彗星の本 二節 ハレーの訪問
ロンドンを覆う煙と霧は実に濃い。
太陽の光を遮断しているせいか、空気は肌寒く薄着をしている少女にとってはやや酷であった。
忙しなく行き交う人々の様は正に大都市である。
圧巻にとる間もなく、少女はある人物の後を必死に追っていた。
馬車1台分ほど離れた先を行くのは細身の男性。緑髪は顎まであり、左右から細長い髪が伸びていた。頭には特徴的なアホ毛が2本。観察の標的と言わんばかりのあからさまな見た目をしたその人は、足早に先へと歩いていく。
そして、その後ろをケヴィンは小走りで追いかけていた。
何故男性を必死に追いかけるのか。それはケヴィンが持つ好奇心からでもあったが、もう1つは男性の独り言にあった。
「アイザックさんに聞きに行かないと……!」
「まじであのアイザックさんなのかな……」
1冊目の本を読んだ際、ケヴィンはアイザック・ニュートンという天才数理学者と出会っていた。
奇妙な出会いではあったが、彼の存在はケヴィンの記憶には新しい。もう天才に会うのは懲り懲りだと思わせるぐらいには記憶に植え付けられていた。
だが男性の口にするアイザックがもし、あのアイザックであれば。その正体を確かめるまで気が済まない少女は追いかけることにしたのだ。
息が上がるまで追いかけると男性は豪華絢爛で歴史ある建物に入っていった。
少女もその後に続いていくと、どうにも見覚えのある建造物だと気付く。
「ここ、ケンブリッジだよね……」
前回訪れたことのあるケンブリッジ大学であると気付くのは容易かった。
だが呆気に取られている暇はない。徐々に疑惑から確信へと変わる感覚を心に携えながら少女は追いかけ続ける。
足を動かし続けると男性はトリニティ・カレッジという大学敷地内へと足を踏み入れた。数段階段を上り、建物内の曲がり角を幾度か通過する。
少女の鼓動は格段に速くなっていた。追いかけ続けたことによる体力の限界もあるが、それはもっと心理的なものから起因していた。
青年はある扉の前に立ち止まる。そして丁寧にノックを二回ほどしたあとに______
「ニュートンさーん!!!!!!!」
中からの返答を聞くことなく勢いよく扉をあけたのだった。
「あ」
「あ」
「あ」
三者それぞれの口から一言零れる。感嘆、後悔、驚嘆。それぞれの思惑と感情が交差する。
それもそれのはず、男性が扉を勢いよく開けた衝撃で部屋内に積まれていた書類が一気に体制を崩したのだ。
机に向き合っていた「アイザックさん」は倒れ込む書類を支えることは不可能だ。
扉を勢いよく開けた「ハレー」はただ立ち尽くすことしかできない。
そして、それを全て後ろから傍観していた「ケヴィン」は開いた口がふさがらないと言わんばかりに顔を青くしていた。
「う、うわ、うわーっっっ!?」
「す、すみませーーん!!!!」
「あーあ……」
ばさばさと、紙は音をたてて倒れ込み巻き込まれる白髪の男性は悲鳴を上げた。それに対して、必死に謝罪を口にする緑髪の細身の男性。そして「やっちまった」と肩を落とす少女の姿があった。
しばらくして、部屋に広がるのはまた珍妙な光景であった。
床に正座をしてこうべを垂れるエドモンド・ハレー。その前に仁王立ちをする笑顔のアイザック・ニュートン。それを隣で死んだ魚の目をして傍観するケヴィン。
「大変申し訳ございましぇ……」
「おい、貴様どういうつもりだ?」
「すみましぇ……」
謝罪を何度も何度も口にするハレーは左右に伸びた細い緑髪を力なく揺らしている。
仁王立ちをして鬼の形相を浮かべるアイザックは恐怖でしかなく、ケヴィンは小さく「こわ」とこぼした。
そのやり取りが五、六度繰り返されるとアイザックも「まぁ、とりあえずいいだろう」とため息をつく。床に散乱した論文や書類を一枚一枚拾い上げていると、ハレーは「あのぉ……」とおずおず聞き出した。
「なんだ?」
「実はニュートンさんにお伺いしたいことがあってぇ……」
「いやまず名乗れよ」
すかさず言葉を挟むアイザックではあるが、口にしたことは正当極まりない発言であった。
ハッと目を見開いたハレーはぱたぱたと忙しなく身なりを整え、頭を下げる。
「僕、エドモンド・ハレーと申します。オックスフォード大学卒業で今はしがない数学関係の学者をしている者です。」
「はぁ……そうか……」
力のない相槌を打ちながらも、顎を使い話を続けろというアイザックを見てハレーはまた口を開く。
「先ほど言った通り今日はお伺いしたいことがありまして」
「だからなんだ」
「その……」
続きを催促するアイザックを前にして、ハレーはやや口ごもる。だが、ここで立ち止まっても仕方ないと理解しているのか、息を吸い込み続きの言葉を口にした。
「火星、彗星の軌道についてなのですが……その計算がわからず……」
「あぁ、そんなことか」
「そんなこと!?」
アイザックは落ちていた書類をかき集めながら顔をあげる。その視界の先には驚嘆の色を濃くしたハレーがいた。
何気ない彼の一言はハレーに衝撃を与えるのに十分であった。今度はハレーが崩れそうになるのを必死に耐えながら話の続きを待ちわびていた。
「とっくに計算できてるけど」
その一言でハレーを卒倒させるのには十分であった。
________どの道にいっていいか分からないのであれば、どこかにたどり着くまで進めばいいさ!
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