第8話 出雲大社前の縁切りへ
更新しなければ、と思いながらはや半年が過ぎていた。半年!?本当に申し訳ない。待っていただいている方達には申し訳なさで頭が上がらない。私はこの半年の間に、文フリという小説版コミケみたいなものに参加していた。ただ色々とスランプであり、書こうと思っても文章が書けないという事態に陥っていた。そのため文フリでは過去作の焼き直しを行った。私が主催なのに過去作の焼き直し(どこにも出してはいないが)、参加してくれた皆にも申し訳ない。
初っ端からの謝罪ではあるが、さらにスランプと言ったが、本を読んだら直った。なので書きます。今月中には完成させようと思います。
ということで続きをどうぞ。
一畑電車に揺れながら風景を見ていると、私の視界一面に草原のような景色が広がった。田んぼだ。見渡す限りの田んぼ。夏に行ったので、頭を垂れるような稲穂の姿は無かったが、青々とした若芽が私を車窓から突き刺す。
止まった駅名を見ると、松江イングリッシュガーデン前駅とある。ここに寄ろうと決めた。
私は旅の目的として、どこか適当な駅で降り、そこを散策しようと決めていた。それは住宅街であってもいいし、自然のみが残る無人駅でもよかった。
ここだ、私はここで降り、自然を楽しまなければならない。いや、それをするほどの価値は間違いなくあるのだ。今日の目的は出雲大社だったが、新しい出会いに私はこの旅の成功の予感を感じた。
さて、私の一日目の目的地は出雲大社であるわけだが、その前に縁切り神社に赴き、一度縁を切っておいた方がより良いらしかった。出雲大社前駅への途中に、雲州平田駅という駅がある。ここには宇美神社という縁切り神社があり、出雲大社とセットで紹介されるほど、著名な神社であるらしかった。雲州平田駅で降り、この時、時刻は十二時前になっていた。道中で地元民が経営しているようなカフェへと寄り、ハンバーグ定食を食べた。客層はお婆ちゃんばかりであった。だが店内の雰囲気は白木の温かな雰囲気に満ちており、のどかな食事を楽しむことが出来た。
そうして進んでいると、ここでスマホが無いことの弊害が出てくる。宇美神社への道がわからないのだ。駅で駅周辺のマップを貰ってきてはいたが、Googleマップに頼りきりでいると、今自分がどこらへんにいて、どこを歩いているのか分からなくなってくる。ましてや地図に書いてある距離と実際に自分が歩いている距離が同じな訳はなく、本当にこのまま進めば到着するのだろうか? と多少の疑心暗鬼に陥った。そこで道中の工事をしている人に声を掛け、道を教えて貰った。彼はわざわざ仕事を中断して、一緒に大通りにまで出てくれ、こうこうこう行くとそこに辿り着けますよ、と笑顔で教えて貰った。私はしきりにお礼を言いながら、ようやく宇美神社へと辿り着いた。
宇美神社では狛犬ではなく狐の像が私を出迎えてくれた。神社の鳥居をくぐると、空気が変わる時がある。今まで夏真っ盛り、と言ったような熱気が、鳥居をくぐり、神社の敷地へと入った瞬間に弾けたようになくなるのだ。これは神様に歓迎されているのだと言う。
確かに、勘違いかもしれないが私にまとわりつくような熱気は消え、ふわりと体が軽くなったような気がした。
私は歓迎されているのかな、と思いながら本堂へと近付いた。
本堂前では木札が置かれてあった。これこそが縁切り神社として、縁を切るための木札なのだ。手の中に収まる程度の小ささのそれは、パキンと二つに折ることが出来、表に名前と切りたい縁、そして裏側に結びたい縁を書くのだ。
そうしてから二礼二泊一礼。中心から木札を折り、切りたい縁に息を吹きかける。それを縁切り箱に入れると、残った木札を持って縁切り神社へとお参りする。縁切り神社は本堂の後ろにあり、時計回りから回らなければならない。
裏にある縁切り神社へと木札を供え、祈願する。そして木札を持ち帰る。これが宇美神社の縁切りの作法であるのだ。
正直言うと、私はどんな縁を切ろうか悩みに悩んでいた。特段切る必要のあるものが思いつかない。私は無難ではあるが、今までの自分に縁切りを願い、そしてこれから良い人間と出会えることを願った。旅行に出てから半年、確かに今までの自分と縁を切るような出来事があった。そしてより良い私へと導いてくれるような人間にも出会えた。
こういう神事などに対して、基本私は全てをあるがままに受け入れるが、それは映画を見ているようなもので、実際には信じていない。あるものとは受け入れるが、だがそれを私の絶対的な価値観とは置かないのである。神頼みが成功した。だがそれは時間が経過していれば、どっちみち起きた事象でもあるはずだ。あるいはそう願ったことで、私自身がそうあろうと無意識にも努力する。結局のところ、神への祈りとは、誰にも言わない自分自身への約束として機能する。
それはある意味どんな約束よりも強固になりうる場合がある。思い込みとは、それほど強いものなのである。
だからといって、神様なんかいないし、超常現象だって嘘っぱちに決まっている、なんて全く面白くない。嘘だとは思っていても本気で騙され、信じる。それが何事にも楽しむためのコツでもあるはずだ。
ある意味、とても日本人らしい宗教観であるとも言えるのかもしれない。八百万の神様はいるのだ。それの実態が、物を大切にする、という生活の教えのためのものであったとしても。
宇美神社の周りには木綿街道という街並みがある。京都の二寧坂程とは言わないまでも、石畳の道が続き、それを囲むように武家屋敷のような建築が立ち並ぶ。どうせ昼飯を食ったことだし、私が降りてから次の一時間後の電車には間に合わないのだ。この街並みを散歩することに決めた。
木綿街道には醤油を製造している店や、地ビールを売っている店があった。だが通りを歩いている人はあまりいなかった。地ビールを買おうか悩んだが、私はあまりビールが好きではない。そぞろに散策を終え、駅へと戻った。
時刻表を確認すると、次の電車まではまだまだ時間があった。暇つぶしに本を持ってきてはいたが、本当に気持ちのいいくらいの青空だ。駅前にはローソンがあった。
店内で蘇るような気持ちのよい冷房を浴びて、私は酒とつまみを買った。駅前の階段に腰掛け、私は酒を飲みながら往来する車を見ていた。夏だ、と私は浅い感想を思う。だがこれがいいのだ。これでいいのだ。
夏の青空は秋には出せない爽やかな空気を生む。私は秋よりも夏の空の方が好きだった。綺麗だと思う一番の青で塗りつぶされ、もくもくと湧き出る入道雲はルネサンス期の絵画を彷彿とさせる。白いタンクトップのおじさんが、サンダルでぺたぺたと歩いていた。私はおおいに満足した。
駅に電車が着いた。ホームで待っていると、駅員が話をしていた。彼らの話に耳を傾け、親子連れが小さな女の子の世話をしていた。私は出雲大社へと赴いた。
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