『ヒロインの怒り』


(その結果がこんな仕打ちだなんて。)


 多くの味方に守られながら目の前の理不尽をただ見ているだけの自分自身にシエルは怒りを覚えた。


 王族であるシリウスに失礼のないように気を遣いながら彼の腕を逃れようとして不意にベガと目が合う。ベガは無様な姿を見せまいと扇子で顔を隠し、シエルとの間に壁を作ってしまった。

 対してシエルはベガから目を逸らさなかった。四面楚歌になっても毅然としているベガの在り方をシエルは美しいと思ったのだ。


(貴女様は本当に強い御方だ。)


 学園ではベガを畏怖していたがいつしか憧れとなり、「彼女のような才媛になりたい」というシエルの目標にもなった。その頃の自分を思い出したシエルは決意を固めるとシリウスに告げる。


「失礼します、王太子殿下。」


 シリウスの身体を丁寧に押し退けて彼の腕からゆっくり抜け出すとシエルはドレスを両手で少し持ち上げ、片足の膝を軽く曲げて背筋を伸ばしたまま頭を下げた。


「先刻の無礼、深くお詫びを申し上げます。発言をお許し頂けますか?」

「シエル、どうしたんだい?急に改まって。」

「今宵は多くの方々がお見えになられております。ライラック公爵令嬢も例外ではございません。」


 今夜催されているのはシエルの社交界デビューも兼ねた正式な夜会である。爵位の高い貴族のみならず王族も参加している場で許嫁の断罪を持ち込むなど王太子にあるまじき行為だ。


 恋仲に向けるような甘い言葉を囁く相手の大切な日を台無しにするのだからシエルはシリウスに幻滅していた。

 元よりシリウスへの好意など最初から無い。彼が何を勘違いしたのか今日に至るまでずっと絡んできただけである。

 

 両家が決めた婚約を王太子ともあろう御方が何の考えもなしに婚約破棄を発表すれば許嫁のベガのみならず御自身も大衆の目に晒されることをシリウスが理解しているとは到底思えない。


(この場を丸く収めるには骨が折れそうだな。)


 シエルが彼の両親である国王と王妃を横目で見ると「聞いてない」と言わんばかりに驚愕している姿が視界の端に飛び込んできた。


(国王陛下と王妃殿下にいたってはシリウス様の発言に驚かれていらっしゃる。)


 踏み込めない領域が其処にあっても恐れてはいけない、とシエルはゆっくり顔を上げて前を見据えた。

 シリウスが望むままに事が運べばベガのみならず、双方の関係者にも長く続く悔恨が残ってしまう。


(デネブ様、申し訳ございません。)


 今後の対応によってシリウスの立場は失い、ベガは『悪名高い公爵令嬢』の汚名を背負う羽目になる。

 そうなるくらいならば平民の自分が厚かましく出しゃばって『悪役』になった方が手っ取り早い。


「殿下のおっしゃるとおり、私は学園でライラック公爵令嬢から大変厳しい言葉を何度も受けてまいりました。」


 ベガは伏せていた目を見開いてシエルを凝視するが、シエル本人は覚悟を決めて言葉を続けた。


「ですがそれらは平民の身である私を案じての忠告でした。もしライラック公爵令嬢が貴族としての道を踏み外していると殿下が御判断なさるのであれば」


 それ相応の場を設けるべきだと御提案させていただきます、とシリウスに忠言しようとした時である。


「君は何を言っているんだ?」


 シリウスの問い掛けにシエルは絶句する。此方の心情を知る由もなくシリウスはきょとんとしていた。何の疑いもなく尋ねる彼にシエルは唖然とするしかなかった。


「皆様、驚くのも無理はありません。本日の夜会はシエル嬢の社交界デビューと同時に僕と彼女の婚約発表でもあります。」


 むしろ貴方様こそ何を言ってるのですか?と問わずにいられないシエルをよそにシリウスは高らかに宣言した。


 それを聞いたベガは表情を強張らせる。必死に平静を装うが扇子を持つ手は微かに震えていた。『恋』で変わり果てた婚約者を直視できず、彼女の視界は次第に歪み始めている。

 動揺せずにいられないのはシエルも同じだ。殿下こそ何をおっしゃるのですか?とシエルはシリウスに問い質したかった。


 シリウスは学園で生徒会長を務め、次期国王としても多くの生徒から敬愛された。シエルも彼を敬愛していた。文武両道で誰に対しても分け隔てなく接するシリウスに憧れを抱いて一人の人間として尊敬し、ベガの次に目標としていた人物だった。


 けれども今はどうだ?


 十分な証拠が無いベガを断罪して婚約破棄、厄介払いをしたら直ぐ他の女に切り替えようとしている。こんな王太子が果たして国に必要か?


 ベガが公爵令嬢としての品性を疑う『悪事』を行っていたならば側近達に身辺を徹底的に調査させた後、御両親に証拠とともに報告した上で然るべき対処を仰ぐべきではないのか?


 問い詰めたい衝動を抑えるシエルの中で治まりつつあった怒りが再び燃え出した。シリウスの言葉を疑わずに傾聴する貴族達にも腸が千切れそうになるが理性で懸命に蓋をした。


「驚くのも無理はない。僕は君を愛してるんだ。」

「で、殿下、とても身に余る光栄ですが、平民である私にはもったいない御言葉です。」


 まずはシリウスと話し合うべきだ。誠心誠意に説得すれば聡明なシリウスはきっと分かってくれる。

 事を荒げないように言葉を紡いでいたシエルの頭部に温かい感触が伝わる。熱は頭部から髪の毛、そして頬に移動した。


 それがシリウスの手だと覚ったシエルは「御戯れを」と笑顔でやんわり窘めようと自分の手を重ねた直後、身分とか理性とか淑女としての慎ましさその他諸々を全部明後日の方向に殴り捨てるように彼を思い切り投げ飛ばしてしまった。


 刹那の出来事に誰もが反論できず何が起きたのか理解すら追い付かなかった。


 宙を飛ぶシリウスに宰相候補のベテルギウスが巻き込まれ、騎士見習いのプロキオンが身を挺して受け止めようとしたが二人分の体重に敵わず体勢を崩して倒れ、彼らとは反対の位置に立っていたアルタイルは開いた口が塞がらず一部始終を茫然と見ていた。


 会場が静寂に包まれる。


 肩で息をしながら我に返ったシエルは非常によろしくないことをやらかしてしまったと気付くや否や「そ、それでは皆様失礼します」と頭を下げてから一目散に逃げ出した。

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