巨大な箱庭に囚われて

龍神雲

巨大な箱庭に囚われて

 精神的に未熟で現状に不満を抱えている人間は他人に執着するだけでなく、マウントや誹謗中傷をして自分のプライドや劣等感を解消しようとする、それが事実だ。そしてマウントも誹謗中傷も褒めるより簡単で、手軽に、誰にでもできるからたちが悪い──しかしここは違う、私がいるこの企業──もとい、この箱庭は、それに当てはまらないほどに異質で、私はそれに、永遠に囚われることになるとはこの時、思いもしなかった──


「ねぇ凪良さん。あなたの後輩の木下さんに対して、あなたの言い方がきついって聞いたのね?私が凪良さんに言った事をそのまま木下さんに伝えるのはよくないから、優しく言ってあげてね」


「──はい」


凪良こと、凪良亜香里なぎらあかりは、言いたいことをのみこんで返事を返すが心内では否定していた。


(私は言い方なんて、きつくした覚えはない……)


女上司の水戸雪が言ってきた後輩の件は語弊がある。木下は私が口を開いて言葉を言い出そうとした瞬間から泣き出したのだ。私にはそれが嘘泣きだと分かっていた、彼女はわざと嘘涙をみせて、周囲の同情を誘っていたのだ、後輩の木下、否──木下綾加という十九の女性社員は完全なる心の病気だ。木下は早々と、前にいた部署から私の部署に異動してきた。あまりに早い異動に疑問だったが、その際、前にいた部署の先輩社員が忠告してきた──


「あの子は怖いよ──。本当に怖い、気を付けてね」と。だが私はそれに関して深くは考えず、大方、仕事でミスをするぐらいだろうと、まだ会社に入って間もないし──そう思い、ミスしやすいならフォローしようだとか、仕事のマニュアル──といっても簡単な入力操作ではあるが、彼女が分かりやすいように入力でミスしないコツや基本等を作り、ミスせず作業しやすいように取り計らったのだが違った。彼女は、木下は、自分のストレス発散相手を探し、わざと問題を起こしていただけだった、他部署の先輩社員の忠告はそれだったのだ。おまけに女上司の水戸雪も社員の陰口を言うのが大好きで、それを趣味としていた為にあっという間に私に対する根も葉もない噂が広がった。そして更に悪いのが長年、この会社にいる、マウントするのと社員をイビるのが大好きな女部長の山原ちかで、山原ちかを筆頭に、水戸雪も木下綾加も益々拍車を掛けるだけでなく、お互いにつるみ始めたので仕事の環境はとんでもなく最悪で劣悪になったが、他に就職口がなく、此処しか選べず、今更ながら他の企業に勤まる気もしないので仕方がなく、この企業に依存するしかなかった。


 いわゆる、私の世代は就職氷河期だった。大学や専門などの道もあったが、大学や専門に行けば高卒とは違い、更に就職の条件が高くなると、学校の先生に言われ、自ずと高校卒業と同時に就職を考えた。だが求人票は少なく、希望する就職先も限られていた。頭が良ければ国家公務員になる道もあったし、国家公務員になれば就職先も選びたい放題であるのは、従兄弟が国家公務員だったので事前に知り得ていたが、私の頭のできは従兄弟と異なり、よくもなければ、可もなく不可もなく、むしろそれ以下で、必然的に学校にあるだけの求人票の中から選ぶ──その選択肢しか残されてなく、そして最終的に受かった企業が今いる、環境の悪い企業だ。


「そうだ。あと掃除場所も自分が担当している場所だけじゃなく、気付いたら他の場所も掃除しなきゃ駄目よ。正社員は通常の仕事だけやればいいわけじゃないから。こないだトイレの洗面所の隅に埃がたまってたから、そういう所も綺麗にしとかないと不味いから。分かった?」


「──はい」


私の顔も、声も、何の表情も色も映し出さなかった、能面だ。この企業で生きていくには一切反抗せず、ただ粛々と──能面でやり過ごすしかない、たとえどんなことが起きようとも。そうでなければ──


「ねぇねぇ、辞めた水原さん……自殺したんだってね」


「へぇ~、そうなんだ。そこまで思い詰めてたんだ。可哀相に」


「はぁ?可哀相なんて微塵も思ってないでしょ?あんた水原さんにきつく当たってじゃない」


「だってあの子、とろかったんだもん。見ててイライラするっていうか、なんとなく?目障りだったからさぁ」


「ひっど!」


「だってさぁ、爪弾きは一人いないとやってけないでしょう?そういう奴を見繕ってぇ、敵にしといたほうがよくない?」


「確かにね」


自殺した水原と同じような運命を、道を、歩まされるかもしれない。だからこそ一切反抗せず大人しくしといたほうがいい。特に女が多いところでは尚更だ。彼女達が覇権を握っているのだから、それを覆そうなんて、余程の身の程しらずか命知らずでしかない──

私は反抗せず、粛々と言われたことだけをこなし──いや、こなすようになった。そして私の双方の瞳は無気力に、手は長年親しんで慣れた手癖でひたすら仕事を、打ち込み作業をしていた。それがこの企業で生きる知恵で生き残る術だ。しかし思いもよらぬ事態が、それを覆す事態が起きた。中途採用の二十代の女性が入社し、今までの関係性どころか、会社の雰囲気さえがらりと変えてしまったのだ。


新山にいやまミサでぇ~す。よろしくねぇ!ミサわぁ、会社のことぜーんぜん分かんないのでぇ、優しく教えてくっださーい♪」


新山ミサという女性社員が入社し、この新山ミサ──否、ミサがこの企業の代表取締役の孫娘ということで、今まで長きに渡って行われていたカースト制度が崩れたのだ。ふざけた喋り、化粧は厚め、馬鹿そうな雰囲気を発していたが、親の七光りとはいえない程に有能で、仕事もそつなくこなすだけでなく、今まで鬱屈とする原因となっていたお局から問題児社員まで全て、手中に納めてしまったのだ。


  *   *   *   *   *   *


「なぁ亜香里、前より表情よくなってないか?」


「そう──かな?働く環境が前より少し、良くなかったからかな」


企業環境が変わり、高校時代から付き合っている彼氏の富長ゆずるとも会う頻度が増えた。前は会うのも億劫だったのに、環境が変わるだけでこんなにも良い変化が訪れるとは驚きだ。そして穏やかで和やかな日常が訪れたある日のこと──


「あなた、亜香里さん……だったわよねぇ?」


ミサが仕事終わりに私に話し掛けてきた。会社で挨拶はするものの今まで話したことがなかったのと、このミサという女性の存在も気になっていた私は軽く会釈をし、はいと受け答えればミサは穏やかな笑顔で切り出した。


「ミサはね、あなたのことがずっ~と気になってたの!荒れた企業にいながらもあなたは逃げ出さずに、真面目に、黙々と仕事をこなして──それって凄いことよぉ?」


「──ありがとうございます」


だが違和感を感じた。まるで前からそれを知っているような雰囲気で言われたからだ。ミサは最近、入社したばかりだ──詰まりはこの企業の代表取締役が、この企業の内部事情を孫娘に伝えていなければ今の不可解な話は成立せず辻褄があわなくなる訳だが……私が思案顔を浮かべていれば、ミサはくすりと妖艶に笑った。


「ねぇ亜香里さん、あなたに見せたいものがあるのよ。来てくれる?ていうかぁ、来て欲しいなぁ──ダメ?」


この企業の鬱屈とした原因を親の七光りではなく、仕事と己の魅力のみで納めてしまったミサに興味が沸いていたのもあるが、先程の違和感を突き止める為にも二つ返事で承諾すれば、ミサは嬉しそうに微笑み「それじゃ、ついてきてぇ。案内するから」と、スキップでもするかのように駆け出した。無邪気な雰囲気のミサに少し圧倒されながらも、私はミサの後を追った。そしてエレベーターの下降のボタンを押し暫くしてから、ミサは再び話し始めた。


「この企業には秘密の場所があるのよ。秘密の場所は地下にあってね、それを亜香里さんに是非、見てもらいたくて」


「あれ、でも地下なんて……」


そう、この会社には地下なんてものは存在しなかった。だがミサは面白そうに一笑し、開いたエレベーターに乗ったので、疑問に思いながらもエレベーターに乗れば、ミサはエレベーターに備え付けられているパネルを両手で躊躇いなく外した。すると中は二重構造になっており、一階から五階までのエレベータのボタンではない、地下一階のボタンが表れた。


「これは……」


「ほら、ね?あるでしょぉ~?地下一階のボ・タ・ン!」


私が驚きの声をあげれば、ミサはスタッカートを利かせながら投げ掛けてきたので、その言い回しがなんとなく面白く、思わず笑顔になり、「うん、あるね」と笑えばミサもまた笑い、それから地下一階のボタンを押した。そしてエレベーターは今いる五階から更に一階に、地下へと下がっていき、軈て、ゴウンとした機械音が暫く続いた後に扉が開いた。するとそこは鉄骨剥き出しで、まるでドームさながらの広さと造りの空間が広がっており、企業とは言い難い構造に吃驚したが、ミサはそこを自分の家の敷地を歩くかのような足取りで進んでいたので、ミサに遅れないように後を付いていった。

暫く歩いていると今度は格納庫のような分厚い扉が見え、その横に指紋認証システムが設置されており、ミサがそこに手を翳せば扉が開いた。すると中には見たことのない端末やら機械やら、まるで一つのシステムのような物が存在しており、そこに数名の人──白衣を羽織った研究員らしき男性達がいたが、どの男性達も今まで一度も見掛けたことがなかった。更にその奥には、今までマウントをしていた社員の上司達もいたが、みな一様にVRのようなヘッドセットを被せられ座らせられているだけでなく微動だにせず鎮座していた。


これは一体……?


「面白いでしょ?」


そんな私の疑問を打ち消すように、不意にミサが私の腕に絡みつき話し掛けてきた。


「今までマウントしてた人達、。最初から丁寧に管理してあげれば自殺する人なんていなくなるし、みんな平和に仕事するようになるでしょ。でも少しのストレスを与えないと人って怠けてしまうでしょ?だからね、少しのストレスになる人物をここで作り上げて、それをたまに放って──と、それを交互に繰り返せば、ミサが目指す理想の企業で、定年退職するまで楽しいって自動的に錯覚して働いてくれるだろうからこの企業は安泰だし、社員達もみんな等しく幸せで安泰……こんなに良いことないよね」


飴と鞭──いや、究極のマウントによる管理……そんな考えがよぎり、胸の動機が徐々に激しくなっていく。


「あら亜香里さん、顔色が悪くてバイタルデータにも乱れの波形がでているようだけどぉ──大丈夫ぅ?」


「──えっ……?」


ミサが腕から今度は私の体に抱き付き、抱擁するかのように覗き込んできた、その顔は無邪気ながらも、どこか異様な雰囲気が漂っていた。


「あ、そっかぁ~♪まだ亜香里さんには言ってなかったよねぇ、この企業に入社した人達はいつでもどこでもデータが取れて見れるようになっているのよぉ」


──は?


「ふふ、驚いたぁ?この企業にはねぇ?独自のマイクロチップがあってぇ~この企業に入社するともれなくどの人の体内にも、企業オリジナルのチップがプレゼントされるのよぉ♪」


プレゼントって、いつ──、どうやって──……?


それを考えているとミサはさも楽しそうに笑い、紡ぎだした。


「亜香里さん、よく思い出してぇ、新入社員歓迎会の時にぃお酒を飲んだでしょ?あのお酒の中に入っていたのよぉ~小さくてぇ可愛いナノチップちゃんが。でもそんなに心配しなくても人体に影響ないから安心してねぇ?とりま、亜香里さんの個人情報も、今の感情のバイタルもぜぇ~んぶ、ここで管理されてて分かってしまうの♪異常が見付かれば直ぐに教えてあげるからねぇ。それに私、亜香里さんのことは大好きだから。だって貴女は絶対に逃げないの、ミサ分かってるものぉ。あなたを入社当時からずーっと此処で見てきて確信したの。他社にはいかず、この会社にしがみつくことしか頭にないから。だから大好きよ?ずっとミサのそばにいてね。あなたのことはミサが大事に大事に死ぬまでずーっと守ってあげるから」


くすりと笑ったその顔はおぞましい程に美しく、そして私はこの企業から──否、この狂った箱庭から脱出する術がないのを知った。


「あら、とても良いお顔ね、大好きよ──ねぇ、私達きっと仲良くなれるわ。この話をしたのもあなたが初めてなの。ずっとあなたを見てて、あなたなら私が目指す理想の企業を理解してくれると思って──ううん、理解しなくても、この話を聞いたとしても、あなたは絶対に逃げないと思ったから」


瞬間、吐き気を催しそうになった。今まで全部、なにもかも見られていたのだろう──このミサという女に。そしてこれからはこのミサという女に、徹底的に管理マウントされることになるのだ──


  *   *   *   *   *   *


その日を境に、私の生活は大幅に変わった。ミサと共に管理する側に立ったのだ。勿論、この企業を辞めるつもりもなければ、ここから逃げる、命を絶つという行為も勿論するつもりもない──自己保身の為なら、何としてでも生きる為なら、悪魔にだって魂を売れるからだ。私もミサという女となんら変わらない、そしてカースト制度を築き上げた者達となんら変わらない──最低な人間だ……だがそれを悪いとは思わない。私にはそれしか方法が見つからず、無く、先にも言ったが生きる為だ。ミサという女は少なからず私を気に入っている。だから気に入るように、機嫌を損ねないように、これからも振る舞えば問題ない。私の今の社会的地位も、立場も安泰だ。今までよりもずっと楽に生きていけるのだ。そして何より、今まで以上に賃金も良い──だからこそ、この地位を守らなければならない。そう思い、言い聞かせて──


  *   *   *   *   *   *


『なぁ亜香里、最近なんか──疲れてる?俺とあんまり会ってくれなくなったし……』


「うん、ごめん──今、仕事が立て込んでて……」


『そうなんだ。分かった、また落ち着いたら連絡して。無理言ってごめんな?』


「ううん、気にしないで。私のほうこそ、ごめんね……また連絡する、それじゃあまたね」


彼氏の富長ゆずると会う頻度は自ずと減少し、電話のみのやりとりになっていた。ゆずるに頼りたくても、言いたいことがあっても、言えない──何せ私の体内にはこの企業のチップがあり、常に監視されているからだ。言ったらどうなるのか──……考えるだけでぞっとするが、だがそれも、限界にきていた──


ミサと共に地下の仕事と、通常業務の仕事をして半年が経過した頃、五階の部屋で、誰もいなくなった室内で残業をする最中、ミサが現れた。


「ねぇ亜香里、あなた前より随分と良い顔になったわね。とても素敵よ」


ミサはうっとりとしていた。相変わらず私にベタ惚れなようだが、いつ、ミサの脅威が私に向くか分からない。


「ありがとう御座います」


今まで通り、余り深入りしないように能面のまま応対していれば不意に、ミサが切り出した。


「そうだ亜香里、今度新しい研究データを取りたいんだけどねぇ、あなたにそれを一任していいかしら?」


「え、私にですか……?」


「ええ。亜香里の好きに、思ったままにやってくれていいわよぉ」


するとミサは端末を操作し私のスマホになにかを送ってきた。


「ちょっと見てみてくれるぅ?」と、透かさず言ってきたので、ミサに言われた通りそれを開き見れば、そこにはこの企業に勤めている社員複数人の名前が記載された名簿がざっと並び、更にその下をスクロールしていけばその終わりに【被験者】という文字で締め括られていた。これは一体どういうことなのか、それを聞く前にミサが説明した。


「これはねぇ、新しいチップを飲ませる為のリストよぉ。どういう変化が起こるか分からないからぁ亜香里が直接、この人達の経過観察をしてほしいの。今の社会って管理される体制でしょ?だからミサもぉ、その最先端をいく企業を目指したいのね?前にも言ったと思うけどぉ、ミサは誰もが羨むとぉっ~ても平和な企業を目指したいの!誰もが大人しく、言われたままに、なにも考えずに無心に働いて──そうすれば安泰よねぇ~」


私は肯定できなくなっていた、これは──犯罪じゃないのだろうか……


「ねぇ亜香里──、亜香里ならできるわよねぇ?」


私の側にミサがしなだれ掛かってきた。俗悪な微笑みを湛え、私を見ているその目はまるで、虫や家畜でも見るような目付きだと、今更ながらに気付き、気付かされた。私の命運はこの女、ミサという無邪気で狂気的な女に握られている、答えは一つしかない──『はい』だ。それ以外も、それ以下もない。だが私は肯定できないでいた。肯定してしまったら、私は……


動悸がまた激しくなってきた。今まで通り『はい』と、従順に答えればいいだけだ、何を躊躇する必要があるというのか、私は一体、どうしてしまったのだろうか──


「どうしたの亜香里?この仕事──イヤ?バイタルの乱れがスゴいから、イヤなのかなぁ~って思って……」


ミサは気落ちした様子を見せたが──


「ねぇ亜香里、この先もずっと幸せにこの企業で、そしてあなたの大事な彼氏の富長ゆずる君とも幸せに生き永らえたいんでしょぉ?だったら、答えは一つしかないんじゃないかしらぁ?ね──そうでしょ、亜香里」


「……っひ、いやだ、もう嫌……イヤァアアアアアアア!!!!!」


冷笑を浮かべ最後の審判を下してきた彼女に、この企業の異質さに、管理体制に、全てに耐えられなくなった私は彼女を突き飛ばし、部屋に設置されている開け放たれた窓まで走り、そこから身を乗り出し躊躇いなく飛び降りた。ここは五階だから確実に死ねる──これで漸く、ここから、全てから解放される──私の意識は遠退いた。


だが気付けば病院でもない企業の地下の一室で、色んな管と電子機械に繋がれ私は横になり、そしてそこには──


「あっ!漸く起きたのねぇ~亜香里さん。体の骨が色々折れちゃったりしてるけれどぉ、奇跡的に助かって、ミサ安心したぁ。亜香里がいなくなったらミサ困るもん──だってミサの唯一の特別の家畜おともだちだから。だからこれからは、あなたが苦しまないようにぃお薬投与しながら此処で、ミサがずーっと死ぬまで見ててあげるからね?だから安心してね?ミサはあなたのことが大好きよ」


ミサがいた。ミサは横たわる私の側でいつものフレーズを紡ぎ──


「そうそう、それと今度から新しいチップはあなたに使用してぇ、経過観察しようかと思ってぇ~。ほら、見てこれ!ミサはあなたとぉ、今後の企業の為にもたぁ~くさん作って持ってきましたぁ~イェーイ♪」


無邪気に、狂気に、なんの罪の意識もなく笑いひけらかす。だが彼女はそれでも美しく──


「フフッ。ねぇ亜香里、これからもよろしくねぇ」


聖母のような優しい眼差しと狂気なる笑顔を向け、不意に、シミもシワの一つもないミサの手が私の頬をそろりと撫でた。その感触は人の体温を発しながらも、どこか冷たく、まるで物を扱うような手付きで──


「さぁ亜香里、今からお薬投与のお時間よ?痛くないからだいじょうぶよぉ、それにミサがついてるからねぇ」


小鳥の囀りのような声音は、私の五感をゆっくりと支配していき──


「亜香里、あなたの体はミサの理想の企業実現の為に貢献するんだもの。あなたとこうして共に歩めて、ミサはとっても楽しみで幸せよぉ」


点滴の管を、針を通って伝い、私の体を流れるミサの思いは、神経細胞のシナプスを、大脳にまで到達し──


「あがああ……がああああ……あぅああああ……」


「ありがとうね、亜香里──ゆっくり休んでねぇ」


幸せや愉悦とは言い難く、ほど遠く、真っ黒な空間を浮き沈んではさ迷う──それを何日も、何年も、何十年もずっと、生き永らえている限り繰り返さなければならない、地獄のような苦痛を──私にプレゼントしてきた──


  *   *   *   *   *   *


「ねぇ、最近さぁ亜香里さん見掛けなくない?」


「亜香里さんって──……ああ、黙々と仕事してた寡黙な子?そうねぇ、見掛けないわね。一時、代表取締役の孫娘の新山ミサって子とよく一緒にいたけど、とんと見掛けなくなったわね。まぁ一人社員を見掛けなくなったからって、どうってことなくない?それよりさ、前に問題ばかり起こしてた水戸雪と山原ちかと木下綾加、あの三人、何があったのかしらね?前と雰囲気が違うっていうか、別人っていうか、社員イビリも問題行動も起こさなくなったじゃない?毎日バカの一つ覚えのようにネチネチしてたのがすっきりなくなってさ。どうなってるのかしら、不思議よね」


「そうねぇ。ほんと不思議よね。不思議といえば、私達がやってる仕事って一体なんなのかしらね?何時も端末データを渡されて、その数値を入力するだけの単純作業だから少し気になって」


「あー確かに。でもさぁ、ただ渡されたデータを打ち込むだけの単純作業だから楽よね。だってなんにも考えなくてすむじゃない。この企業に入社できてほんと良かったわぁ」


社員達は何も知らない、その数値が私で試している実験結果の数値であることを──


社員達は何も知らない、新山ミサの理想の企業を目指す為の家畜となっていることを──


社員達は何も知らない、いずれ新山ミサの餌食になることを──


「そろそろ社員達がマンネリ化する頃ねぇ。またマウントさせる人達を総動員して、適度にストレスあたえなきゃね──辞めずに、死なずに、自殺もしない程度に」


ミサはふふっと笑い研究員達に指示した。


  *   *   *   *   *   *


「水戸雪と山原ちかと木下綾加に、ドーパミンとセロトニンがでないように配合してちょうだ~い」


研究員達はその一声で即座に動き、彼女らが被っているヘッドセットから亜香里──こと、私から取ったデータで抽出した、不快なシグナルを与える端末を差し込み、それを流し込んでいく。


「明日からマウント三人組の復活ね。楽しみだわぁ。これでまたミサの理想の企業に一歩前進ね。ふふっ、今度はどんなデータが取れるのかしらぁ──ねぇ、亜香里も楽しみよね?」


「あが……あがああ……」


「ふふっ、亜香里も楽しみなのね。バイタルデータに乱れの波形がすごい勢いででるわぁ♪すっごく素敵♪そうそう、あなたの彼氏の富長ゆずるにもミサが成り済まして返事を返しておいたわ──”もうあなたとは会えない、さよなら”って。だってあなたが愛しているのは、この私……ミサよね、そうでしょう──亜香里?」


そう語りかける笑顔はおぞましいほどに美しかった。そして私は知った、マウントの最上級は家畜化なのだと──そして私は永遠に、それに囚われている──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

巨大な箱庭に囚われて 龍神雲 @fin7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ