中指

春雷

中指

 昔から暗い性格だった。自分の容姿についてコンプレックを抱いており、とにかく自分に自信がなかった。勉強はそこそこできたが、それも結局はその学校内で成績がいいというだけで、全国的に見れば僕の学力は下の下だった。

 人見知りが激しかった。自分で自分を人見知りであると公言している人間は、本当の人見知りではない。真の人見知りとは、家族にさえも気を許せない人間のことだ。僕は人と関わることを避けて生きてきた。人といても傷つくだけだ。僕に関わっていた人間は、とにかく僕にアドバイスをしたがった。その多くは善意からのアドバイスであったが、まったく的外れで、徒に僕の心を切り刻む、ある種の誹謗中傷だった。僕は彼らの助言を聞き、ひどく傷つき、ひどく苛立った。お前に俺の何がわかるんだ。僕は脳内でぐるぐるとその助言を循環させ、あらゆるものを拒絶したい気分に陥った時、最終的にそう思った。お前は俺との関わりも浅く、俺の人となりを知らない。いや、そもそも他者理解なんてものは出来っこないのだ。他者理解とは、「つもり」に過ぎない。理解したつもりになっているだけだ。こんなに自分と付き合ってきた僕でさえ僕を十分に理解できていないのに、どうして他人が僕のことを理解できようか? 確かに他人に指摘されて自分への理解が深まることはある。しかしそれは自分のある側面を他人がたまたま把握できただけで、僕という個人全体の理解としてはまったく不十分だ。どいつもこいつも説教を垂れやがる。説教中に脳内麻薬が分泌されているのだろうか。まあとにかく、もう僕個人に対するアドバイスはもうしないで欲しい。もう限界だ。自分が駄目な人間だということは誰よりもわかっている。あるいはその自己認識も「理解したつもり」が積み重なってできた、誤解に過ぎないのかもしれないが、この自己を肯定できないという気持ちは、確かな真実である。誰が何と言おうと、僕はくだらない人間だ。

 人が死ぬ映画が好きだった。人は死ぬという事実が、僕を慰めたからだ。憎いあいつも、嫌いなあいつも、全員死ぬ。百年後には今僕の目の前にいる人間は全員存在しない。僕もいつか死ぬ。生きる苦しみから解放される。死後の世界の問題は、考えないことにした。現世で手一杯なのだ。死後の世界にまで考えを巡らせることは僕には難しい。

 僕は自分が嫌いな人間がいると、こっそりと中指を立てた。それは机の下だったり、ポケットの中だったり、頭の中だったりした。とにかくあいつへの敵対意識の表明として、中指を立てることは僕にとって重要なことだった。僕は死んでもあいつを許さない。中指を立てることはその決意の表れでもあった。

 僕は時々、世界に存在するあらゆるものが嫌いになることがある。好きな音楽でさえも、一旦そういう気分になると、耳障りな雑音でしかない。好きな映画も、荒唐無稽な空想に過ぎないと思うし、政治家は詐欺師で、画家は嘘つきで、小説家は非道徳な連中で、善人などこの世に一人もいないのだと、思うことがある。休日の、とりわけ雨の日なんかは、そうした怒りの感情と憂鬱とが交互に僕を襲い、部屋で独り、のたうち回りながら、誰かに救いを求めようとし、人は嫌いだからとその考えを打ち消し、布団の中で宇宙を作り、そこに籠る。その宇宙では僕は絶対的な存在で、何もかも僕の思い通り。人は誰も存在せず、僕の好きなものだけがそこにはある。でもそれは、一時的な慰めに過ぎない。すぐに現実が僕を殺しに来る。

 もういっそ、終わらせてしまおうか。

 そうした考えが僕の頭を支配することは何度もあった。それでも踏み止まったのは、単に終わらせるのが怖かったということもあるし、笑ってしまうようなことだが、僕が僕を完全に絶望したわけではなく、いつかきっと社会がもっとよくなって、誰もが僕に優しくしてくれるだろうなんて、楽観的な希望を、僕が持っているかららしい。

 笑ってしまう。

 人生は、ギャグなのかもしれない。

 それでも僕は、あいつらから受けた仕打ちを許すことはできない。笑い話になんてできない。一生あいつらを憎むし、殺したいとさえ思う。朝目覚めた時に抱く殺意は、僕が揺るぎないものを持っている証拠として僕を愛撫する。ダンボールを引き裂くようにあいつらを頭で千切ったら、それで一応決着とし、僕の短い人生にあいつらのことを考える時間などないのだという考えのもと、頭の中で殺人をしたら、それでよしとしよう、そう思っていた。でも、情緒が不安定になると、どうしてもあいつらを憎む気持ちが膨れ上がり、どうしようもなくなる。夜も眠れない。最悪で、最低だ。僕は再び中指を立てる。想像上のあいつらに向かって。そのあいつらとは、特定の個人の時もあるし、社会に蔓延っているくだらない価値観の時もあった。それは場合によった。


「俺が中指を立てるとなあ、その中指を立てた相手は、その日に事故に遭って死ぬんだ」

 ある日、大学の喫煙所で、そいつは唐突に僕に話しかけてきた。

「そういうくだらない冗談を言っているから、この大学は馬鹿にされるんだ」僕はそう返す。

「へへ。暗い性格してるなあ。頭ごなしに否定すんなや」

「だったらもっと現実味のある話をしてほしいね」

「嘘じゃないって。本当なんだよ」

 僕は煙草をもう一口吸うと、それを床に捨て、足で踏み消した。「なら僕に中指を立ててみろ」

「ほお」彼はにやりと笑った。

「僕が本当に事故に遭えば、その話、信じてやるよ」

「でも死ぬんだぜ? 確かめようなんてないやろ」

「死後の世界とやらで確かめるからいいんだよ」

「再度言うが、死ぬんだぜ?」

「いつ死んでもいいと思っている」

「ほお」彼は再びにやりとした。「じゃあ後悔するなよ」

 彼は軽く握られた手を前に突き出して、僕の顔を見つめた。そしてゆっくりと中指を立ててゆく――

「やめた」

 そう言うと、彼は手を引き、ポケットに入れた。

「気に入った。友達になろうや」

 彼は再び僕に手を差し出した。それは中指を立てるためではなく、握手をするためらしかった。「俺は九太。よろしくな」

 それから彼との交流がはじまった。


「見てろよ」

 ある日、彼は教授に中指を立てた。レポートを出すのがしんどいということと、教授の態度が気に食わないということ、そして自分が言ったことを証明するということ、それらの理由から、彼は教授に中指を立てた。講義の後、教授の背後からそっと立てた。僕も隣にいた。教室に残っていた数人の学生が、その様子を見て笑っていた。教授は彼らの様子を見て怪訝そうな顔で、周囲を見回したが、彼が中指を立てたことには気づいていないようだった。

 教室を出ると、彼はくつくつと笑った。

「なあ、見たか? あいつ今日中に死ぬぜ」

「そうか。お前の話が本当なら、な」

「疑い深いなあ、お前。ま、見てなって」


 その翌日、新聞を読んでいると、その教授が事故で死んでいたことが報道されていた。成る程、彼の話は本当だったのかもしれないな。

 大学に行くと、にやにやした顔の彼が教室で待っていた。

「な、ホンマやったやろ?」

「偶然かもしれん」

「嘘やろ? まだ疑ってるんか」

「嘘だよ。信じることにした」

 それから、彼と一緒に大学の近くにあるハンバーガーショップに行った。講義はサボった。

「タランティーノってアメリカの映画監督がいてなあ、俺結構好きなんやけど、そんな彼が二作目の長編映画でパルムドールを取ったんや」

「へえ」

「そんで、タランティーノが舞台上に上がったんやけど、そこで観客の一人が叫んだんよ。『この映画はクソだ』って」

「勇気あるね」

「観客を褒めんなや。それで、その言葉を受けてタランティーノは笑って、中指を立てたんや。どや、イカすやろ」

「公の場でやるもはどうかと思うけど、まあ、確かにスカッとするな」

「最高やろ」彼はストローを咥え、コカコーラを飲んだ。

 僕もフィッシュフィレオを頬張る。

「それにしても、お前の話し方は奇妙だな。関西の生まれなのか?」僕は常々思っていたことを口にした。

 彼はストローから口を離し、やや上目遣いに僕を見た。「ちゃう」

「違うのか?」

「生まれは仙台」

「そうだったのか」

「漫才が好きでなあ、見ていく内に変な関西弁が身についたんよ」

「それでそんな不思議な喋り方なのか」

「よう言われるわ。癖になって、もう抜けないみたいで」

「中指に関することに気づいたのはいつ頃なんだ?」僕は話題を変えた。

「うーん。うっすらと気づき始めたのは、小学校の頃かなあ。父親にこっそり中指立てたんよ。そしたら」

「死んだ、のか」

「勿論」

 僕はテーブルを眺めた。しなびたポテトがそこにあった。「お前はどう思ったんだ?」

「何が?」

「その、父親が死んだことについて」

「当時は因果関係に気づいていないからなあ、純粋に悲しさ半分、でもちょっと面白くもあったな。俺は父親のこと馬鹿にしとったから、馬鹿はこんな簡単に死ぬんやと、ざまあみろと、そんなことを思っとった」

「ひどいな」

「多かれ少なかれ、誰もが誰かに死んで欲しいと思ってる」

「それは、まあ、そうだな」

「それから中学に上がり、先生やクラスメイトに中指を立てたら、そいつらが立て続けに死んだ。それで、もう完全に理解したんや」

「成る程」

「へへ。オモロいやろ。俺はその能力に気づいてから、何人もの気に食わない奴らを殺して来た。しかしなあ、俺を裁くことはできんのや。常識で凝り固まった頭の固い馬鹿どもには、俺を逮捕することなんかできへんのや」

「神にでもなった気分、ということか」

「へへへへ。そういうこと。嫌いなやつは全員殺せるからな」

「それで商売しようとは思わなかったのか」

「殺し屋稼業か? 俺もそこまで馬鹿やないよ。俺かて拳銃で撃たれりゃ死ぬ。この能力について知られることや、色んな人の恨みを買いすぎるのは、リスクや」

「それならどうして俺に話した。しかも出会い頭に」

 彼はコカコーラを手に取って、二度振った。「あん時はなあ、苛々しててな」

「苛々してた?」

「ああ、色々あってな。喫煙所に最初に入ってきたやつを殺そうと思ったんや」

「でも気が変わった」

「うん、そうやなあ」

 しばらく沈黙が流れた。

「中指を立ててどれくらいで死ぬんだ?」

「長くて一時間」

「加減できるのか、自分で」

「できるで。最近訓練したんや」

「そうか」僕は胸ポケットから煙草を取り出した、でもこの店は禁煙だったことを思い出し、再びポケットにしまった。「相談があるんだ」

「へへ。ええで。受けたるわ。殺し屋稼業じゃないけど、な」

「相談内容がわかるのか?」

「ああ。殺したいやつがいるんやろ?」

「そうだ。そしてそいつを殺した後に、僕も殺して欲しい」

 彼はにやりと笑った。そしてコカコーラを飲み干した。「ええで」


 その日は、ひどい土砂降りだった。僕は彼とともに、実家に来ていた。僕らは今、ビニール傘を差しながら、実家の前に立っている。

「殺したいんは親父さんか」彼が呟くように言った。

「そうだ」

「どうして殺したいんや」

「説明すると長くなる」

「どうせお前も死ぬんや、今言ってくれんと。言わんとこの依頼受けへんで」

「……そうだな、お前には知る権利があるかもしれないな」

「せや」

「僕は自分の容姿にコンプレックスがある。この見た目でどれだけ損をしたか知れない。友達はできないし、恋人も当然できない。もともと人見知りだったんだが、みながあまりに僕を避けるので、僕は人というものすべてに絶望し、自分の殻に籠るようになった」

「人は見た目じゃないと、俺は思うけどなあ」

「もちろんそうだ。でもそう考えない人もいるんだ。そしてこの世界では、人は見た目がすべてではないとわかっていても、他者を見た目で判断する人が大半なんだ」

「それで親父さんを殺すってか」

「ああ。こんな醜い姿に生んだ親父を、俺は殺したい」

「それは逃げてるってことには、ならないのか」

「お前は今まで何不自由なく暮らしてきたから、そんなことを言えるんだ。僕はこれまで独りで偏見に立ち向かってきた。くだらない世界に立ち向かってきた。これからもそんな世界で生き続けるということは、いつ終わるとも知れない苦しい戦いに、身を投じ続けなければならないということだ。これ以上はもう耐えられないよ」

「……俺はなあ、色んなやつを殺してきた。気に食わんやつはすぐに消した。でもなあ、そんなことをしてもキリがないんや。自分が嫌いなやつが死んでも、それはただそれだけなんや。スカッとするのは一瞬で、結局はすぐ次に嫌いになるやつを探してしまうんや。そんなのキリがない。世界中の人間を消し去らんといけんようになる。神になったとて、何でもできるようになったからと言って、何でもやってええわけじゃないと思う」

「今さら、だな」

「今さらや。過去は変えられん。でもなあ、お前に一つ言っときたかったんや」

「何だ」

「お前と友達になれて、よかった」

 ビニール傘に雨が当たり、籠った音を響かせる。僕は息を吐いた。

「俺はなあ、最低の人間やと思う。人を殺すことを、何とも思ってなかった」彼の眼は遠くを見ていた。

「人はみな最低だよ」僕は足元を見つめる。水たまりが出来ていた。

「そんなことあらへんよ」

「どうしてそんなことが言える」

「わからん。ただ、お前と話していると、別に嫌いな人間がいてもいいんじゃないかと、そんな気持ちになるんよ。俺は最低やけど、その時だけは最低じゃなくなる。人間ってやつは捨てたもんじゃないな、と」

 僕はそのことについて考えた。でも特に言葉は見つからなかった。だから自分のことを喋った。

「僕は人とあまり喋らない」彼は黙って僕の話を聞いていた。「僕は傷つくのをひどく恐れていたんだ。傷つけられるのが嫌だった。だから人と関わらないようにして生きてきた。でもお前といると、何というか、自然な自分でいることができたんだ。どうしてかはわからない。ただ、お前といると心地がよかった。成る程、お前の言うこともわかるような気がする。僕はお前といる時だけ、人に優しくできたのかもしれない」

「でも、殺すんやろ」

「そうだ。決意は変わらない」

「ほな、行こうか」


 雨脚が強くなる中、僕は実家のインターフォンを押した。田舎にある、普通の一軒家だ。平屋で、瓦屋根で、古びている。

 雨の匂いが鼻についた。

 しばらく待っていると、戸が開いた。出てきたのは、知らない青年だった。

「セールスなら、断ってるんですけど」

 軽薄そうな青年で、ぼさぼさの金髪に、ピアスをしていた。格好は白いゆったりとしたオーバーシャツに、黒のスキニーパンツ。見た目通りに判断するなら、あまり賢そうな人間ではなかった。

「セールスじゃない」僕は言った。

「セールスじゃない? ならなんですか」

「ここの息子だ。お前、誰なんだ?」

 僕がそう言ったのと同時に、青年は僕に近づいた。右手にはナイフが握られている。そういえばさっきまで右手は背後に隠されていた。それでナイフの存在に気がつかなかったのだ。

 ナイフは血に染まっていた。

 ああそうか、と心の中で呟いた。そして僕は理解した。人生は、自分の望み通りの結末になるとは限らないのだ。

 おそらくこいつは空き巣か何かで、きっとこの家に押し入ったのだ。しかしそこに親父がいた。だから青年は親父を殺したのだろう。親父をナイフで突き刺したのだ。親父を殺した後、今度は僕らが来た。セールスだと思い、追い払おうとしたが、そうではなかった。だから次はこいつらも殺す。邪魔なやつは全員殺す。賢い考えではないが、それは僕も同じだ。この青年と僕は同じなのだ。批判することはできない。

 こいつに殺されるのか、僕は。

 いや、本当は、自分に殺されるのかもしれないな。

 そんなことを考え、眼を閉じた。


 眼を開けた時、僕は自分が刺されていないことに気が付いた。足元を見ると、僕が手に持っていたビニール傘が落ちていた。思わず手を放してしまったのだろう。ビニール傘の内側に、雨水が溜まっていた。

 青年も、倒れていた。

 驚きの表情を顔に浮かべていた。青年は転がっているナイフに手を伸ばそうとしたところで、絶命したようだ。前に倒れ込み、右手をナイフに伸ばしている。

 雨の音が、うるさかった。

 後ろを見ると、彼が膝をついていた。腹に手を当てている。青年にナイフで刺されたらしい。

「九太!」僕は初めて彼の名前を呼んだ。

「へへ。お前が刺されそうだったからよ。庇ったんよ。お前は俺が殺さなきゃならないから、な」

「早く病院へ」

「もうええて。ここが俺のオチや。きっともう助からんやろ。天罰が下ったんや。俺は神やなかった」彼は腹を手で押さえていたが、血の量はあまりに多く、抑えきれていなかった。水たまりに血が流れ出す。「最後に、お前に頼みたいことがある」

「頼み?」

「ああ。頼みや。お前にしかできへん」

「何だ」

「俺の手を、そのナイフで切り落としてくれ」 

 彼は右手でナイフを指さした。彼の声は、掠れていた。

「手を?」

「ああ。右手を切ってくれ。そしてそれをどうにか腐らんようにお前がずっと持っといてくれ。おそらく俺が死んでも、中指の効力は失われんと思うから、お前が誰かを殺したいと思ったら、それを使ってほしいんや」

「僕は、お前がいないんだったら」

「いいや。この世界のすべてを知らん若造に、絶望は早すぎるて。俺の中指を使って、どうにか生き延びてくれ。いつか、お前の中身に惚れるやつがきっといる。俺のように、な」へへ、と彼は照れくさそうに笑った。

「お前が死んでから、切り落とすよ」

「いいや、今すぐやってくれ。そうじゃないと効力が失われる。直感でわかるんや。自分の身体だしなあ」

「……わかった」

 僕は落ちていたナイフを拾った。雨はさらに強くなり、ナイフの血は洗い落とされていた。

 僕は彼と向き直った。

「ここで、お別れやな」

「ああ」

「笑えるやろ。こんなオチ」彼はにやりと笑った。

 僕は彼の右手の手首に、刃を入れた。ぐっと力を籠めると、血が噴き出た。生暖かい血が、僕の腕にかかる。それは彼が生きているという証だった。僕はノコギリの要領で、彼の手にナイフを当て、動かした。動かすたびに血があふれ出した。

 彼の叫び声は、強い雨にかき消された。


 あの日のことを何度も思い出す。僕は彼の手首を切り落とし、それを持ち帰った。裏ルートから特殊な薬品を買い、手を特殊な容器に入れ、今でも大切に持っている。実際にそれを使って誰かを殺したことはまだないけれど、持っているだけで安心感がある。あの手を使えば、誰であれ容易く殺すことができるんだ。そう思うと、どれだけ嫌いなやつでも、何だか許せてしまうのだ。

 彼は死んだ。警察は僕のことを疑ったけど、何の証拠も出なかったので、僕は事情を聞かれただけで、すぐに解放された。あのナイフは川に捨てた。小さなナイフでは彼の手を切り落とすことができなかったので、僕は倉庫からノコギリを取って来て、彼の手を切ったのだった。当然そのノコギリも川に捨てた。雨で増水し濁った川が、それらを海へと流していった。ナイフとノコギリは今でもまだ見つかっていない。僕は解放された後、父の葬儀に出席した。思っていたよりも多くの人が、父の死を悼んでいた。

 彼の葬式には行かなかった。お別れはあの時にもう済ませていたからだ。

 僕は自分の部屋で、透明な円柱のケースの中で特殊な液体に浸っている、彼の手を眺める。その手は軽く握られている。ただ中指だけが、今にも立ち上がらんとしていた。

 僕はにやりと笑った。

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中指 春雷 @syunrai3333

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