猫が泣いた

天片 環

猫が泣いた

 猫が泣いた。

 普通なら「鳴いた」と言うべきところだが、私には確かにこの猫が「泣いた」ように聞こえたのだ。

 

 なぜだろうか?

 

 見たところ野良猫のようであるが、この島では野良猫が生きるには他ほど過酷でもないはずだ。漁師は港に帰ると決まって猫に魚を分けてやり、島民は怪我をした猫を見つけると近所総出で世話をする。もはや島全体で猫を飼っているような有様だ。

 

 では、失恋でもしたのだろうか?

 

 それならば、私にも痛いほど分かる。高校生の時、小学校から一緒にいてずっと片想いしていた女の子に告白したら、あっさりと振られた。「顔がキモい。生理的にムリ」だそうだ。それがトラウマになって、40代も後半に差し掛かった現在でも未だ独身でいる。

 そんなことを考えていると、もう一匹の猫が彼にすり寄ってきた。しかも子供までいる。どうやら、私の予想は外れたようだ。

 

 それなら、夢をあきらめたのか?

 

 それも辛いことだ。子供の時から絵を描いて、将来は画家になると息巻いて、応募したコンクールではクラスメイトが金賞を受賞して、どれくらい練習したのか聞いたら、1年だと答えた。かれこれ8年練習して入賞もしなかった私は、泣きながら筆を折った。

 しかし、冷静に考えたら、そんな猫がいるのかと疑問に思ってしまう。彼自身に聞かなければ分からないことだが、まあ彼の様子を見る限りその線は薄そうだ。

 

 だったら、莫大な借金を背負ったのか?

 

 私を保証人にして、1000万円の借金を残して失踪した友人を思い出した。私は人と関わることが苦手で、彼とは唯一友人と呼べる間柄だった。彼を恨み、私の給料はお世辞にも高いとは言えないものだったが、任意整理で真面目に返済を続け、どうにか完済した。その間はできる限り生活を切り詰めて、趣味の美術館巡りにも行っていなかった。

 いやいや、私は何を考えているんだ。猫が借金なんてありえないだろう。

 

 ならば、冤罪でもかけられたのか?

 電車に乗っているとき、触れてもいないのに痴漢だと叫ばれ、頭が真っ白になって逃げだしてしまい、その後逮捕され挙句に地域で実名報道までされて、外に出歩けなくなった私のように?

 

 会社を辞めさせられたのか?

 逮捕された後誤解は解かれたものの、ずっと務めていた職場をクビになって、大したスキルもない上に不況でどこにも受け入れてもらえず、途方に暮れて故郷の島に帰ってきた私のように?

 

 さっきから私は、何てことを考えているんだ。

 これから死のうという今、改めて惨めな人生を突き付けてどうするのだ。

 

 私は無理矢理忘れようと頭を振って、木に括り付けた縄に首を通した。 

 猫が泣いた。

 つられて私も泣いた。


「ああ、私は何のために生まれてきたのだろう」


 ロープのザラザラとしたやすりのような感触も、全く意識に触れなかった。とにかく終わらせてしまいたい一心だった。


 踏み台から持ち上げようとした足を、猫がその丸い手でそっと抑えた。吹けば飛びそうなほど優しい力だったのに、その手と私を見つめる瞳は私を一歩も動かそうとしなかった。


 どうして? 同情しているのか?

 いいから、死なせてくれよ。生きてたって、何もいいことはないんだ。これまでも、これからも。

 

 私は多分、生まれたことが間違いだったのに。

 どうして、君は止めるんだ。

 

 猫が泣いた。

 それでも、生きてと訴えていた。

 

 どうして死なせてくれないんだ。

 生きようとさせるんだ。

 

 振られた時も、諦めた時も、借金を背負った時も、冤罪をかけられた時も、職場をクビになった時も。

 誰も私を慰めなかったのに、この猫は私を必死に励ましているのだ。


「そんなに言われたら、生きるしかないじゃないか」


 私は首から縄を外した。


 生まれて初めての感覚だった。絶望を感じてもなお、立ち上がる気分にさせる、そんな感覚。


「生きるよ。頑張るよ。これからも、ずっと」


 私は台から降りて、猫の背を撫でた。

 何があっても、生き抜いてやる。

 世界はこんなにも酷い物だけど、それでも希望を与えてくれる友がいるのだから。

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猫が泣いた 天片 環 @amahiratamaki13

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