林檎の本 五節 重力商人

アイザック・ニュートンの林檎伝説は知る人ぞ知る話である。木から落ちる林檎を見て、万有引力の法則を導くに至ったという話だ。義務教育を経た者なら一度は聞いたことがあるだろう。

もちろん、ケヴィンもその話は知っていた。

体感時間が約1週間ほどすぎた彼女はその時間を殆どアイザック・ニュートンと共にしていた。逸材天才と呼ばれる彼の言動を間近に見ていた少女の感想はさまざまだが、一重に言えば「変人」である。

部屋を改造してまで光学の実験を行う執念や、一日中机の前に食いついて研究し続ける姿勢は凡人ではなかなかにできる所業ではない。ケヴィンは段々と慣れつつあるこの状況を楽しんでいた。いつ終わりがくるかも分からないこの日常を、ただ本を捲るように眺めることを楽しんでいた。

しかし異変、変化というのは突如訪れるのである。

「お前、最近体薄くね?本当に霊だったか。」

「それは違うと思います。」

ケヴィンの身体が徐々に実体を伴わなくなっているのだ。あくまでアイザックの視点からでしかないが、不自然といえるほどに体が薄い。

「ん~…。そもそも自分がなんでここにいるかもよくわかんないし…。仕方ないかな。」

「仕方ないのか…。」

少女の呆気ない反応に呆然とする青年は、いつもの如くため息をつけば卓上に置いた一冊の本を手に取る。

「じゃ、俺本読んでくるわ。」

「どこで?」

「庭。」

端的に言い残せば、自室の部屋から外へと足を運ぶ。緩慢な動作で階段を下に降り、玄関の扉を青年は開く。

ケヴィンは片手に何の本を持っているのか理解ができなかった。英語と日本語であれば理解はできるが、あいにくこの時代の文章における共通語はラテン語である。ただの女子高生に読める程簡単なものでもないのだろうとなかば諦めていた。

「…よっこらしょ。」

家を出てすぐの場所に枝を生い茂らせた木が一本堂々と生えていた。いくつかの熟れた林檎を実らせ、太陽の光を赤赤と反射している。みずみずしく輝いた農村の光景を背景にして、木の下に座る青年の図はなんとも絵になった。

本を読み、考え事をしだしたアイザックは外部からの情報を殆ど受付なくなる。声をただかけても反応を返さず、自身の思惑へと没頭してしまうのだ。周りが極端に見えなくなった彼に話しかけても意味は無いと理解しているのか、ケヴィンも傍でただ立ってその様子を眺めている。


風が頬を撫でる。柔らかい木々と草花の匂いを混ぜた風は髪を揺らし、いつぞやの暑苦しい風を彷彿とさせた。

不意に、視界に太陽が映る。屋根の頂上まで登り煌めく光を放つ太陽ではなく、オレンジ色の黄昏を思い出させる夕焼けだった。

あの日の帰り道。

少女は一つの古本屋へと迷い込んだ。

過去の人と今の縁を結ぶ不思議な古本屋。

眼前のアイザック共々の視界が揺れる。ノイズが走りだす。

突然風が強く吹いた。アイザックの絹のような白髪を撫で、木の枝を撫で葉がカサカサと音を鳴らす。


ぽとっ。

林檎が落ちた。

アイザックの前で林檎が一つ落ちたのだ。

音を立てて眼前に落ちたものを、アイザックは珍しく意識を向けた。

そして、空に浮かぶ太陽に目を向ける。

もう一度、りんごを見つめる。


またノイズが走る。視界がホワイトアウトしていく。

青年は口を開いた。

「…なんでリンゴは落ちたんだろうな…。」


その言葉を最後に少女はその場から忽然と姿を消してしまった。


_______返事は全く無かった。これはほとんどおかしなことではない。彼らは全員食べられてしまったからだ。


魔法使いは本を捲る。ぱらぱらと本を捲る。

そして、ぱたりと本を閉じた。

「おしまい。」

そう、言葉を残して閉じたのだった。

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