おまけ 魔術師ジル1

 ミュラトール領で魔物討伐を終えた翌日、数日振りにアンリ殿下がジルの研究室に顔を出した。


「ああ、疲れた」


 机に突っ伏す勢いでうなだれる彼の顔には、珍しく疲労が浮かんでいる。

 私がジルの弟子になってから三年。師匠であるジルの我侭に振り回されるたび、疲れたと漏らしてはいたけど、明らかに疲労の混じる顔を見せるのは初めてだ。


「お疲れさまです」


 弟子を労わる気のないジルの代わりに、労わりの言葉をかける。


「ありがとう。兄弟子を思いやる妹弟子を持てて俺は嬉しいよ」


 長椅子でくつろぐジルに聞こえるように言うアンリ殿下に苦笑が漏れる。

 何年もジルのもとにいたのだから、嫌味のひとつも言いたくなる気持ちはよくわかる。私も三年しか弟子をしていないのに、何度も嫌味を口にしたものだ。


「それにしても、今回は大変でしたね。魔物の追跡に二日もかかるなんて、初めてではありませんか?」

「まあ、そうだね。そもそも追跡自体そうあるものではないし……とくに今回は、中々見つからないし、見つけたと思ったら姿をくらますし……」


 肩をすくめて言うアンリ殿下に、ちらりとジルの様子をうかがう。

 くるくると指を回し、宙に浮く木の破片を思うまま動かして組み立てている。まったくこちらを気にしていない様子に、小さくため息を落とす。


「今日はこれといった依頼もありませんし、ゆっくりと体を休めてくださいね」

「そうだね。そうさせてもらうよ」


 ジルも今日は師匠として過ごす気はなかったようで、穏やかな時間だけが過ぎていった。




 そして夜。太陽の代わりに月が空を飾る時間に、私はジルの研究室の扉を叩いた。


「おや、こんな時間に珍しいね」


 ゆっくりと開かれた扉の向こうにいるジルは、珍しいと言いながらも驚いた顔はしていない。

 夜遅くに訪ねるのがはしたないことは、私もわかっている。それでも、どうしても聞きたいことがあった。


「少々お聞きしたいことがありまして……入ってもいいですか?」

「それで駄目だと言ったらどうするつもりなのかな? ならしかたないと、帰るかい? まあ、私は優しい師匠だからね。弟子の頼みを無下に断りはしないよ。それに研究室は弟子のためのものでもあるからね。好きに入っていいよ」

「ありがとうございます」


 許しを得て、研究室に入る。日中との差はほとんどない。ジルがくつろぐ長椅子には掛布団のひとつもないし、なんならジルの恰好まで日中と同じだ。

 ほんの少しだけ部屋の照明が落とされているような気はするけど、気のせいかもと思える程度の変化しかない。


「それで、私の可愛い弟子はどうしたのかな? 私の可愛い弟子なら直に魔物を見て怖気づいた、なんてことはないだろうし……ああ、困ったな。何を言いにきたのか見当もつかないよ」


 長椅子に寝そべっていたジルが上半身を起こして、わざとらしく首を傾げる。

 大仰な振る舞いや大げさな言動はいつも通りなので、わざわざ口を挟むことはしない。下手に会話を繋げると、そのまま煙に巻かれる可能性が高いから。


「単刀直入に伺います。魔物を逃がしたのは……ジル。あなたですか?」


 分裂型の魔物は繁殖速度こそ早いけど、それ以外はいたって普通。長年弟子を続けているアンリ殿下が、二日も追わなければいけない相手には思えない。

 その疑問は、実際に魔物を見てからいっそう深まった。うごめく姿は俊敏に動けるようには見えなかった。それに、アンリ殿下が言っていたような姿をくらますような素振りも見せていなかった。


 ならどうして、アンリ殿下が追跡に手間取ったのか。


「私の可愛い弟子はおかしなことを言うね。どうして私がそんなことをすると思うんだい?」

「それは知りませんが……ジルならしてもおかしくはないかなと思いました。」


 完全に、ただの推測でしかない。証拠もなく問いかける私に、ジルは金色の瞳を細める。

 不躾だし無礼だし失礼なことは重々承知している。それでもジルが何かしたのではと思ってしまうのは、今回の依頼におかしな点が多すぎるから。


 追跡に手間取るような手練れなら、調査の段階でわかったはず。だけどアンリ殿下は兵で対処できると判断した。

 そしてノエルは今回の魔物を、生活圏をあまり広げないタイプだと言っていた。それなら、逃げるにしても元いた場所の近くに身を潜めるはずなのに、他領に逃げこんだ。


 すべて偶然だと片付けることができる程度ではあるけれど、珍しいことに変わりはない。

 そして、ジルはいつも依頼を面倒くさがる。なのに今回の依頼の時だけは、珍しくやる気を見せていた。ノエルが請け負ってしまったけど。


「それで私のせいだと決めつけるだなんて、私の可愛い弟子はひどいね。そんなことをして私になんの得があるというんだい? そりゃあね、私の可愛い弟子を虚仮にした者が困ればいいと思ってアンリの邪魔をしたりはしたよ。だからといって私のせいだと言うなんて……ああ困ったな。私の可愛い弟子に疑われて傷ついたから、明日は寝こんでしまって依頼がきても手をつけられなさそうだ」

「認めていますよね、それ」

「まあ、隠す必要もないからね」


 しれっと言うジルに、苦笑を浮かべればいいのか脱力すればいいのかわからない。

 師匠を疑うなんてと悩んだりもしたのに、こんなあっさり認めるなんて予想していなかった。もう少しごまかしたり言いくるめようとしたりして、よかった勘違いだったと安心したところで爆弾を落としてくると思ったのに。

 いつものジルならそうしていた。本当に、今回は珍しいことが多い。


「……どうしてこんなことを? 弟子を困らせるにしても、今回はやりすぎだと思います」

「私のことを君はなんだと思っているのかな。私はね、弟子を困らせるのはもちろん好きだけど、それしか趣味がないわけではないんだよ。弟子を困らせた相手を困らせるのも好きだからね。それに私の可愛い弟子を虚仮にした者を困らせたかたったと言ったはずだけど、師匠の話をちゃんと聞いていなかったのかな?」

「聞いていましたけど……本気で言っているんですか?」

「ああ、もちろん。私はいつだって真面目で本気なつもりだよ。つもりだけだけどね」


 それは真面目でも本気でもないのでは。


「それは……ええ、と、どうして、ですか?」

「魔物を討伐するために地形を変えるのはよくある話だろう? クロなんとかとかいうのを呪うのは駄目でも、そのぐらいならまあいいかと思っただけだよ」

「よくある話ではないので前提からおかしいですけど……私が聞きたいのはそういうことではなく、どうしてそんなことをしようと思ったのですか? もし誰かにバレたら、咎められるのはあなたなのに……」


 魔物に加担するのは、普通の人はもちろん、何かと優遇されている魔術師でも許されない行いだ。最終的に討伐するのだとしても、わざわざ逃がすなんて。誰かに知られたら、どうするつもりだったのか。


「私はね。私を馬鹿にする者が許せないんだよ。それが私の可愛い弟子でも同じことさ。私の可愛い弟子を虚仮にするのなら、それ相応の報いを覚悟してもらわないとね」


 穏やかに微笑むジルに、ため息を落とす。

 ジルとノエルはあまり似ていないけど、兄弟だと知りながら意識して見ると、少しだけ似ているところがある。言動と表情が噛み合っていないところとか。

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