第39話

 外へ出て分かったことは、自分達が囚われていたところは誰かの館だったということだった。その裏門を出てぐるりと回り、周囲にある木々たちに身を隠してもらいながら、イリヤを抱いたドルディノは、喧騒から遠く離れている町を目指して前を行く茶髪男を追いかけていた。焦りと不安で心臓は早鐘を打ち続け、手の平に汗が滲み、肌は上気してる。走っているおかげで冷気に晒されてはいるが、暑いくらいだ。

 背中を走っている汗も、走っているからなのか心配からなのか、ドルディノには分からない。

 茶髪男が自分達をどこまで案内しようとしているのかすら分からない今、時間が経つのを異様に長く感じてしまっていた。

 木々の中を駆け抜けている間にも、その隙間から男達の戦いが垣間見えていた。

 刃と刃がぶつかり合って真剣が甲高い音を響かせ、同時に荒くれのような男達が大地を揺るがすような猛々しい声を上げて獲物を振るい、血飛沫が舞って地に染みを作る。間髪入れず砂埃が立ち、足元は土でまみれ、勝負に負けた者は力なく大地に手足を投げ出して倒れ、命はあるが捕獲されて跪かされている者もいた。

 目の前で繰り広げられている、本物の戦。

 それに気圧されながらも足は動かし続けていたが、突如どんっ! とぶつかって慌てて前を向いた。足を止めた茶髪男の背中を目に映した直後、素早くイリヤの状態を確認してから顔を上げる。

 「なに? 急にどうして……」

 紡ごうとしていた言葉はそこで途切れた。

 顔を上げて正面を向いたドルディノの双眸には、見覚えのある一人の男が映っていた。脳裏で、どこで見かけたのか記憶の中から探る。そうして頭が答えを導き出した時は既に、男は鬼のような形相で突進して来ていた。

 「死ねえええぇぇぇぇぇ!!」

 男が握りしめている小型のナイフの切っ先が、真っ直ぐ向かってくる。

 その光景をゆっくり感じていたドルディノは襲い掛かってくる刃を避けるため身を構え――……それ以上動くことはなかった。

 男が握っていたナイフの切っ先は、ドルディノの前に立っていた茶髪男の側で宙を掻いていたのだ。

 「ぐっ……そおぉぉぉぉぉぉ! はなせええええぇぇぇぇぇ!!」

 茶髪男の存外に逞しい腕から伸びている手が、男の手首を捕えていた。茶髪男は腕を捻り上げながら天に腕を伸ばし、それによって捕えられた男の腕も捻られて骨が軋み、激痛が生じて今度は違う叫び声を上げる。

 「痛てええぇえぇぇぇぇ!! はな、放せえええぇぇクソがああぁあぁぁぁぁぁぁ!!」

 激しい痛みに身を悶えている男の絶叫に、耳を塞ぎたくなった瞬間。

 「うるさい」

 冷ややかな声色とほぼ同時に、ドスッと拳が入ったような音と呻き声が聞こえて一瞬その場が静まった。少し距離の空いた後方ではまだ喧騒が収まっていないため、そちらの方から騒音が響いてくる。

 茶髪男が捕えていた男の手を放すと、気を失った男の体が重たい音を立てて大地に倒れ込み、砂埃が舞った。

 「さ、行くよ~」

 「え、え? あ、この人……」

 先を続けようと思ったが、茶髪男が走り出したのでドルディノは一旦口を噤むしかなかった。走り出した男に置いて行かれないようについて行きながらも、先刻言おうと思った言葉を続ける。

 「あの、さっきの人……あのまんまじゃ……」

 「いいよいいよ~。あそこに居た奴らが気付いて後始末してくれるから~」

 そう言われれば、それ以上ドルディノには何も言えなかった。

 林を抜けきり、静けさに包まれている町をイリヤを抱えたドルディノと茶髪男が走っていく。

 冷気が肌を刺す中、二人の男の荒い呼吸と足音がよく響き、地に伸びている黒い影が伸びながら移動していた。男の登場で気にも留めていなかった時間の流れがまた気になり出して遅く感じ始める。

 ――まだ、まだつかないの……!?

 そう、思った時。

 今までずっと真っ直ぐに走っていた茶髪男が、初めて道を曲がった。慌ててそれに習い自身も道を曲がると、その双眸に突如、大きい船が飛び込んで来た。

 無意識に足を止めて息を吞み、思考を奪われ、目が釘付けになる。

 ――大……きい……!

 ドルディノの灰色の双眸に映っていたのは、広く大きい船体だった。三本程、天に向かって真っすぐ伸びている、太く高いマスト。普段もっとも目立つであろう帆は、巻かれているのか見えない。

 一体、何人乗れるのだろうか。

 間近で見るのはこれが初めてだった。

 言葉も忘れその場で棒立ちになっているドルディノだったが、茶髪の男の最小限に抑えた声が聞こえて、はっと我に返る。

 「お~い、早くしろ~」

 呼ばれて視線をずらすと、既に船の縁に立って様子を窺っていた茶髪男と目が合った。

 慌ててドルディノが動き出した瞬間彼が縁から離れる姿が見えた。茶髪男が消えた先を目で捜しながら、船へ移る為に敷かれているタラップの上を歩いて甲板へ上がると、彼の背中が目に映った。

 追いつけるようにか、ゆっくりとした足取りで歩を進めている。

 ドルディノは見失わないよう慌ててその背中を追った。

 

 中の狭い道は、薄暗く独特の匂いが漂っていた。

 海に浮かんでいるせいか、歩いている影響か、あるいは両方かもしれない。歩く度に木が軋んだ音を立て、体が左右に揺れて心許なく感じてしまう。おまけに先頭を歩いている茶髪男は不意に左右に曲がったりしていくものだから、ドルディノには、すでに自分がどこにいるのかすら分からなくなっていた。目の前を歩く男だけが頼りだ。

 胸の中でぐったりしているイリヤの身体の重みをずっしりと感じ、不安に思いながらついて行く。そうしてとうとう茶髪男はついにある扉の前で足を止め、ドルディノを振り返った。

 「ついたよ~」

 のんびりとした口調で声が掛かると同時に、目前の扉が軋んだ音を立てながらゆっくりと開かれて行った。その瞬間から何とも言えないにおいが鼻につき、ドルディノはつい顔を顰める。

 煙のような臭いが部屋に充満し、その中に草のような臭いも混じっていた。もしくは、薬品を精製していて、それから香ってくるのかもしれない。 

 そんなことを考えていると、部屋の中から靴音が聞こえ誰かが居ることに気が付いた。

 ドルディノは一歩足を踏み出すと、茶髪男の横に並んで立ち止まり、身を乗り出しながら体を少し傾けて部屋の中を覗きつつ、小さく呟くように言った。

 「すみません……」

 室内は、意外と広くはあった。だが、部屋の端からドルディノが立っている扉まで一定の間隔を置いて棚が縦に並んでいた。遠くの方にある棚には何があるのか見えないが、扉から一番近い棚は良く見える。

 苔かと思われる程の濃い緑色の瓶や、水分を完全に失い枯れ果てて茶色に変色し、台に力なく伸びでいる植物や、葉、そして壺のようなものも置いてあった。それらを見て、治療室のような部屋だろうか、と思った。

 数秒遅れて、ドルディノの耳に、室内の目の届かない方から床の軋む音と、足音が聞こえた。棚に向けていた視線を、音のした方へと走らせると、そこには一人の男が立っていた。

 眇めているのか分からないが、細い目だった。睫毛の奥に覗いているのは、宝石を思わせる深い青で、口元は固く引き結ばれている。

 男の視線で、ドルディノは警戒されていることに気が付いた。そして同時に、問われていることも。

 お前は誰だ、と。

 「あ、ぼ、僕は……」

 「ごめん~おいらが連れて来たんだよ~」

 言葉を遮るように背後から声が飛んで来て、ドルディノは乗り出していた身を引いて姿勢を正すと、肩越しにここまで案内した茶髪男へ視線を向ける。

 ドルディノが姿勢を正したことで間が空いたせいか、茶髪男が一歩足を踏み出した。その気配を感じたドルディノは素早く脇に避けて男が通れる空間を広げ、彼の行動を見守る。

 脇に避けているドルディノの側を通り過ぎた茶髪男は室内へと足を踏み入れると先の住人である男の前で立ち止まり、右手を挙げのんびりとした口調で「やあ~」と声を掛けた。

 「ん、フェイ? どうしてここに?」

 ――あ、この人……フェイっていうんだ……。

 「ちょっとね~アッチの方で、色々あってさ~。ちょっとこの坊や、診てくれない~?」

 「ん……?」

 茶髪男の言葉で、それまで訝しんでいた男がドルディノの胸の中でぐったりとしているイリヤに視線を向けた。次の瞬間、はっとした様に目を見開いたと思ったら、男の手がイリヤの額に伸びてきて、指先が触れる。

 「…………この坊やは預かる。お前達は邪魔だから部屋から出てて」

 その言葉とほぼ同時にもう片方の男の腕が伸びて来て、イリヤを攫うように奪うと視線をフェイに向けじっと見つめた。その意図を正確に理解したフェイは、ぼうっと立っていたドルディノの右肩を軽く背後へ押しやりながら自身も部屋の外へと歩を進めた。

 「ほれ、行くよ~」

 そう言葉を掛けられたドルディノは、押し出された廊下から、男と抱かれていったイリヤへ視線を移し、更に背後のフェイへ向けた後で再度、少年を見やった。

 不安で、胸がざわめく。

 ――離れるのは、心配、だけど……。

 自分には何もできることがないと、解っているから。

 「……よろしく、お願いします」

 そう言って、男に頭を下げた。

 「ああ」

 頭上から落ちて来た男のしっかりとした返事を最後に、扉の閉まる音と共にイリヤの姿は部屋の中へと消えていった。

 



 少年を奪うように抱いた男は、扉を閉めるとすぐに踵を返した。規則正しく一定間隔で並んである棚を幾つも通り過ぎ、奥に見えている一枚の扉へと真っ直ぐに突き進んで行く。大きい歩幅で歩き数秒で到達した男は、落ち着いた動作で目的の続き扉を開けた。

 その部屋には既に先客が居た。

 扉が開いた音を耳にしたのか、背中を向けていたのにほぼ同時に振り返って目を合わせると、男の名を舌に乗せる。

 「ヤル兄さん」

 一歩足を踏み出してその部屋に入ると、胸の中でぐったりしている少年に気が付いたのか、息を呑む音が聞こえた。

 「その子は?」

 ヤルは壁に並行して置いてある簡易ベッドまで歩いて行き、そこにゆっくりと少年を横たえると、声の主へ視線を向けた。

 「フェイが青年と一緒に連れて来たんだ」

 そう答えたヤルの側にそっと近づくと、力なく横たわっている少年の、汗が浮いている額に手を伸ばしてそっと添える。その指先を今度は首元に移し脈を測る。と、鎖骨の下に赤い出来物に気づいて、汗で湿っている襟元を緩く引っ張った。

 赤い発疹までできている。

 「……ケヤク……?」

 「じゃあ、ここは任せてもいいな? リン」

 その言葉で、診るために俯いていた顔を上げ、ヤルと視線を合わせた。

 深い青の双眸にお互いの姿が映し合う。

 「はい」

 頷いた次の瞬間には、リンの視線は少年に移っており、同時にヤルの側から離れ開けっ放しにされている続き部屋に向かって歩き出していた。

 離れていくその背中を見て、ヤルはそっと溜め息を漏らした。

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