしたらいいんだろう。
「裁縫箱に入ってる、あのなんか糸通すやつー」
その場でひっくり返って、脚をダイヤの形にする。
「ラジオ体操しながら何回タップダンスできるか挑戦します」
犬の前で奇怪なダンスも披露してみる。
「なにやってんのあんた」
ストレッチをしている母が、実の娘を軽蔑の目で見ていた。
「なんでもないわい」
父みたいな口調になって、私は冷蔵庫に向かった。
まぐろ丼に使い切れなかったまぐろが、小皿に乗っていた。
これ食って時間潰すか。
そう思ってテーブルまで持って行くと、さっきまでうんともすんとも言わなかった犬が私をじっと見ていた。
「まぐろ欲しいのか?」
ぶらさげてやると、犬がめずらしく甘えるような声を出して私の脚にすり寄ってきた。
猫ってほんと、魚が好きなんだな。
「ほれ」
犬の前に放り投げる。
餌付けとはいえ、こうしてようやく飼っている猫との接点を作れる私は、はたして本当に飼い主なのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・にゃーん?」
鳴いてみると、犬がまぐろを咥えたままこちらを見た。
その瞬間だけ、人間と猫ではなく、猫と猫になれた気がした。
気分が猫になると、身振り素振りが少し獰猛になる。皿に載った真っ赤なまぐろの切り身が「わたしを食べて」って横たわっているみたいに見えた。
浴室が開く音がして、お風呂上がりの魚さんがリビングまでやってくる。
「猫さんあいたよ」
「う、うん」
血行が促進されて体が赤くなった魚さんは、まるで小皿に載ったまぐろのようで。
わたしを食べてと、言っているみたいだった。
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