紫水晶のポズドール

雨の粥

紫水晶のポズドール

 坂道を上っていくあたし、能登香月。

 その姿をあたしは外から眺めているようだった。眠る風景。濃紺に色をつけた時間が止まっていた。神々のものではないかと思える土地で森が呻っていた。

 瓜のような目をしたあたし。

 台地を濡らす紫水晶の雨。

 丘の上であたしがひとつの小屋に入っていった。誘う指先が回っている。そこは微かな吐息の風景。そこに次第に順応していくあたしの躰。

 濃いブルーに滲むような夕闇が迫っていた。

 初めてその小屋を訪れた頃、窓の外にテントが張られているのを見たことがあったような気がする。厳かな雰囲気のなか、サーカスが始まるような。あたしは誘われるままに手を取られ、テントに入った。

 そこは、誰もいない、獣の香りばかりの客席。舞台。

 いつまで経っても誰ひとりやって来る気配もない。ベルが鳴って、もうまもなく開演の時間だというのに。

 だけども息を潜めた獣たちが皆、獣の姿をした人間なのだと気がついてしまったその瞬間、それから何が、どうなったのか、あたしは覚えていない。



 もともとはどこかの企業の保養所なんだかなんだかメアリーセレスト号みたいな雰囲気の無人の建物が留守番の小屋と呼ばれていて、湯気の立つコーヒーカップはなかったけども初めは肝試しみたいな感じでなかに入った。

 その辺りはちょっと辺鄙なところで他に人がいるのを見たことがなかった。

 整備はされているようで丘の向こう側は森林公園になっていて、フラミンゴがたくさんいた。フラミンゴは生きているようなときもあったけども誰かがその場所に行ってみたら湿地帯に妙につるりとした岩が並んでたとか、真ん中辺りに噴泉のある池にフラミンゴの石膏像が並んでたとか云われていた。

 ひとりで行くには雰囲気があり過ぎたから初めは男の子についてきてもらってたというか、いっしょなら行くという感じで、書き物机と二人掛けのソファしかない狭いひと部屋だけを使うことに決めていた。

 小屋に通い始めたばかりの頃はだいたい男の子と少しだけ抱き合ったりしてから書き物をしたり本を読んだりして過ごしていた。ちょっと行きにくい場所にあったから人が来たりする心配はなかったんだけどもロビーに据えられた大時計の針の音がふいに高くなったり、毎時間の鐘の音が鳴ったりとかすると男の子とふたりでちょっと身構えたりした。窓は曇りガラスだったし部屋には鍵が掛けられたけど、ふたりのことに集中している間に誰かが入ってきてあたしたちが立てる音を聞きつけたりしたらいやだなと思っていた。

 だけどもそんな心配がいらないことはすぐに理解できた。留守番の小屋という名前の由来をあたしはすぐに知ることになった。

 実は、留守番の小屋は、魔法の小屋か何かで、なかにいる人に留守番をさせるようにできているんじゃないかというぐらい、あたしたちがなかにいる間、他には誰も入ってこないのだった。

 気味がわるいと云ってすぐに出たがる男の子もいたけども、しばらくすると、あたしはむしろひとりで来て小屋のなかを歩き回ったりするようになった。何度目かにひとりで「留守番」をしたとき、あたしはいつもの部屋で服を全部脱いで小屋のなかを探検してみた。足の裏で感じる床板の感触は柔らかくて温かかった。ひとりで来られるようになってしまうと、あたしは小屋に男の子を誘うのをやめてしまった。その代わりに、大時計の針の音を聞きながら、ひとり、裸のままでロビーのソファーに座ってくつろいだり、ダイニングでコンビニ弁当を食べたりするようになった。

 ある朝、まだ夜も明けない時間から留守番をした。廊下の掃除をしたりベッドメイクをしたりしていると、小屋の裏手の土間に井戸があるのを見つけた。

 井戸の底に水が光っているのが見えた。

 あたしは物置からバケツを探してきて雑巾がけをした。透きとおっていて仄かに青みがかったような変わった水で、試しに口に含んでみると深く澄み渡るような味がした。心なしか頭が冴え渡っていくようで、その水を飲んでから本を読んでいると書かれている文字を頭が吸い取っていくようだった。戸棚からアルコールランプを見つけると、あたしはその井戸の水を沸かして珈琲を飲んだ。目の前の風景の輪郭がにわかにくっきりして丸ごと自分のなかにするりと入り込んできたような気がした。初めはそんな感じもすぐに薄れていってしまったけども、何度もくり返しているうちに普段からそんな感じがするようになっていった。珈琲を何杯も続けて飲んでもあんまり意味はなくて、最初の一杯のときにだけ効果が現れるようだった。小屋を出て自宅に向かって歩いていると、あたしは自分の聴覚が研ぎ澄まされているのを感じた。周りの音を細かく聞き分けて聞こえているのが何の音なのかを言い当てられるようになっていた。

 調子が良いときなら落としたシャーペンの芯が何本か、見なくても分かるぐらいに。

 そういうことが、だんだん、ずっと続くようになっていった。



 留守番の小屋の奥にはひとつ、そこだけ妙に暑い部屋があった。

 ある日、ロビーで珈琲を飲みながら本を読んでいたときのこと。本のページをめくったとき、微かな風の流れを感じた。初めは耳で、それから躰全体で。

 それは本のページをめくる動作が起こした風じゃないことは確かだったけど、いままでそんな風に感じたことがなかったのが不思議だった。だけども気のせいじゃない。確かにどこかから風が流れてきていた。そのときも井戸の水で沸かした珈琲を飲んでいたからまたもうひとつ、躰の感覚が研ぎ澄まされたのかもしれないと思った。自分の感覚を頼りに食堂の奧の廊下を進むと、風の流れははっきりした気配に変わり、音が聞こえてきた。音がするのは足元の床の下からだった。ぶくぶくというそれは水の音のようだった。部屋の端っこには場所が場所だけにいままで食料の貯蔵庫だと思って開けたことがなかった金属の取っ手がついたぶ厚い板があった。すぐ横にレールが付いていて引き戸になっているみたいだった。少し重かったけども思い切り力を込めて開けると、温かい蒸気が顔に当たってあたしは思わず声を上げて後ろに飛び退いた。

 床に開いた穴の下には木製の踏み板だけの階段があって、その下は採光窓があって仄かに明るい風呂場だった。

 その部屋だけ暑いのはどうしてだろうと思っていたら、地下に温泉が湧いていたのだった。

 あたしは温度が熱すぎないことを確かめてからそろりと足を浸けてみた。井戸の水に似た感触がして温かかった。あたしはそのまま湯のなかに躰を沈めた。窓の外は紫水晶の色をした雨模様だった。

 口元まで湯に浸かりながら、いつか見たサーカスのテントのことを思い出した。確か、あの日も、窓の外の空はこんな色をしていた。サーカスも、テントも、いつだってあるようなものではなかったんだと思う。あの時だけ森林公園でやっていたイベントだったのかもしれないし、あたしが見た夢かもしれない。それとも、どこか他の場所で見たのと記憶が混ざってしまっているかもしれないではないか。

 この奇妙な空の色だって、いつか通り過ぎていってしまうものなのかもしれない。こんな色の空を他の場所では見たことがないから。後から思い返せば夢だったように思うだけかもしれない。

 そんなことを考えていたら、ふいに、ロビーの大時計の針の音が止まった。



 自宅のアパートに帰って少しだけ眠った。

 目を覚ますと、夢から覚めたような誰かの吐息を聞いた。それからベッドから転げ落ちる背中を確かに見送った。どちらも自分ではないかと気がついたあと、あたしは、夢のなかで、鳳仙花がどこまでも続くような景色のなかにいたのを思い出した。

 窓の外は紫水晶の色のままだった。

 あたしは簡単に身支度を済ませると、丘に上って夢の残り香を探した。小屋には入らなかった。池の畔に座り込んで躰を伸ばしていると、尻の下の石が冷たかった。池の真ん中あたりではフラミンゴが水を飲んだり歩き回ったりしていた。

 そういえば、やっぱりこの池にいるのは本物のフラミンゴなんだなと思った。

 たぶん、動物園でもない丘の上に、突然、フラミンゴがいるのが変な感じがするんだろうと思った。一緒に小屋で留守番をした男の子たちだって、後になって、あれって置物だったっけ、なんて云っていたから。

 池を眺めたりしながらぼんやりしていたら、視界の端で何か動くものがあった気がして、あたしは後ろをふり返った。なんと、フラミンゴが一羽、池の柵の外に出て、坂道を丘の麓の方を向いて歩いていくところだった。

 あたしは驚くよりも、あれ? ここのフラミンゴって外に出て自由に歩き回ったりできるようにしてあるの? という興味が湧いてきて、こっそり後をつけて事の成り行きを見守ることにした。

 麓まで下りてくると街の風景はところどころが揺らめいていた。大通りに出るカーブを曲がったところでフラミンゴの姿は見失ってしまった。

 あたしはなんだか自分が幼い子供に還ってしまったみたいだと感じた。ごく自然に、肌に感じる草いきれや熱気と同じように。譬えば優雅に紅茶を飲んでいる大人のあたしなんて、もう、他の人みたいな気がした。

 相変わらず、空は、紫水晶の色をしていた。首を傾げているあたしが紫の水面に映っていた。あたしは子供の頃のように髪を下ろして、そのまましばらく噴泉の縁に座っていた。

 青く滲んだ街の風景は、ちょうど、針が止まった大時計のような感じがした。

 国道まで出たところで、はたと気がついてしまった。さっきのフラミンゴはこの空と同じような紫色をしていなかったか。前にケーブルテレビで見たことがある。フラミンゴの体毛は、確か、普段食べている水中のプランクトンの色が出ているのであって、紫色になるようなことはないのではないか。だとしたら、さっきのフラミンゴは、また、あたしの勘違いで、本当はいないんじゃないかという気がしてきた。男の子の誰かが云っていたように、やっぱり、丘のフラミンゴは本物じゃなくオブジェだったのではないかとしか思えなくなってきた。

 街のなかの紫色は、場所によって濃度にムラがあるようだった。誰かが何かの基準で色鉛筆を塗り分けた白地図のような。丘の上の方が、ここの界隈よりもより濃い色をしていたと思う。薔薇園の前を通り過ぎようとしてきたとき、薔薇園のなかから、かなり濃い紫色の靄が流れてきているのに気がついた。

 薔薇園に入ってみると、ベンチの上に、綺麗に折り畳まれたスカーフが置き忘れられてあるのが目に留まった。どうしてだか、スカーフの周りだけは、紫色がほとんど薄れていた。それはまるで、入り組んだ世界の奇妙な落とし物だった。池には蓮の葉が浮かんでいた。

 針が止まった街では、人造の池に湛えられた水も凪いでいた。あたしは薔薇を眺めながらしばらく散歩をして、開いたままの鉄の門を写真に撮った。ベンチに腰掛けて、持ってきた水筒からミルクコーヒーを飲んだ。温めた牛乳に、微かに、珈琲の風味があって、少しだけラム酒も垂らしてあった。

 誰かと一緒に飲むなんていうのもいいかもしれないな、と急にそんなようなことを思った。あたしにしては珍しい、とあたしは独り言を云った。

 あたしはバッグを肩に掛け直して薔薇園を出た。

 道路がまっすぐに延びていて、その先は、いままででいちばん濃い紫色をしていたと思う。道の中程にバスの停留所があった。

 あたしは停留所に止まったままのバスに乗り込んだ。他には誰も乗っていなかった。あたしは後ろから二番目の席に座って、そこでA6版の小さなキャンパスノートを見つけた。

 それは誰かの日記帳だった。

 たまたま乗ったバスのなかで、だけどもそれは、たぶん、知らない誰かのノートじゃなく、ぱらぱらとページを繰るとどこか見覚えのある文字が「能登香月ヲ抱キタイ」と告げていた。

 なんで。なんていう偶然。それはあたし? それとも別の能登香月?(たぶん、あたし)あたしは膝の上のバッグからペンを取り出して「あたしの名前は能登香月」と書いて、そっと、座席の下にノートを忍ばせた。

 あたしはバスを降りて紫色をした空を見上げた。それから遠く、国際線の機影に耳を澄ませていた。



 誰かの秘密を垣間見てしまったあたしはサングラスをかけたまま、いつしか川のなかへと入っていくようだった。一級河川らしい緑色の流れは不思議と温かかった。市役所の大きな建物が煙突から煙を吐いているのが見えたとき、あたしはそこがアパートの近くだったことに気がついた。それは特におかしなことじゃなく、路が繋がっていることをあたしが知らなかったのだった。あたしはそのまま何度も沈み込んでは浮かび上がって遊んだ。今日じゃなくても、小麦粉を買って帰ってパンを焼いたりしたいなと、急に、思った。そういう思いつきは立ち止まったときには忘れてしまうものだから、すぐにスマートホンを取り出してメモをしておいた。そうするとあたしはもうすっかり安心してしまって。荷物さえなければその場で眠り込んでしまいそうなほどだった。

 そろそろ夕飯にしようと決めて商店街の喫茶店に入ると、輪郭がぼやけたりはっきりしたりをくり返す赤い人影がソファーに躰を埋めて炭酸水を飲んでいて、その仕草の微妙な癖というか、動作のなかに表れているしるしみたいなものにあたしはなんとなく見覚えがあって、誰だったか思い出そうとしているうちに薄くなっていって最後はピンク色で消えてしまった。

 あたしはそのソファーに座って手の指を組んで躰をゆらゆらさせてみた。

 目蓋が重くなってきたところでさっきの人影は日記帳にあたしのことを抱きたいと書いていた男の子かもしれないと思ったけどもどこの知り合いだとかあんまり思い出せなくって、やっぱり違うかな、どうかな、としばらく考えた。

 それじゃあ、やっぱりさっきバスのなかで見つけた日記帳をちゃんと読んでみようと思った。誰の字だったか思い出せるかもしれないし、うまくいけば、ちょっと照れるけども、日記帳を返してあげることができるかもしれない。あんなことを書いてある日記帳をなくしてしまったなんて落ち着かないだろうし、そうするのがいいかもしれない。本人に直接手渡さなくても、何か、方法はあるはずだから。

 停留所まで戻ると、さっきのバスはまだ発車していなかった。

 あたしは気がついていなかったけども、たぶん、それはわりと遠くまで行くバスで、行き先を示す看板には知らない橋の名前が書いてあった。

 後ろから二番目の座席の下を覗いてみるとA6版の日記帳はなくなっていた。車内は相変わらず無人だったけどもノートを取りに来た持ち主がまだ近くにいるかもしれないと思ってあたしはちょっとどきっとした。

 あたしは少し離れた席に座って待っていることにした。

 バスが動き出すのが早いか誰かが乗ってくるのが早いかと考えている間、あたしの心臓は早鐘を打って、躰中の血管がどくどく唸りを上げていた。すぐに太股の裏に汗をかき始めて、腰回りが熱くなっていった。

 あたしは眠気で目を開けていられなくなっていくのを感じた。

 だいぶ気が張っていたから眠ってしまうようなことはないだろうと思っていたのにあたしはいつの間にか眠ってしまったようだった。

 気がつくと窓の外の景色が変わっていた。

 さっきよりも、もっと濃い紫色に染まった街の風景のなかにあたしはいた。

 バスを降りると、自分さえもいなくなってしまったような静寂が広がっていた。長い時間ぼんやり見とれていたのか後ろをふり返るとバスは姿を消していた。

 あたしはスマートホンを取り出して現在地を確認した。地図によればここはふたつ隣の市の中心地で、大型のショッピングモールの近くだった。地下鉄の駅が隣接していて、それに乗れば馴染みのある界隈までたどり着くようだった。

 とりあえず、こんな身近にぶらっと散歩をするのに良さそうな街があったなんて知らなかったから、いまいる地点をお気に入りに登録しておいた。

 その時は何とも思わなかったんだけどもショッピングモールの建物は天辺が見えないぐらい高く、蝶のさなぎのような形をした巨大な塊が側面にくっついていた気がする。それは雨に濡れたようにぬるりと光っていて、とても柔らかそうに見えたと思う。時々、生きているみたいに動いていたような気もする。それだって、きっと、見間違いだったかもしれないし、さなぎの形をした何かを見てあたしがいろいろ連想しただけで、勘違いか全くの空想ということもあり得る。

 留守番の小屋で、窓越しに見たはずのサーカスだってそうだ。

 確かに見たと思ったのはその時だけのことで、あれから一回も見ていない。そもそもあの辺りに他の人がいるのを見たことがないし、サーカスなんて、たぶん、なかったんだろうと思った。



 真夜中、ひとり、アパートの部屋にいると、窓の外に国際線のジェット機が見えた。

 音を聞こうと、あたしは耳を澄ませた。

 ここであたしのこの物語は終わる。

 今夜あたり、紫水晶の雨が降って、世界をすっかり濡らしてしまえばいいと思う。

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紫水晶のポズドール 雨の粥 @amenokayu

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