匿名ばかりのカメムシ山!
@wizard-T
匿名の臆病者
「お疲れ様でした」
クランクアップを告げる声が鳴り響く。僕の仕事も今日でひと段落だ。
「板野さん」
ああ清水さん、お疲れ様でした。
「これから打ち上げなんで板野さんもご一緒に」
そうですか、それでは喜んで。
嫁を取る事もせず、よりよい家を求める事もせず、大した贅沢もせず、仕事一筋で二十七年。
その結果得た物は二千万円少々の貯金と取材のスキルと人脈、それが全てだった。だが僕は後悔などしていない。
志。その一文字を忘れた日は一日だってありはしない。
新聞社に身を置いてから二十七年、時には本意と異なる記事を書かされた事もあった。
一晩かけて書いた原稿をはいやり直しの一言で無下にされた事もあった。その時の悔しさは忘れてなどいない。ずっと僕は今の日々を夢見ていた。下地が出来上がったら退社して思いっきり好きな記事を書いてやる、その時がようやくやって来たのだ。
男板野和夫、五十歳。これからだ。
「お疲れ様でした」
クランクアップの席上。僕も出演者一同に混ざって焼き肉を囲ませてもらっている。と言っても部外者である僕は出しゃばって肉をむさぼるような事はしない。匂いだけで腹いっぱいになるほど食が細い訳ではないが、それでも礼節と言う物があるだろう。
「今回は正直大変でしたよ、二十代と五十九歳の役を一遍にやるのは」
今回、僕がしていた仕事は時代劇の取材だった。この時代とは思えない野心的な視点で描かれた時代劇、一言で言えばそんなドラマだ。
北条義時と言われて、どういう人物かピンとくる人間はそうそういないだろう。いたとすればそれは受験勉強真っ只中の中高生か、日本史にくわしい人間かのどちらかだろう。そしてその両者にしたって、鎌倉幕府の二代目執権であり征夷大将軍である源氏から権力を奪い取り六波羅探題を作った人間と言うのがせいぜいの認識だろう。だがそれは北条義時が五十代になってからのお話であり、今回はその北条義時の生涯を二十代前半から六十歳の頃まで追って行こうと言うドラマだ。北条政子と言う強烈な存在に隠れがちな北条義時を描く、素晴らしい視点だ。
「まあねえ、私らもこれ以上の物はないって信じて脚本を書き上げ役者を選んだ手前、今更言われてもどうしようもないってのが現実でね」
現在進行形で撮られていた以上、撮影中も放送分の回について様々な批評が飛んだ。このクランクアップの前の日に、全十二話の内の第七話の放送が終わった所だ。ひと月以上このドラマにくっついていた手前、ずっとドラマのレビューを書いていた僕の元にも様々な批評が飛んでくる。
「どうなんですかねその辺り、ぼくなんかは新米なんでその辺り余り慣れてないんですけど。よく言われますよね、役者殺すにゃ刃物は要らぬとか、その辺りどうなんです」
「僕としては素晴らしかったと思いますけれど」
――清水雅人さん。二十六歳の俳優にして今回の主演だ。第一回の時は十九歳、最終回には六十歳の北条義時を演じる事になった。その途中には三十代四十代五十代の場面もあり、それだけの年齢を重ねた姿を演ずるのは大変だろう。立場も背格好も、何よりも時代が違う。ひと月くっついていた僕が見た所、少なくとも落ち度と言う点があったようには思えなかった。いわゆるイケメンとかと少し違う、良い意味で若さを感じさせないような顔が良い。二十年後にはもっといい俳優になりそうだ。
「そうですか、でもいろいろ来てるそうですよ。ああぼく自身は事務所からいろいろ危ないんでって理由でツイッターもフェイスブックもLINEもやらせてもらえないですけど、それでもマネージャーの所には結構来てるみたいでしてね」
「どんなのが来てた訳、マネージャーからその辺り聞かせてもらってんじゃないの」
「まあそうなんですけどね、マネージャーさんもその点については厳しいと言うかなんというか、まあそれはぼくが未熟者だからなんでしょうけど」
「それは……どうですかねえ」
「あれ浮山さん」
「ちょっと失礼」
どうやら役者としての成長を促すためか、わざと厳しい言葉ばかり集めて聞かせているらしい。
立派な話だと思うが、僕としてはどうかと思う。僕が清水さんのマネージャーのやり方に対しいかがなものかと言う意を示した事に対し困惑した表情になった清水さんに軽く一礼して、僕はスマホを取り出した。
ジャーナリストとして当たり前ではあるが、情報には敏感でなければならない。その為にツイッターもやっており、日により程度の差はあるがきちんと書き込んでいる。最近はこのドラマの密着取材に関する話が大半だが、少ないプライベートやそれ以外の時事ネタもそれなりに書き込んでいる。それでとりあえず清水さんと焼き肉を撮って、適当に書き込んだ。
「板野さんだって二十七年記者として務めていて記事に対し何かクレームとか来た事があるんでしょう?その場合どうしてました」
「そこんとこ教えて欲しいんだよね、オレどうも打たれ弱くてさ。カミさんからちょっと怒鳴られただけで一日へこんじまって気合が入らなくなっちまってね、もう最近じゃカミさんもあきらめたのかよっぽどの事がない限り怒鳴らなくなっちまったけどね」
清水さんとカメラマンの男性が箸を止めてこちらを見ている。せっかくの焼き肉をこらえてまで聞きに来た以上、答えない訳にも行かない。僕も同じように焼き肉をつかもうとした箸を止めた。
ああ、タレに向かって滴り落ちる油が輝いている。
「批判と言っても種類がいろいろありますよね、失礼を承知でお伺いしますけど清水さんのマネージャーさんはどういう類の批判を清水さんに聞かせているんですか?」
「どういうって…まああそこがなってないあのセリフが棒読みだあれじゃ振る舞いが弱いだの…」
「まあ僕には演技の良し悪しって奴はあんまりわかんないですけどね、批判の良し悪しぐらいはわかるつもりですよ。んーそうですね、その心としてはですね、名無しの権兵衛は信用しない方がいいですよ」
名無しの権兵衛。
我ながら何とも古い言葉だが、長年の体験であまり強烈な言葉を使わない方がいい事はわかっている。
「名無しの権兵衛…えっと」
「えっとっておい、昔から言うだろ!名前がわからない人間の事をさ、名無しの権兵衛ってよ、ったく…で、なんで名無しの権兵衛を信じちゃいけないんすかねえ?」
「名無しの権兵衛って、実に便利な言葉ですよ。何せ名無しなんだから、誰にでもなれる存在ですよ」
日本人どころか、地球人全てが誰かにとっての名無しの権兵衛であり、ジョン・ドウであり、張三李四である。どんなに有名な人間であろうとも、聞かされた本人が知らなければそれは名無しの権兵衛と変わらない。
逆に言えば、名無しの権兵衛と言う仮面をかぶる事により人間はみんな誰かのふりをする事ができる。本人がよく知っている誰かのふりだけではなく、本人がなりたいと望む理想の人間の真似もできる。
「それじゃ名無しの権兵衛って最強ですね、僕も憧れちゃいますよ」
「役者はそれでいいと思いますよ、僕としては。問題は最近役者じゃない人が猿芝居を働こうとする話がやたら多い事でして」
「猿芝居?」
「まあな、情報のプロっすからね板野さんも。情報について何にも知らないくせにああだこうだとワーワー言って来るやかましい連中に辟易してるんでしょ?」
全く、このカメラマンは実に素晴らしい報道人だ。インターネットやツイッターと言う新たなメディアの出現は、芸能人を始めとした有名人と一般人の距離を一挙に近づけた。だがそれが何をもたらしたか。
懐古趣味を振りかざすつもりはない。
しかし昔はドラマの演者にケチをつけるにあたっては、まずケチを付けたい俳優が所属している事務所の住所(テレビ局に言うようなピント外れなど考慮する必要はない)を調べなければならなかった。そして、ハガキと書く物と切手がなければいけなかった。これだけで相当に面倒くさい。この時点で生半な批判の気持ちは薄れてしまう物であり、よほどの思いがなければそのような行動には移れない物であった。
となるとそのような行動を取るのはよほど深い憎悪を抱いているかよほど芝居を知っているかのどちらかとなり、前者であれば当ての付けようや恐れようもあるし後者ならば大事な金言として受け取る価値が生まれる。
「この大根野郎、そんな言葉を打って送り付けるのに5秒も要りませんからね」
だが今は切手もハガキも要らない、住所を調べる必要もない。インターネットで検索をかけて相手の事務所のホームページや相手本人のツイッターやらなんやらを調べればすぐさま罵倒の言葉を投げ付ける事ができる。実に手軽だ。
だが所詮、手軽な物には手軽さ相応の価値しかない。
「言ってましたよ、俺の俳優仲間も。ツイッターってのは交差点で大声で叫んでるのと何も変わりゃしないって。気を付けないといけませんね、はいどうぞ父上」
義時の後継者である北条泰時役の二十歳の俳優が、カルビを胃に流し込みながら清水さんにうまそうに焼けた肉の乗った皿を渡した。実年齢は六つしか違わないがドラマの中で父上と清水さんの事を呼んでいたせいかオフでつい清水さんの事を父上と呼んでしまった事をスタッフに面白がられて以来、今では彼自身も好んでそう呼んでいる。微笑ましい話であり清水さんも含めてスタッフ一同から思わず笑みがこぼれた。思わず僕も笑ってしまった。
「全く、こういう時間は本当に貴重ですよね」
「本当、実に素晴らしい」
このドラマが始まった時には、初顔合わせなどと言う事でぎくしゃくしていたり反りが合わず会話がなかったりした人間同士がいた。それが今やこうして仲良く酒を酌み交わし焼き肉を摘まむ仲になっている。なんと素晴らしい事か。
「一応評とかはできてるんでしょ」
「まあそうですね、後は細かい修正をしてそちらさんに送る予定です」
「それはありがたいですけど、大丈夫ですか放送されてないのに」
「もちろん放送後の評判は多少気にしますけどね、多少は」
新聞記事を書いていた時からそうだ、多少の批判を気にしていては記事なんか書けないと上司に教わって来た。大衆紙である以上、どんな人間が見るかわからない。
こんなにうまい肉だって、健康とか宗教上の理由とかではなく単に味が合わなくて食べられない人間は山といる。そういう歴とした事実と何の違いがあると言うのだろうか。
2LDKの我が家に帰宅してそのまま打ち上げについての草稿をノートパソコンに叩きつけてまとめた僕は、仕事もひと段落したしもういいだろうと思いツイッターを見てみた。
全く昨今のツイッター中毒者とかはこんな時でさえも帰宅したとか何とか書かなければ気が済まないのだろうか、いくら僕が五十歳独身男だからってそんな事はしない。
それにしても全く暇人が多い事多い事、金曜日の午後十一時って言う時間帯とは言えどうしてこんな事が書けるのだろうか。
ああああ 19:52
あのーもしもし、先生はギャグをおっしゃってるんですか?
誰か三太郎 19:58
現実を見ろ
くぁふじこ 20:01
なんでもハンタイハンタイ、先生の人生楽そうでいいっすね
僕が政治的信条によって慕っている大学教授のツイッターに、今日もまたこんな心ない暴言が書き込まれている。
と言うか、リツイートが100以上あるってのに教授に対して肯定の意見は一つもありゃしない。しかもこれこれこういう理由だから肯定できないと言う理論的な物はほとんどなく大半は見るに堪えない罵詈雑言であり、いいとこ反証となるかどうかわからない、裏が取れていなさそうなデータを投げ付けているだけだ。
しかし先生はその悪口雑言に心乱される事なく、淡々と自分の思想信条を書き込んでいる。五年前に先生の著書を一冊購入した事もあるが、その時から先生のスタイルは全く変わっていない。こういう姿勢には敬意を表さずにいられない。フリージャーナリストになってからも予想外に多忙な日が続き先生の講義を聞けないのは残念だ。それをどこの誰だか明かす事もできない有象無象がよってたかってよくもまあ……個人的な政治信条を差し引いても全く感心出来るやり方ではない。
だからつい、こんな事をリツイートしてしまう。
板野和夫 23:12
全く、悪貨は良貨を駆逐するとはよく言った物ですね。悪貨に負けずに戦い抜いて下さい先生!
反応はないだろうが、昔から先生はプラスの意見にもマイナスの意見にも言い返す事がない人だから気にしていない。よし、寝るか。
次の日、午前六時起床。とりあえずこの土日は休みだ、来週はドラマについての原稿に校正を入れながら、新たな仕事の準備をしなければいけない。
とりあえず顔を洗い、新聞四紙に目を通しながら朝食を口に運んだ。古巣の新聞社を含め、代わり映えしないと言われている様でそれぞれの色がある。新聞なんぞ読まないとか抜かしている人間には一生味わえないだろう、至福の時間。
一時間かけて朝食と新聞の読破を終えた僕はスマホを立ち上げてツイッターを眺めた。別に書き込むつもりはない、単に見るだけだ。
ああああ 23:47
以前から浮山さんってあのデンパ教授かばってるけどなんでですかね?以前もスタイルがぶれてないとか言ってましたけど、見た所かなりぶれてる気がするんですけど
ユーキの 00:19
3年前の教授の発言→今こそ首相は海外に投資を行い我が国の技術を世界に広めるべし
今の教授の発言→首相はまず国内の事を考えていただきたい
………首相、変わってませんけど?
全く、夜遅くまでスマホやらパソコンやらに引っ付いてそんなくだらない罵詈雑言を、大して関係のない僕に向けて書き込んだとでも言うのか。
とことんまで暇な人たちだ。
思いっきりバカにしてやってもいいが、単に見るだけと決めた手前そんな事はしない。今はとりあえず新聞やニュースをチェックして思った事をパソコンに書き込んでおく。
もちろん人様に見せる事はしない、プロである手前下手な事を書く訳には行かないからだ。まあ僕自身初稿は勢い任せで書いてしまう事も多いが、それを一日経ってから見返すとひどい物を書いたなと少しだけ意気消沈する事も多い。残念ながら癖と言うべき代物であり、もう死ぬまで付き合って行かなければならないだろう。書く時は自信過剰に、見直す時は謙虚には僕を鍛えてくれた上司の口癖だ。その上司が原因なのか僕自身潜在的にそんな要素があったのかは今でもわからないが、いずれにせよ今回のドラマについての原稿も第一稿から十二ヶ所も手直しする羽目になったのも事実だ。
プロである僕でさえそうなのだから、素人はもっともっと気を付けねばならない。その事がわからないなどなんと気の毒な人たちなのだろう。
板野和夫 07:23
駟も舌に及ばず。古今東西つまらない失言で身を滅ぼした人間は山といる。
つい、こんなツイートをしてしまった。一応二分ほど考えた結果ではあるが、見るだけにしようと思っていた十数分前の決意をひっくり返してしまった辺り僕も弱い人間だなと思わずにいられない。仕方がない、このツイートは僕自身への戒めとしてトップに固定しておくか。
ああ、無駄な時間を使ってしまった。僕はスマホの電源を落とし、気付けのつもりで水を一杯飲んだ。休みの日だとわかっていてもあまりぐだぐだし過ぎるのは良くない。小学生の時夏休みの宿題をいつまでやってるのと親から言われた事もあったが、僕に言わせれば七月中に全部片付けてしまおうとする方が不健全だ。
僕はこの目で見て来たのだ、二学期の始めにぐったりしている同級生たちの姿を。一学期末期の延長と言う勢いで宿題を片付けその後八月の間遊び呆けた結果の姿は、正直痛々しくて見るに堪えなかった。
だから今日も明日も、午前中の一時間半ほどだけだが校正の作業はやめない。そしておざなりにしていた洗濯掃除、それと昼飯の炊事。長いひとり暮らしであるが、これらは欠かす事は出来ない。健康の為にも、生活のリズムの為にも。
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