工藤さん

気づかないうちに、眠っていたようだった。


目の腫れは、少し引いた気がした。


コンコン


「はい」


「いっちゃん、おはよう」


「おはよう」


「大和が、リビングにスーツ置いてるから」


「ありがとう」


「いっちゃん、寂しくない?」


「えっ?」


「お母さんは、お父さんがいるよ。でも、いっちゃんが、悲しい時、寂しい時、誰か隣にいてくれないかな?って、思ったりするのよ。だって、お母さんもお父さんも、いっちゃんの寂しさを全部拭えないでしょ?」


「大丈夫だから」


そう言った僕を母は、いつものように抱き締めた。


「嘘つき」


「母さん」


「あの日も、そう言ったでしょ?血だらけの服で帰ってきて、大丈夫だからって。お母さん、あのいっちゃんの目が忘れられないのよ。あの日から、ずっと…。真っ暗な闇をずっと見てる目。犯罪者にだけは、ならないでね。」


「ならないよ」


「約束して、何があっても、いっちゃんの両手で人を殺さないって」


「わかった、約束する」


僕は、お母さんをこの両手で抱き締めてあげた。


「約束ね、いっちゃん」


「はい」


僕も、自分でわかってる。


あの日、犯人が目の前で飛び降りなかったら殺していた。


あの、美代を抱き締めた日から僕は、心の中が真っ黒になった。


「じゃあ、降りてきてね」


「うん」


僕は、鞄を取り出した。


「いちには、これが似合うよ。」


体液で、まみれた体を拭いてあげたかった。


「離れて下さい」


通行人が、通報して警察がきた。


抱き締め続ける僕に、警察が言った。


遺体としか見られていない愛する美代の裸を知らないおっさんが見ていた。


「見るなー、見るなー」


「落ち着きなさい、落ち着きなさい」


獣を見るように、睨みつけた。


あれから、工藤刑事は、僕を支え続けた。


「大和君、おめでとう」


「工藤さん、ちょっと待ってな」


二階から降りると工藤さんがいた。


工藤さんにとって、美代の事件は最後の事件だった。



「工藤さん、おはようございます」


一季いちき君、元気にしていたか」


「先月も、会いましたよ」


「そうだったな」


工藤秀一くどうしゅういちさんは、定年退職した後、僕の家の近所で居酒屋を始めた。


あの日見た僕の目が、忘れられないと話した。


子供がいない工藤さんは、奥さんと二人、僕を支えてくれた。


「工藤さん」


「なんだ?」


「美代の事件なんですが」


「あぁ」


「プリンスの模倣犯だって、知っていましたか?」


「あぁ、知っていたよ」


「それで、プリンスは?」


「彼は、執行猶予がついたと聞いているよ。この広い世界のどこかで生きているはずだよ。」


「なぜですか?」


「未成年だったからだよ」


「美代の事件の時は、あいつは外にいたんですか?」


「さあ、どうだったかな?」


工藤さんは、はぐらかすように外を見た。


「プリンスは、死刑を望んだよ。だけど、許されなかった。あいつは、酷い虐待を受けていてな。ウジのはった死骸を食って生きてたんだ。」


「そんなの殺していい理由になんねーだろうが」


「ならないよ。一季いちき君。私は、プリンスを許すつもりはない。でも、許した大人がいるんだよ。そして、法律もまたそれを許した。」


工藤さんは、立ち上がった。


「一季君が、何を考えてるかしらないけれど…。その手で、人は殺さないでくれ。この通りだ」


工藤さんは、僕に深々と頭を下げた。


「約束しますよ。でも、もし、僕が約束を守れなかったら…。工藤さんが、僕を…」


「わかってる」


工藤さんは、父や母に聞こえないように、僕の耳元で呟いた。


「殺してやる」


僕は、その言葉に涙を流した。


「だから、今日は俺の結婚式やから」


「そうだったな」


「ほら、工藤さんも行きましょう」


「ああ」


そう言って、僕達は父の運転する車に乗って、結婚式会場に向かった。

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