誰にも気づかれない物語

祈更木

第1話 電車に揺られて

―――オギャアアア!オギャアアアアアアアアア!

―――どしたどした。よしよし、大丈夫大丈夫。


赤子の泣き声。それをなだめる母親の柔らかな声。

そして泣き声に眉をひそめる、疲れた顔をしたサラリーマン。


どれもこれも自分には関係のない、

ただのいつもの光景。


そんな光景をよそに、自分はただ、

妻のために買ったケーキを抱えながら、

電車に揺られていた。



妻は病気だった。

それも、治る可能性が全くない、

それまで聞いたこともないような。


―――どうしてそんな顔してるの?

―――どうしてって!だっていつ心臓が止まってもおかしくないって...!

―――だから...いつあなたの顔を見れなくなるかわからないのに、どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?


何よりも大切で、大好きで、愛していて、

代わりなんていなくて、いるはずがなくて、

そんな人間が死にそうなのに、

楽しそうな顔ができる人間なんているか


そんな思いを抑え込み、そこから最後の二日間は、

なるべく笑顔でいられるよう努力した。


その分、彼女がいなくなってしまった日は、

わけがわからなくなるくらい泣いた。


寂しがりの彼女のために、

すぐにそばに行ってあげようとさえ思ったが、


―――私の分まで幸せになるんだよ


彼女が遺したそんなありきたりな言葉を思い出し、

使い方も知らない買ったままの練炭を、

次の日にはゴミに出した。



───寒くなってきたね

―――ケーキ買ってきたよ、ほら駅前の

―――チーズケーキなかったからチョコのだけど、許してね

―――また来るからね、風邪ひかないようにね


一方通行の会話はすぐに終わる。

いや、

どこかで通行止めになってるかもわからない。


駅までの帰り道、自分と同じくらいの、

いや少し若いくらいの男性とすれ違った。

とても、悲しそうな顔をしていた。


今朝チャージしたばかりのICカードで改札を通る。

駅のホームは心なしか、いつもよりも混んでいた。


家に着いたら何か食べよう、何を食べよう。

そんなことを思いながら、電車に揺られる。


泣く赤子、なだめる母親、眉をひそめるサラリーマン。

どれも自分には、まったく関係のない光景だった。


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