花鱗を喰む
KaoLi
第1話
昼頃になれば少しは治まるであろうと言われていたはずの雪は、いまだに澄み渡った青空から降り続けている。
広大な庭園には寒色の花々が咲き誇り、冬であることを嫌なほどに強調していた。
ひとりの少女がその庭を駆けていた。陶器のような白玉の肌を持つ彼女は、寒さのせいで鼻頭や頬を紅く染めている。奥の方で数人の使用人が「お待ちくださいまし姫君」「このままではまたお風邪を召されてしまいまする」と少女を追いかけていた。けれど、当の本人は聞く耳を持たず、雪に意識を奪われている。
いつの間にか使用人を撒くことに成功した少女は、ここぞとばかりに雪に触れた。しゅわっと小さく音を立て、手の体温によって静かに溶けていく。儚げなその溶け方がこの国に降る雪の特徴だった。
普段は自由に外出することも容易にできない分、実に心の向くままに、彼女は庭に降る雪を楽しんだ。しかし、そうはいえども彼女は幼いながらも自らを弁えていた。
(あまり遠くに行ってしまうと、きっとお父さまが心配してしまうわね)
彼女の肌のように白い吐息が空へと溶けていく。日が暮れる前に戻らなければ。そうして
「あら」
そこには珍しい色の花びらを纏った青年が雪に埋もれ倒れていた。
これがスニェークノーチ国の姫君であるリチラトゥーラ姫と、のちに彼女の使用人となるロウの邂逅であった。
❅
スニェークノーチ国は一年中季節が冬の寒い雪国であった。
和国のように四季があるわけではなく、作物も満足に育たないような素朴な地域であったが、先代王が改革した輸出入貿易の発展により、かの国の国民は豊かな生活が可能となった。
かの国の姫君であるリチラトゥーラ姫は好奇心旺盛な少女であったが、好奇心に対して体は強くなく、雪の中へ飛び込もうものなら翌日は寝込んでしまうような御方であった。これでも幼少期からしてみれば随分と体が強くなったほうだが、風邪をひくことも少なくなかった。
使用人の言う事を聞かないことで有名であった彼女だったが、それは昔の話。近年ではそのわがままぶりは垣間見ることが少なくなったという。
それは三年前、偶然彼女が救った青年に起因している。
❅
「姫君ー、どちらにいらっしゃいますかー」
気の抜けた声が屋敷内をふらふらと浮遊している。その声を発しているのは、姫君の専属使用人であり『間抜け者』と
爵位のある貴族でもなければ、そういった使用人としての心構えや教育を受けていた者でもない。ただ彼は姫君の必死の懇願によってこの屋敷にいることを許された、唯一の使用人であった。
庭に出れば一面が白銀の世界と化していた。こんなことは日常茶飯事だと三年もいれば嫌でも理解できるが、それでもこの白銀はこの国が誇る観光資源のひとつであった。
青年は堅苦しい正装が苦手で、ひと目を盗んでは崩していた。庭にひとの気配はないようなので呼吸をするようにして着崩した、その瞬間——。
「ロウは本当にそういうカッチリとした服が苦手なのね」
――と、背後から声を掛けられ、驚きのあまりに小さく悲鳴をあげると、青年ロウは抵抗する間もなくそのまま雪の絨毯に転げてしまった。
「わっ」
幸い、雪の絨毯の柔軟性に助けられ怪我をすることは回避した。けれど雪とは水分である。彼の体温によって倒れ込んだ部分が瞬間的に溶け水と化し、背中が少しだけ濡れてしまった。
冷たさに表情を歪めていると、彼の主である姫君が目の前で微笑んでいた。楽しそうで何よりだよ、と溜め息を零しながらロウは体勢を整えた。
「……リチラトゥーラ姫……こんなところにいたんですねー」
「ふふ、似合っているのにもったいないわ」
「おれはこういう服は
微笑む彼女を横目にロウは身分の差など関係なくリチラトゥーラに対し敬語を
「知っているわ」
「じゃあなんで着させる」
「それがここに留まるための条件だからよ。忘れてしまったの?」
そうだった、とロウは今度はわかりやすく肩を落とした。
彼は三年前、王宮庭園で行き倒れていたところをリチラトゥーラによって救われた。幾分か快復した彼が、その借りを返すために何を望むかを聞いたところ、「ではわたくしの専属の使用人になってちょうだい」と斜め上の要望を言われたことが始まりだった。ロウはもちろん、ほかの使用人や父親である国王、その場にいた誰もが反対をしたが、彼女が折れることはなかった。
その様子を見兼ねた国王は、リチラトゥーラにひとつだけ条件をつけた。その条件さえ守ることができればロウを引き取ることを許そうと約束をさせた。
そのうちのひとつがロウに対する正装の着衣だった。拾われた際にみすぼらしい身なりをしていたことが原因であったが、王宮のいち使用人として働くのであれば最低限の身なりを整える必要があったのである。そしてわがままを通すため、彼と同じようにリチラトゥーラ自身にも条件が課された。
「忘れるものか。お陰で窮屈でたまらない」
「わたくしはお前の監視を課されたわ。とても嫌。だから同じね」
「おれを見てればいいだけだろ。
「お前を疑うことが」
リチラトゥーラは真剣な目をしてロウを見つめた。初めは軽く捉えていたロウであったが、次第に彼女の雰囲気に本気で嫌だという感情を感じ取った彼はリチラトゥーラの気持ちを真剣に受け止めようと決めた。
「そりゃどーも」
少し落ち込んだ様子のリチラトゥーラを気遣い、ロウは彼女の頭をくしゃりと撫でた。一瞬何をされたのかリチラトゥーラは反応に戸惑ったけれど、突然の彼のデレを理解し始めるととても嬉しそうにした。
「それより姫君、国王さまが探していましたよ。なんでも火急の用だとか」
本来の目的である所用を伝えると、リチラトゥーラは表情を曇らせた。
「……姫君?」
「嫌よ」
「嫌って……これもおれの仕事なんで。わがまま言わんといてくださいよ」
「嫌」
リチラトゥーラは嫌だと言うだけで
ロウは溜め息混じりにその場にしゃがみ、リチラトゥーラの目線に
「何も言わなけりゃ、伝わるものも伝わらないっすよ」
「ロウの敬語嫌いよ」
「…………はい?」
思わぬ回答にロウは無意識のうちに拍子抜けた声を上げていた。
「お前はわたくしと対等なのよ。ばあやもみんなもお前を下に見る。お前はそれを受け入れているし、わたくしのために無理して言葉を変えているわ。それが嫌」
「いやいや、そうしなきゃ、あんたの立場ってものが……」
「だったらせめてふたりきりのときくらい、わたくしの前では対等に接しなさい。これは命令よ、ロウ」
リチラトゥーラは幼い子どもであった。『身分の違い』というものを何を思ってか学ぼうとしなかった。
そこには誰とでも対等でいたいからという彼女の心からの願いが関係していた。何よりもリチラトゥーラは偏りを嫌った。
「……分かった。分かったから。一緒に国王さまに会いに行くぞ、リチ」
名前ではなく、さらに親しい者にしか呼ぶことを許されない『リチ』という愛称で呼ばれた彼女は、先ほどとは打って変わって満面の笑みをロウに見せた。「うん!」と元気よく頷くと、リチラトゥーラはロウに飛びついた。少しバランスを崩しかけたが危機一髪で倒れることは回避し、ロウはリチラトゥーラを横抱きにして国王のいる公務室へと向かったのだった。
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